28-3669~3670意訳「天界の秘義」創世記Ⅲ
3669.「またあなたが諸々の民の集まりの中に居ることを為されるであろう」が、豊富を意味することは説明なしに知られることが出来よう。「諸々の民の集まり」は特に真理について属性付けられる。というのは、聖言において「諸々の民」によって真理の中に居る者達が意味されるからである。そのことについては1259, 1260, 2928, 3581番に認められよう。しかし「諸々の民族」によって善の中に居る者達が意味される。1259, 1260, 1416, 1849番を参照、ここでは「ヤコブ」によって表象された真理の善について述べられているので、「諸々の民の集まり」が言われている。というのは、真理からの善と善(善から真理がある善)とは異なっているからである。ここで真理からの善は「ヤコブ」であり、また善(善から真理がある善)は「エサウ」である。真理からの善は善(善から真理がある善)と比較して逆にされたものである。再生された者達になる前の再生されている途中の者達は真理からの善の中に居るが、しかし善(善から真理がある善)の中に居る者達は再生された者達の場合と同じである。彼らの状態は逆にされたものであることは3539, 3548, 3556, 3563, 3570, 3576, 3603番に認められよう。
3670.「そして、神はアブラハムの祝福をあなたに与えるであろう」が、神的なものそのものと自然的な善、および真理との連結を意味することは、祝福の意味が連結であることから知られよう。そのことについては、上の3660, 3667番に示された。また「アブラハム」の表象が父なる神と言われる主の神的なものそのものであることから知られよう。そのことについては2011, 3251, 3439番に示された。そしてそれらのことはヤコブに言われているので、またその者によって自然的な神的な善と真理に関する主の神的な自然的なものを表象するので、それは主御自身の神的なものと自然的な善、および真理との連結である。これが内意における「アブラハムの祝福をあなたに与えるであろう」によって意味されている。文字通りの意味におけるアブラハムの祝福によって、また同じく後に続く言葉の「あなたの在留の地をあなたが相続するために、それを神がアブラハムに引き渡された」によってカナンの地の所有が意味される。聖言の歴史的なことはより天的なものとより隠されたものを含まないと信じる凡ての者達はそれらの言葉もまたそれらの意味に従って認める。特にユダヤ民族は他の凡ての民族と民よりもそこから自分達に特権を要求する。彼らの父祖達もそれらを同様に理解し、また特にヤコブはそのように理解した。ヤコブがどのような者であったかは、直ぐ上の3667番に言われたことから知られることが出来よう。即ち「彼はエホバを知らず」、彼に形体的なものと世俗的なものが与えられるのでなければエホバを認めることを欲しないような者であった。しかし聖言の中のアブラハムによってアブラハムが意味されたのではなく、イサクによってイサクが意味されたのでもなく、またヤコブによってヤコブが意味されたのではない。「ヤコブ」によって神的なものに為された自然的なものに関する主が表象されたことは充分な説明から明らかである。表象する人間がどのように悪い者であるにせよ、善いものであるにせよ、同様に表象し、また悪い者も等しく表象することが出来、また主の神的なものを表象した。そのことは665, 1097, 1361番に認められよう。
[2]それと同じことが今日もまたある表象のものから知られることが出来よう。というのは、凡ての王は誰でも、またどんな性質であっても彼らの許の王権そのものによって主を表象するからであり、同様に、凡ての祭司は誰であっても、またどんな性質であっても祭司的なものそのものによって主を表象するからである。王位そのものと祭司的なものそのものは神聖なものであり、奉仕する者がどのような性質であってもそれは神聖なものである。それ故、悪い者が教える聖言も、洗礼と聖餐式、および同様な秘跡もまた等しく神聖なものである。そこから誰でも王は彼の王位の神聖なものについて自分に要求することは出来ず、誰でも祭司はその祭司職の神聖なものについて自分に要求することは出来ない。それから自分に要求するほど、或いはそれを自分に帰するほど、それだけ彼は自分自身に霊的な盗人の烙印を押し、また霊的な盗みの烙印を押すことは熟知されている。また同様に、彼が悪を行うほど、即ち正義と公正に反して行なうほど、また善と真理に反して行なうほど、それだけ王は神聖な王位の表象のものを取り去り、また祭司は神聖な祭司の表象のものを取り去り、更に反対のものを表象する。それ故、表象のユダヤ教会において特に祭司達が奉仕した時、その中にあった神聖なものについてあれほど多くの律法が与えられた。その事柄については神的な主の慈悲により更に多くのことが後に続く箇所において言われよう。