26-3387-2意訳「天界の秘義」創世記Ⅲ

[4]聖言の中では空間の外観に従って話していることが、そこのほぼ凡てのものと個々のものから知られよう。例えばマタイ伝において、
「イエスは言われた。どうしてダビデは言うのか? 主は私の主に私があなたの敵達をあなたの足台に据えるまで私の右に座れと」22.44、詩篇、110.1、ここで「右側に座ること」は場所の考えからであり、そのように外観に従って言われているが、しかしその場合、そのように記述されていることは主の神的な力の状態である。同書において、
「イエスは言われた。今からあなた達は力の右側に座り、また天の雲の上に現われる人間の御子を見るであろう。」26.64、ここでも「右側に座ること」、そのようにまた「雲の上に現われること」も同様に人間に場所の考えからある。しかし天使達に主の力の状態の考えである。マルコ伝において、
「ゼベダイの息子達はイエスに言った。私達があなたの栄光の中で一人はあなたの右側に、またもう一人はあなたの左側に座ることを与え給え、イエスは答えた。私の右側、また私の左側に座ることは私の与えることではなく、それは準備された者達である。」10. 37, 40、それ故、弟子達が主の王国についてどのような考えを持ったか明らかである。即ち「右側と左側に座ること」であった。また彼らにこのような考えがあったので、主もまた彼らの理解に従って答えられた。そのように彼らに見えたことに従って答えられた。
[5]ダビデの書において、
「その方はその部屋から出て来る花婿の如く、道を凱旋する英雄の如く喜ばれる。その方の出て行かれるのは諸天の端から、またその方の巡回されるのは諸天の端まで、」詩篇、19. 5, 6、ここでは主について記述されている。その方の神的な力の状態が空間の中にあるようなものによって記述されている。イザヤ書において、
「あけぼのの息子、ルシフェル、何と、あなたは天から落ちた。....あなたはあなたの心の中で言った。私は諸天へ昇ろう。私の王座を天の星々の上に上げ、...高い雲の上に昇ろう。」14.12-14、ここの「天から落ちること、諸天へ昇ること、天の星々の上に王座を上げること、雲の上に昇ること」の凡ては空間、或いは場所の考えと外観からである。それらによって自己愛が神聖なものを冒涜していることが記述されている。天的なものと霊的なものがそのように見えるので、また人間の目の前にそれらに従って見えるのでそれが示されている。それ故、天界もまた高いものにより記述されている。しかしそれにもかかわらず、高いものの中ではなく、内なるものの中にある。450, 1380, 2148番を参照、