26-3394意訳「天界の秘義」創世記Ⅲ
3394.「見よ、彼女はあなたの女(妻)である。それにもかかわらず、どうして彼女は私の妹とあなたは言ったのか?」が、もしそれが神的な真理であったなら、実のところ理性的な真理ではなかったを意味することは、リベカであるここの「女(妻)」の意味が主の神的な理性の神的な真理であることから知られよう。そのことについては、3012, 3013, 3077番に示された。また「妹」の意味が理性的な真理であることから知られよう。そのことについては、3386番に示された。従って「見よ、彼女はあなたの女(妻)である。それにもかかわらず、どうして彼女は私の妹とあなたは言ったのか?」は、彼女は神的な真理であるので理性的な真理であることが出来ないことを意味する。
[2]この秘義によって次のようにそのことを有する。霊的な者達は天的な者達の如く認識を持たないので、再生された時の人間の許に神的な真理が理性的な真理に為されることを知らない。実に、彼らは凡ての善と凡ての真理は主からあることを断言するが、しかしそれでもなお、それらが彼らの理性の中で現われる時、彼らは善と真理は彼らのものであることを絶えず憶測し、従って善と真理が彼らからあるように憶測する。というのは、彼らは自分の固有のものから分離されることが出来ないからであり、彼らは自分の固有のものを欲するからである。しかしその時、天的な者達の許ではそのことを次のように有する。
彼らは理性の中の神的な善と真理を認識する。即ち理性の中に主の神的なものにより照らされた真理の外観があることを認識し、3368番を参照、更に自然的なもの、即ち科学的な(事実に基づく)ものの中に、また感覚的なものの中に主の神的なものにより照らされた真理の外観があることを認識する。また天的な者達はそのような状態の中に居るので、凡ての善と真理は主から流入することを承認することが出来、またそのように、主から彼らに伝達され、専有される善と真理の認識力があり、またそれが彼らの楽しいもの、幸福なもの、および幸運なものを造る。そこから天的な人間達であった最古代人達は目に見えた個々の対象物の中に天的なものと霊的なものを除いて認めなかった。1409番を参照、
[3]ここでは主からの再生によって新しい意志の中に神的な善を、また新しい理解の中に神的な真理を受け入れ再生された霊的な人間について述べられているので、また彼らは、上に言われたように、もし真理が理性的なものであったなら神的な真理であることが出来ないと言うことを除いて異なって理解しないので、従ってもし神的な真理であるなら、理性的な真理とは何も共通のものを持たないことを理解する。それ故、ここで「もしそれが神的な真理であったなら、実のところ理性的な真理ではなかった」と言われている。その原因は理性による何かの熟考なしに率直に信じられる信仰の真理を彼らは欲するからである。
科学(知識)がなければ、決して何も信仰の真理がないこと、更にその最も隠された真理ですら、何かの理性的な考え、更に自然的な考えなしに誰かの人間により認められるのではなく、それがどのようなものか、彼らは知らない。3310番の終わりを参照、確かにそのことによって凡ての真理と個々の真理について、否定の原理によりそのようにあるかどうか推論する者達に対抗して自分達を守ることが出来るが、しかし聖言について肯定的な原理の中に居る者達、即ち聖言について信じられなければならないと言う原理の中に居る者達に、そのような状況は有害である。というのは、そのような状況は誰でも考えることの自由を取り去ることが出来るからであり、またそのように人間の内なるものと外なるものの上に支配されることで最大の異端にもまた良心を束縛することが出来るからである。考えることの自由を取り去ることと最大の異端に良心を束縛されることが、「アビメレクはイサクに言った。見よ、彼女はあなたの女(妻)である。またどうして彼女は私の妹とあなたは言ったのか?」によって意味されている。