24-3080~3081-1意訳「天界の秘義」創世記Ⅲ

3080.「そして、彼女は著しく外見の善い少女である」が、真理への情愛の美しさを意味することは、「少女達」の意味が情愛でありその中の無垢であることから知られよう。そのことは、3067番に示された。「著しく外見の善い」は、「少女」が言われているので、ここでは真理への情愛である。凡ての美は無垢のある善からあるのでそこから美がある。内なる人間から外なる人間へ善そのものが流入する時、美しいものを造り、凡ての人間性の美しさはそこからある。このこともまた誰かの顔からは誰も感動させられないことから、しかし顔から輝き出る情愛から感動させられることから知られることが出来よう。また善の中に居る者達はそこの善い情愛から感動させられること、なお加えて、善の中に無垢があるほどそれだけ感動させられる。従って感動させることは自然的なものの中に霊的なものがあるからである。しかし霊的なものなしに自然的なものは感動させない。同様に、幼児期から善の中に居る者達にどれほど美しいものが現れるか、彼らの顔、身振り、会話の中に仁愛の無垢があるほど誠実と仁愛を形作り、また美しいものを造る。そのことは553番に認められよう。それ故、このような事情の下に、「著しく外見の善い少女」は、善のある真理への情愛の美を意味することが知られよう。

3081.「彼女は乙女であり、また男は誰も彼女を知らなかった」が、凡ての間違った原理から清いことを意味することは、「乙女」の意味から知られよう。聖言の中で乙女はしばしば言われており、またそこで乙女によって主の王国が意味され、更に教会もまた意味されている。それ故、それは各々の主の王国、或いは主の教会であり、またそれは貞潔な乙女達の中の結婚の愛からある。霊的な意味において結婚の愛は真理の中の善い情愛、また善からの真理への情愛であり、夫婦の愛が連結された結婚のようにその者達から主の王国、或いは主の教会がある。そのことは、2508, 2618, 2727-2729番に認められよう。
それは言われたように、乙女により目指されるので、主の王国もまた結婚に例えられ、また結婚と言われ、乙女とも言われている。「男は誰も彼女を知らなかった」は、凡ての間違った原理から清いことを意味する。なぜなら、聖言の中の「男」によって理性的な真理が意味されるだけでなく、更に反対の意味で間違った原理もまた意味されるからである。そのことは265, 749, 1007番に認められよう。このように「男により知られること」は、間違った原理に汚されることであり、また「男により知られないこと」は、間違った原理から清い存在であることである。ここの「男」によって配偶者の夫は意味されていない。
[2]聖言における「乙女」によって、主の王国、即ち同じことであるが、その者達の中に主の王国がある者達が意味されることはヨハネの書において知られよう。
「この者達は神の子羊が行く所へ付いて行く。...というのは、彼らは神の王座の前で穢れのない者達であるからである。」黙示録、14.4,5、
[3]「神の子羊に続く者」、即ち主の王国の中に居る者が明瞭に乙女と言われている。またそれが穢れのない者達である。主への愛の中に居る者達、即ち天的な者達、従って善い情愛のある者達が正しい意味で「乙女達」であり、更に隣人への愛の中に居る者達、即ち霊的な者達、従って真理への情愛の中に居る者達もまた「乙女達」と言われている。そのことは、例えば聖言の中のイザヤ書の箇所から知られることが出来よう。
「乙女、シオンの娘はあなたを侮り、あなたを嘲り、あなたの後ろでエルサレムの娘は頭を振った。」37.22、これはアシュルの王に言われた。「乙女、シオンの娘」は天的な教会として、「エルサレムの娘」は霊的な教会として記述されている。