24-3105~3108意訳「天界の秘義」創世記Ⅲ

3105.「また二つの腕輪」が、神的な真理を意味することは「腕輪」の意味が真理であり、またここの内意の中で主について取り扱われているので、神的な真理であることが知られよう。それらは「二つ」と言われている。なぜなら、そのように真理が完備されたからである。それらが婚約者(花嫁)の手に置かれたのは、「婚約者(花嫁)」によって教会が意味されたからであり、また「その手」によって真理からの力が意味されたからである。「手」が真理について属性付けられることは3091番に認められよう。「腕輪」がそのようなものを意味することは、上の313番に引用されたエゼキエル書、16.11, 12、において、また同書、23.42、において知られることが出来よう。更に「腕輪」は花嫁だけでなく王にもあった。しかし王にはサムエル記Ⅱ、1.10、から知られるように、王権は主の神的な真理の表象のものと表意のものであったと言う理由によって腕にあった。1672, 1728, 2015, 2069, 3009番を参照、そして「腕」は力を表意する。878番を参照、

3106.「彼女の手の上に」が、真理への情愛の力を意味することは、「手」の意味が力であることから知られよう。そのことについては、878, 3091番に示された。また「彼女」である「リベカ」の表象が真理への情愛であることから知られよう。そのことについては、2865, 3077番に示された。

3107.「10シケルのそれらの重さ」が、導入のための充分な量の善を意味することは、「10」の意味が「100」のように充分な状態であることから知られよう。そのことについては、1988, 2636番に示された。またここの「金」の意味がその重さからの評価の貨幣の種類であることから知られよう。また「重さ」の意味が善に関する事柄の状態であることから知られよう。そのことについては、上の3104番に示された。それ故、「10シケルの金の重さ」は善に関して充分評価された状態を意味することが明らかである。それが導入の過程のためであることは、この章の個々のものから知られよう。その中に導入の過程について、即ち婚約について述べられている。

3108.ここの二つの節において真理の善への導入の過程が述べられているが、しかしその導入の過程がどのようなものであるかは、この世の光のようなものから照らされただけで、天界の光のようなものからも一緒に照らされるのでなければ、誰の許の思考の原型の中へも容易に落ち込まない。天界の光からこの世の光があり照らされる。善の中に居ない者達、またそれ故、信仰の中に居ない者達は、この世の光の対象から形作られたものを除いて他の思考の原型を持たない。彼らは霊的なものがあることを知らず、また正しい意味で理性が何かすら知らない。しかし、単に自然的なものだけを知り、それに凡てのものを帰する。そのことが内意の中で真理の善への導入の過程について言われる理由でもまたある。彼らにそれらは何かあることが見えるようなことよりも無関係なことであるが、しかし天界の光の中に彼らが居る時、それらは貴重なものの間にある。
[2]真理の善への導入の過程については、次のようにそのことを有する。真理が教えられ、また正しく善に連結される前も、無論、真理は人間の許にあるが、しかし人間のものの如く、即ち人間固有のものの如くは為されない。しかし人間の善に伝えられるや否や、その時、人間に専有される。その時、人間の外なる記憶から消え、また内なる記憶へ移る。或いは同じことであるが、自然的な人間、即ち外なる人間の中で消え、また理性的な人間、即ち内的な人間の中へ移る。そして人間は善に連結された真理をまとい、またその人間性を造る。即ちその人間の性質を造る。その善に連結される凡ての真理の間でそのようにそのことを有する。更に人間が善と呼ぶ悪に連結される間違った原理の間でもまた同様にそのことを有する。しかし真理は理性を開き、またそのように理性的な人間を造るが、それに反し、間違った原理は理性を閉ざし、また理性のない人間を造ることの相違がある。その時、その者達の中に他の者達以上に理性があることが自分達に認められたとしても、それでも暗闇の中に居る。