38-4844-1意訳「天界の秘義」創世記Ⅳ
4844.「あなたの父の家に未亡人で留まれ」が自分自身から遠ざけることを意味することは、彼女が去って、またその後、自分の許へ戻らないように欲したことから知られることが出来よう。無論、彼の息子セラが成長するまでそこに留まることを言ったが、しかしそれでもなお、自分の息子セラに彼女は与えられないことを考えた。というのは、自分自身に「この者もまた彼の兄達の如く恐らく死ぬ」と言ったからであり、また14節から明らかであるように行為でもまた確証したからである。
「セラは成長したが、しかるに彼女が女として彼に与えられなかったことを彼女は見た」38.14、それ故、これらの言葉によって自分から彼女を遠ざけたことが意味される。即ち内意においてタマルによって表象される霊的な、また天的な表象の教会(4811, 4831番を参照)、をユダによって表象されるユダヤ教会から遠ざけたことが意味される。というのは、ユダヤ教は教会の表象だけであったので、しかし表象の教会ではなかったので、4307, 4500番を参照、それらは調和することが出来なかったからである。なぜなら、ユダヤ教は外なるものを承認したが、しかし内なるものを承認しなかったからである。
[2]「未亡人」もまた教会を意味するが、その善なしの真理を意味する。なぜなら、表象の意味において「妻」は真理を意味し、「夫」は善を意味するからである。4823, 4843番を参照、それ故に、「夫の居ない妻」はその善なしの教会の真理である。そのことについて、「彼女が自分の父の家に留まった」ことが言われる時、教会の真理が遠ざけられたこととその家に受け入れられなかったこともまた意味される。ユダヤ民族は善の中に居らず、悪の中に居たので受け入れることが出来なかった。
[3]聖言において「未亡人」はたびたび述べられており、また内意を知らない者は「未亡人」によって未亡人が意味されることを除いて異なって信じることが出来ない。しかし内意において「未亡人」によって善なしの教会の真理、即ち善なしの真理の中に居るが、またそれでもなお、善の中に居ることを願う者達が意味される。それ故に、善によって導かれることを愛する者達であり、「夫」は導く善である。そのような者達は古代教会において女にせよ、或いは男にせよ善い意味で「未亡人」によって意味された。というのは、古代教会は彼らが行なった隣人への愛を多くの種類に区別したからであり、或る者を貧しい者、惨めな者と悲惨な者、或る者を縛られた者と牢獄の中に居る者、或る者を盲目の者と足の不自由な者、或る者を外国人、孤児と未亡人と呼んだ。彼らの特性に従って仁愛の行いを分配した。彼らの教義の事柄がそれらを教え、その教会は他の教義の事柄を知らなかった。それ故に、その当時の者達はそれらの教義の事柄に従って生き、また教え、そして書いた。従って彼らが「未亡人」と言った時、善なしの真理の中に居るが、しかるにそれでもなお、善によって導かれることを願った者達を除いて異なって理解しなかった。
[4]それ故、古代教会の教義の事柄は仁愛のことと隣人のこと、また彼らの知識(概念)と科学的な(事実に基づく)ものは外なるものが何を意味したかを知ることであった。というのは、それは霊的な、また天的な表象の教会であったからである。その理由で表象され、また意味された霊的なものと天的なものが教義の事柄と科学(知識)によって学ばれた。それらの教義の事柄と科学的な(事実に基づく)ものは、今日、完全に忘れ去られ、その上、あったことが知られないほど忘れ去られた。というのは、それらの代わりに信仰の教義の事柄が続いて起ったからである。それらの信仰の教義の事柄は本質的に考察されたなら殆んど何も教えない。なぜなら、仁愛の教義の事柄により未亡人であることを認め、また隣人への愛が区別されたからである。というのは、仁愛の教義の事柄は善が何であるかを教えるからであるが、しかし信仰の教義の事柄は真理が何であるかを教えるからであり、また善なしに真理を教えることは盲人の如く歩むからである。なぜなら、善が教え、また導くからであり、真理は教えられ、また導かれるからである。それらの二つの教義の間に光と暗闇の間ほどの相違がある。もし光によって暗闇が照らされるのでなければ、即ち善によって真理が照らされるのでなければ、或いは仁愛によって信仰が照らされるのでなければ暗闇以外にない。それ故、誰も熟考から、従って認識から真理が真理であるかどうかを知らず、少年期に学ばれた教義から、また成人期の年齢において確信されたものだけから知る。それ故、諸教会はそれほど一致せず、また一つの教会はこれを真理と言い、また他の教会は間違った原理と言って決して一致しない。
[5]善い意味において未亡人によって善なしの真理の中に居る者達が意味されるが、しかしそれでもなお、善によって導かれることを願うことが聖言の中で未亡人が言われている箇所から知られることが出来よう。例えばダビデの書において、
「エホバは圧迫された者達に審判を行い、飢えた者達にパンを与え、縛られた者達を解放し、盲目の者達の目を開く。エホバは打ちひしがれた者達を起し、正しい者達を愛する。エホバは外国人達、孤児達、および未亡人を保護して支える。」詩篇、146.7-9、ここの内意において主により真理の中で教えられる者達と善に導かれる者達について述べられている。しかし彼らの或る者は圧迫された者達、或る者は飢えた者達、或る者は縛られた者達、盲目の者達、打ちひしがれた者達、外国人達、孤児達、未亡人達、また彼らの性質に従って言われている。しかしその性質は内意から以外誰も知ることが出来ない。古代教会の教義の事柄がそれを教える。ここでも他の多くの箇所のように外国人、孤児、および未亡人が一緒に言われている。なぜなら、「外国人」によって信仰の真理の中で教えられることを欲する者達が意味されているからであり、1463, 4444番を参照、「孤児」によって真理なしの善の中に居るが、しかるに真理によって導かれることを願う者達が意味されるからであり、また「未亡人」によって善なしの真理の中に居るが、しかるに善によって真理へ導かれる者達が意味されるからである。それらの三つのものがここと聖言の中の他の箇所に一緒に言われている。なぜなら、内意においてそれらは一つの種類を構成するからである。というのも、それらによって教えられることを欲する者達と善と真理へ導かれることを欲する者達が同時に意味されるからである。