24-3109~3111意訳「天界の秘義」創世記Ⅲ

3109.二十三~二十五節、「そして、彼は言った。あなたは誰の娘か? あなたの父の家に私達が一夜を過すための場所があるか? どうぞ私に知らせよ、
同時に、彼女は彼に言った。私はナホルの産んだミルカの息子ベトエルの娘です。
また、彼女は彼に言った。藁もまた、更に私達に多くの食物、更に一夜を過すための場所もあります。」
「彼は言った。あなたは誰の娘か?」は、無垢についての更なる調査を意味し、「あなたの父の家に私達が一夜を過すための場所があるか? どうぞ私に知らせよ、」は、仁愛の善についての調査を意味し、「同時に、彼女は彼に言った。私はナホルの産んだミルカの息子ベトエルの娘です」は、ここでも前のようにその凡ての起源を意味し、「また、彼女は彼に言った」は認識を意味し、「藁もまた」は科学的な(事実に基づく)真理を意味し、「更に私達に多くの食物」は、それらの善を意味し、「更に一夜を過すための場所もあります」は状態を意味する。

3110.「彼は言った。あなたは誰の娘か?」が、無垢についての更なる調査を意味することは、「誰の娘か?」と言う質問が調査であることから知られよう。ここの調査は更なる調査であることは、前の3088番と3101番から明らかである。それが無垢についての調査であることは、「少女」の意味が情愛でありその中の無垢であることから知られよう。確かにここでは少女は言われていないが、しかし上の14節と16節で少女が言われ、またここの彼女への質問の「あなたは」によって少女を除いて他の者は意味されていない。
その事柄そのものに関して、即ちその真理そのものについて、それが善に伝えられる前に、また彼に伝えられる前に、どのような無垢であるか、また直ぐ後に同じくどのような仁愛であるかが調査されたことに関しては、その事柄の概念(知識)を何も持たない者達に奇妙であるように思われないことは出来ない。しかしそれでもなお、各々の人間の許の真理と善との導入の過程と連結に関して最もたぐい稀な調査があること、またそのような調査は人間の凡ての確信を上回るようなものであることを知らなければならない。
[2]全くの善そのものには全くの真理そのものでなければ何も関与されない。そのような真理でない何かのものが打ち寄せても、善そのものとそれとは連結しない。しかし本質的には善ではないが、しかし善の如く見えるものと連結する。もし間違った原理が打ち寄せるならその善を内部へ戻し、またそれを人間が善と信じる何かの悪と外面的に連結する。この神的な取り合わせは主により霊達と天使達の媒介により行なわれ、またそれはこの世において最も隠されたことであるが、しかし他生において最も熟知されている。誰でも健全な理性のある者もまたそれを知るか、少なくとも認めることが出来よう。というのは、悪と間違った原理は地獄にあるからであり、なお加えて、地獄から流れ込むからであり、それに反し、善と真理は天界にあり、更に天界を通して主から流れ込むからである。そのようにあるので、悪と真理は地獄と天界と同じように連結されることが出来ない。それ故に、これらの中により入念な微妙な判断があるが、それでもそれを誰でも信じることが出来よう。

3111.「あなたの父の家に私達が一夜を過すための場所があるか? どうぞ私に知らせよ、」が、仁愛の善についての調査を意味することは、「~があるか? どうぞ私に知らせよ、」の意味が調査であることから、また「家」の意味が善であることから知られよう。そのことについては、2048, 2233, 2331番に示された。またここの「父」の意味、正確にはベトエルの意味が正しい異邦人達の許にあるような仁愛の善であることから知られよう。そのことについては、2865番に示された。更にそのような善から真理への情愛そのものもまたあり、それをリベカが表象した。また「一夜を過すための場所」の意味が過すことの状態であることから知られよう。そのことについては、下の3115番に述べよう。
[2]ここの内意においては、無垢と仁愛の善に関する真理への情愛の起源についての調査について記述されている。その理由は、善に受け入れられ、また結婚される真理を持つ凡ての者達から知られることが出来るように、善に導かれ、また連結されなければならない真理は、最初の起源を他の源泉から引き出さないからである。教会内で何かの方法で無垢に結婚される隣人への仁愛のものを持たない者達は、どれほど真理を知るにせよ、また口で公然と認めるにせよ、決して心で真理を承認しない。信仰の真理へ招かれ、或いは他生において真理について教えられる教会外の異教徒達は、無垢の中に居る者達を除いて、またその無垢の間で相互の仁愛の中で生きる者達を除いて他の者達は真理を受け入れない。というのは、無垢と仁愛は大地を造るからであり、その大地の中で真理の種は根を降ろし、また芽を出すことが出来るからである。