26-3382意訳「天界の秘義」創世記Ⅲ

3382.「また私の尊重されるべきこと、私の戒め(教え)、私の法令、および私の律法」が、主御自身からの継続的な啓示によって、即ち試練によって、更にそれらによって神的な本質を人間性に結合されたことを意味することは、「エホバが尊重されるべきこと、戒め(教え)、法令、律法を守ること」は聖言の凡てのものを含むからである。即ち「エホバが尊重されるべきこと」は、聖言の全般的なものにおけるその凡てのものであり、「戒め(教え)」はその内なるものであり、「法令」はその外なるものであり、また「律法」は聖言の凡てのものを特定的に含むからである。これらは主について属性付けられているので、またその方は永遠から聖言で在られたので、またその方から聖言の凡てのものがあるので、内意においては主御自身がそれらを守ったことは意味されることが出来ないが、しかし主が人間性と神的なものとの結合の状態にあった時、それらを主御自身に現された。
[2]これらのことは、最初の注視で文字通りの意味からもまた最も近い内意からもかけ離れて見えるが、しかしそれでもなお、人間によりこれらの御言葉が読まれる時、天界においてそれらの御言葉の意味になる。なぜなら、前に何度か言われ、また例として1873, 1874番から認められることが出来るように、聖言の文字通りの意味は天界へ向かって上昇することによって取り去られからであり、またその代わりに他の天的なものが現われるからである。文字通りの意味が天的な意味からあることは到底知られることが出来ないほどである。
というのは、天界に居る者達は聖言の凡てのものは、内意において主について取り扱っていること、また同じく聖言の凡てのものは主からあること、更に主がこの世に居られた時も神的なものから居られたことの考えの中に居るからである。従って主は御自身から考え、そして神的なものからの継続的な啓示によって御自身に凡ての知性と知恵を得られた。それ故、天界に居る者達はそれらの言葉から他のことを認めることが出来ない。なぜなら、聖言の凡てのものを守ることは、内なるものも外なるものも「エホバが尊重されるべきこと、戒め(教え)、法令、律法を守ること」によって意味されるからであり、それらは主について属性付けられないからである。なぜなら、主御自身が聖言で在られたからである。それ故に、主御自身が尊重されるべきであり、主御自身が戒め(教え)で在られ、更に主御自身が法令で在られ、また主御自身が律法で在られるからである。
というのは、それらの凡てのものは主から最初のものとして、またその方に向かって最後のものとして主御自身を目指すからである。それ故、それらの言葉によって最高の意味において、主御自身からの継続した啓示を通した主の神的なものと人間性との結合を除いて他のことが意味されることが出来ない。主は神的なものから考えられたこと、従って主御自身から考えられたこと、また他の人間と異なって考えられたことは、1904, 1914, 1935番に認められよう。また主御自身に神的なものからの継続的な啓示を通して知性と知恵を取得されたことは、1616, 2500, 2523, 2632番に認められよう。
[3]「主が尊重されるべきことを守ること」が全般的なものにおける聖言の凡てのものであること、また「戒め(教え)」が聖言の内なるものであること、また「法令」が聖言の外なるものであること、また「律法」が聖言の凡てのものを特定的に含むことは、正しい意味で内意の中に見られた多くの箇所から知られることが出来よう。私にそれらの若干のことを提示することが許されている。例えば、ダビデの書において、
「健全な祝福の道が、エホバの律法の中を歩む者達にあり、エホバ御自身の証言を守っている者達は祝福された者達である。...あなたの法令を守るために私の道が導かれますように、...わたしはあなたの法令を守ろう。どこまでも私を見捨てませんように、...私の全心で私はあなたを尋ねました。あなたの戒め(教え)から私が逸脱しないように為し給え、私はあなたに罪を犯さないために私の心の中にあなたの聖言を秘めました。あなたはそれを祝福されました。エホバよ、あなたの法令を私に教え給え、私の唇はあなたの御口の凡ての審判を話しました。私はあなたの証言の道の中で喜びます。...私はあなたの掟の中で思案し、またあなたの道を探します。あなたの法令の中で私は喜び、あなたの聖言を忘れません。私が生きるためにあなたのしもべ(奴隷)に報い給え、そして私はあなたの聖言を守ります。あなたの律法により私が驚くべきことを見るために私の目に示し給え、私からあなたの戒め(教え)を隠し給うな、...あなたの御言葉により私に生命を与え給え、...あなたの法令を私に教え給え、神の掟の道を私に理解することを為させ給え、」詩篇、119.1-27、凡ての詩篇の中で聖言と聖言のものについて取り扱われている。それらは「戒め(教え)、法令、審判、証言、神の掟、道」であることが明らかである。しかしそれらが特に何を意味するかは文字通りの意味からは決して認められることが出来ない。その中には同じ事柄の繰り返しを除いて殆んど何もないが、しかし内意からはその中で「戒め(教え)、法令、審判、証言、神の掟、道」によって全く異なったことが意味される。
[4]同書の他の箇所も同様である。
「エホバの律法は完成されたものであり、霊魂を連れ戻す。エホバの証言は強固なものであり、素朴な知恵を与える。エホバの掟は正しく心を豊かにする。、エホバの戒め(教え)は清く目を明るくする。エホバへの恐怖は穢れなく永遠に立つ。エホバの審判は真実である。」詩篇、19. 8-10、また列王記の書において、
「ダビデはソロモンに、神御自身の道を歩むために、神御自身の法令、また神御自身の戒め(教え)と神御自身の審判、および神御自身の証言を守るために、モーセの律法の中に書かれたものに従ってあなたの神の言われることをあなたは守らなければならないと言った。」列王記Ⅰ、2.1.3、ここで「神の言われることを守ること」は、全般的なものの中の聖言の凡てのものとして記述されている。というのは、それが最初の箇所で言われているからであり、また後に続く箇所を不十分な全般的なものとして見るからである。というのは、言うことを守ることは守られなければならないことを守ることと同様のことを意味するからである。モーセの書において、
「あなたの神エホバをあなたは愛さなければならない。またエホバ御自身の言われることをあなたは守らなければならない。そしてエホバ御自身の法令とエホバ御自身の審判、およびエホバ御自身の戒め(教え)を凡ての日々に守らなければならない。」申命記、11.1、ここで「エホバ御自身の言われることを守ること」は、即ち守られなければならないことを守ることと同様である。全般的なものの中の聖言の凡てのものとして記述されている。「法令」は儀式と内意の表象のものと表意するもののような聖言の外なるものとして記述されている。他方において、「戒め(教え)」は生命と教義のような聖言の内なるものとして記述されており、特にそれらが内意である。しかし戒め(教え)と法令の意味については、神的な主の慈悲により他の箇所に言われなければならない。