24-3078~3079意訳「天界の秘義」創世記Ⅲ

3078.「彼女はアブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの息子ベトエルに産まれた」は、その情愛の凡ての起源を意味することは、「ベトエル」の表象から、更に「ミルカとナホル」の表象から、そのようにまた「アブラハム」の表象から知られよう。これらの各々の者達が特に何を表象するかは、真理への情愛の最初の起源は、確かに自然的な人間の中の主から得られた神的なものから引き出したが、3019番を参照、しかしそれでもなお、そこに母のものがあって、それらは短時間に分離されることが出来なかった理由により理解されるために説明されることと示されることは出来ない。それらからの情愛もまたあったからである。その起源の中のその情愛の性質が、「アブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの息子ベトエルに産まれた」ことによって述べられている。
[2]凡ての情愛は例え単純なものであっても、また一つの情愛の如く見えても、それでもなお、本質的に何かの観念で把握されることが決して出来ないほど無数のものを含み、まして記述されることは出来ない。というのは、各々の者達の中の情愛は幼児期から老年期の時期に至るまでの人間の全生命であるからであり、それどころかその上更に、誕生によって獲得した父と母から、また祖父と曽祖父からの多くの遺伝からの全生命があるからである。獲得された情愛の中に居る時、その生命の中に居る。というのは、情愛は人間全体のようなものであるからである。他生において情愛の顕現によって自己愛から、また世俗愛からどれほどのものが内在するか、隣人への愛からその目的のために、その用のためにどれほどのものが内在するか、更に善と真理への愛からどれほどのものが内在するか、またその善と真理がどのようなものか、そのようにまた、それらがどのように管理されたか、即ち連結されたものか、近付いているものか、また分離されたものか、従って天的な秩序に対してどれほど調和するか、或いは天的な秩序に調和しないかが時折示されて、それが見られなければならない。それらの凡てのものが情愛の顕現によって示される。なぜなら、言われたように情愛は人間全体であるからである。このことがそのようにあることは、人間に信じ難く見えるが、しかしそれでも真実である。

3079.「そして彼女の肩の上に彼女の壷があった」が、真理の受容と努力を意味することは、「壷」の意味が科学的な(事実に基づく)ものであることから、従って真理の容器であることから知られよう。そのことについては、3068番に示された。また「肩」の意味が凡ての力であることから、従って努力であることから知られよう。そのことについては、1085番に示された。「壷」、或いは「水差し」、更に一般的な容器は、内意において容器の部位にあるものを意味する。例えば、真理に比較した科学的な(事実に基づく)ものと知識(概念)、なお加えて、善と比較した真理そのものであることは、聖言の中の多くの箇所から知られることが出来よう。神殿と祭壇の容器はそれ以外のものを意味しない。またそれらは神聖なものもまた意味したので、彼らに神聖なものは他の源泉からなくそこからあった。ベルシャザルがその父のネブカドネザルがエルサレムの神殿から持ち出した金と銀の器で葡萄酒を高官達と妻達と一緒に飲んだ時、また金、銀、銅、鉄、木、石の神々を称えた時、その時、
「宮殿の壁に書かれたものが現れた。」ダニエル書、5.2、続き、「金と銀の器」は善と真理の穢された知識(概念)として記述されている。というのは、「カルデヤ人達」は知識の中に居た者達であるが、しかしそこの間違った原理によって穢された者達である。1368番を参照、そのように、知識(概念)は彼らに金と銀の礼拝されるべき神々のために仕えることであった。というのは、
「ベルシャザルはカルデヤの王と言われている」からである。同章、30節、
[2]「容器」が霊的なものの外なるものを意味することもまた聖言の中の他の箇所から明らかである。例えばイザヤ書において、
「イスラエルの子孫達がエホバの家の清い容器の中に捧げものを持ってくるように」66.20、ここでは主の王国について記述されている。「清い容器の中の捧げもの」は内なる人間に比べた外なる人間のものを表象し、「捧げものを持ってくる者」は、内なる人間であり、「清い容器」は、内なる人間に調和している外なる人間であり、従ってそれらは外なる人間の中の科学的な(事実に基づく)もの、概念(知識)、教義の事柄である。エレミヤ書において、
「エルサレムの叫びが上がった。高官達は嘆き悲しみ若者達は水を汲むためにくぼ地に行ったが、水を見つけず、彼らの器はからで帰った。彼らは恥ずかしくされた。」14.2,3、ここで「からの器」は、それらの中に真理のない知識(概念)として、またそれらの中に善もまたない真理として記述されている。同書において、
「バビロンの王ネブカドネザルは私を食い尽くし乱した。私を空虚な容器に仕上げた。」51.34、ここで「空虚な容器」も同様なものとして記述されている。それは荒廃する「バビロン」であることは1327番の終わりに認められよう。モーセの書において、
「彼らは谷が据えられた如く、川の近くの庭園の如く、...その手桶から水が流れ下り、またその種は豊かな水によって潤う。」民数記、24.6,7、これはバラムのヤコブとイスラエルについての発言である。「手桶から水が流れ下る」は、知識(概念)から真理が流れ下ることとして記述されている。十人の乙女達の例え話において、
「彼女達の五人はランプと一緒に自分達の容器の中に油を容れていた。しかし愚かな乙女達は容れていなかった。」マタイ伝、25.4、ここで「乙女達」によって情愛が意味され、「自分達の容器の中に油を容れた賢明な乙女達」は、真理の中に善があることであり、従って信仰の中に仁愛があることである。「油」が善であることは、886番に認められよう。「ランプ」は愛として記述されている。