5-7163~7169意訳「天界の秘義」出埃及記Ⅰ
7163.二十二~二十三節、「そして、モーセはエホバに立ち返り、また言った。主よ、なぜあなたはこの民に悪を為されたのですか? なぜあなたは私をここへ差し向けられたのですか?
そして、私があなたの御名において話すためにファラオに行ってから彼はこの民に悪を為し、またあなたはあなたの民を救い出すことで救いませんでした。」
「そして、モーセはエホバに立ち返り、また言った」は、神的な律法からの苦情を意味し、「主よ、なぜあなたはこの民に悪を為されたのですか?」は、真理と善の中に居る者達が間違った原理により過度に害されることを意味し、「なぜあなたは私をここへ差し向けられたのですか?」は、それでも神的なものから発している律法は異なって言うことが認められる時を意味し、「そして、私があなたの御名において話すためにファラオに行ってから」は、間違った原理の中に居る者達に現れた神的な律法から命じられた時を意味し、「彼はこの民に悪を為した」は、その時、間違った原理が吹き込まれたことによって教会の真理と善の中に居る者達の害されることが認められたことを意味し、「またあなたはあなたの民を救い出すことで救いませんでした」は、間違った原理からの攻撃の状態から連れ出されなかったことを意味する。
7164.「そして、モーセはエホバに立ち返り、また言った」が、神的な律法からの苦情を意味することは、「エホバに立ち返ること」の意味が、間違った原理と悪の中に居る者達から真理と善の中に居る者達への攻撃について神的なものへ知らせることの苦情であることから知られよう。「エホバに立ち返ること」が苦情であることは後に続く箇所から明らかである。また「モーセ」の表象が神的な律法であることから知られよう。そのことについては6723, 6752, 6771, 6827, 7014番に示された。それ故、神的な律法である真理からの苦情である。そのような支配が真理の中に居る者達の上に居る間違った原理の中に居る者達にある。
7165.「主よ、なぜあなたはこの民に悪を為されたのですか?」が、真理と善の中に居る者達が間違った原理により過度に害されることを意味することは、「悪を為すこと」の意味が間違った原理により過度に害されることを許すことであることから知られよう。なぜなら、真理と善の中に居る者達について言われる時、それが霊的な意味において悪を為すことであるからである。またここの民である「イスラエルの子孫達」の表象が、直ぐ上の7162番のように霊的な教会からの者達であることから、従って教会の真理とその善の中に居る者達であることから知られよう。
7166.「なぜあなたは私をここへ差し向けられたのですか?」が、それでも神的なものから発している律法は異なって言うことが認められる時を意味することは、「なぜここへ」の意味が異なって言われる時、なぜそのようにあるかであることから知られよう。またそれらを自分自身から言う「モーセ」の表象が神的なものからの律法であることから知られよう。そのことについては直ぐ上の7164番に示された。また「差し向けられること」の意味が発することであることから知られよう。そのことについては4710, 6831番に示された。それ故、「なぜあなたは私をここへ差し向けられたのですか?」によって神的なものから発している律法は異なって言うことが認められる時を意味する。それは間違った原理からの攻撃について嘆く者から言われるので、神的なものからの律法が異なって言う如く見える。それ故に、異なって言うことが認められる。なぜなら、神的なものからの律法は秩序の律法であるからであり、また秩序の律法は間違った原理からの攻撃の状態の中に居る者達について、彼らは絶望に至るまで害されなければならないからであり、またもし、絶望に至るまで害されるのでなければ攻撃からの最後の用は存在しないからである。絶望に至るまで試練が増やされることは、ゲッセマネの主の試練から明瞭に知られよう。マタイ伝、26. 38, 39、マルコ伝、14. 33-36、ルカ伝、22.44、を参照、またその後、十字架の上でもまた絶望の状態に至るまで導かれた。マタイ伝、27.46、を参照、また主の試練は誠実な者達の試練の原型である。それ故に主は御自身について行くことを欲する者は自分の十字架を手に取らなければならないと言われた。マタイ伝、10.38、16.24、を参照、なぜなら、主の栄化は人間の再生の原型であるからであり、3138, 3212, 3296, 3490, 4402, 5688番を参照、また再生は特に試練によって為されるからである。
7167.「そして、私があなたの御名において話すためにファラオに行ってから」が、間違った原理の中に居る者達に現れた神的な律法から命じられた時を意味することは、「話すために行くこと」の意味が命令を伝えることであることから知られよう。ここでは現れることである。なぜなら、神的なものからの命令は地獄の中に居る者達に明瞭には持って行けないからであり、霊達を通して彼らに勧告が為されるからである。それ故に神的なものからの命令の如く彼らに見える。また「ファラオ」の表象が間違った原理の中に居る者達、また害する者達であることから知られよう。そのことについては6651, 6679, 6683, 7107, 7110, 7126, 7142番(に示された)。また「エホバの御名」の意味が主が礼拝されるための信仰と仁愛の凡てのものであることから知られよう。そのことについては2724, 3006, 6674番(に示された)。従って神的な律法の凡てのものである。なぜなら、神的な律法は仁愛と信仰のものを除いて他のものではないからである。というのは神的な律法は主から発している神的な真理であるからであり、また主から神的な善と神的な真理があるからであり、また神的な善は愛と仁愛であるからであり、また神的な真理は信仰であるからである。
7168.「彼はこの民に悪を為した」が、その時、間違った原理が吹き込まれたことによって教会の真理と善の中に居る者達の害されることが認められたことを意味することは、「悪を為すこと」の意味が吹き込まれた間違った原理によって害することであることから知られよう。ここでは害されることが認められることである。なぜなら、攻撃と試練の中に居る者達は注ぎ込まれた間違った原理によって害されることが出来ないからである。というのは主が守られるからである。またここの民である「イスラエルの子孫達」の表象が上の7162番のように教会の真理と善の中に居る者達であることから知られよう。
7169.「またあなたはあなたの民を救い出すことで救いませんでした」が、間違った原理からの攻撃の状態から連れ出されなかったことを意味することは、「救い出されること」の意味が間違った原理からの攻撃の状態から連れ出されることであることから知られよう。なぜなら、前の箇所において間違った原理からの攻撃について取り扱われたからであり、それ故、ここではそれらから連れ出されることが取り扱われているからである。「あなたの民」が教会の真理と善の中に居り、また害された者達であることは直ぐ上の7165, 7168番に認められよう。