26-3409~3412意訳「天界の秘義」創世記Ⅲ

3409.「また多くのしもべ(奴隷)が居た」が、そこからの真理を意味することは、「しもべ(奴隷)」の意味がその凡てが下にあり、従属させられること、また服従することであることから知られよう。そのことについては、1713, 2541, 3019, 3020番に示された。そのように真理がある。なぜなら、それは善からあるからであり、また善に仕えるからである。

3410.「そしてペリシテ人達は彼を妬んだ」が、知識(概念)の科学(知識)の中にだけ居る者達はそれらを理解しなかったことを意味することは、後に続く箇所から明らかなように、「妬むこと」の意味が理解しないことであることから知られよう。また「ペリシテ人」の意味が知識(概念)の科学(知識)であることから知られよう。そのように知識(概念)の科学(知識)の中に居る者達が「ペリシテ人」である。そのことについては、1197, 1198番に示された。

3411.十五~十七節、「ところで、彼の父アブラハムの日々に、その父のしもべ(奴隷)達が掘った凡ての井戸をペリシテ人達がふさぎ、またそれらに塵を満たした。その時、アビメレクはイサクに言った。あなたは私達よりも大いに勝るので私達から去れ、そして、イサクはそこから行き、またゲラルの谷に宿営し、またそこに住んだ。」
「彼の父アブラハムの日々に、その父のしもべ(奴隷)達が掘った凡ての井戸をペリシテ人達がふさいだ」は、知識(概念)の科学(知識)の中に居る者達は神的なものからの内的な真理を知ることを欲しなかったことを意味し、そのように彼らが内的な真理を消したことを意味する。「またそれらに塵を満たした」は、地的なものによって(消したこと)を意味し、「その時、アビメレクはイサクに言った」は、その教義についての主の認識を意味し、「あなたは私達よりも大いに勝るので私達から去れ」は、彼らはそれら(内的な真理)の中の神的なものの故に、それら(内的な真理)に耐えることが出来なかったことを意味し、「そして、イサクはそこから行った」は、主が内的な教義を放棄したことを意味し、「またゲラルの谷に宿営し、またそこに住んだ」は、主が更に低い理性的な(真理)へ、即ち内的な外観から外的な外観へ(行かれた)ことを意味する。

3412.「彼の父アブラハムの日々に、その父のしもべ(奴隷)達が掘った凡ての井戸をペリシテ人達がふさいだ」が、知識(概念)の科学(知識)の中に居る者達は神的なものからの内的な真理を知ることを欲しなかったことを意味し、そのように彼らが内的な真理を消したことを意味することは、「井戸」の意味が真理であることから知られよう。そのことについては、2702, 3096番に示された。ここでは神的なものからの内的な真理である。なぜなら、「彼の父アブラハムの日々に、その父のしもべ(奴隷)達により」掘り出されたことが言われているからであり、その者達によって真理が意味されるからである。というのは、「アブラハム」によって主のものそのものが表象されるからである。2011, 2833, 2836, 3251番、3305番の終わりを参照、また「ふさぐこと」の意味が知ることを欲しないこと、またそのように消すことであることから、また「ペリシテ人」の表象が知識(概念)の科学(知識)だけの中に居る者達であることから知られよう。1197, 1198番を参照、
[2]今から更に低い段階の真理の外観について述べられる。それらの中に知識(概念)の科学(知識)の中に居る者達が居ることが出来、また彼らは「ペリシテ人」によって意味される。神的なものからの内的な真理を備えて、しかもそれらがペリシテ人と呼ばれる者達により消されたことは、次のようにそのことを有する。
古代教会とその後の教会において、生命(生活)の事柄に殆んど関心がないが、しかし教義(の事柄)に多大な関心を持った者達がペリシテ人達と言われた。なおまた彼らは時代の経過によって生命(生活)の事柄を投げ捨て、そして教会の本質的な部分として信仰の事柄を承認して、それを生命(生活)の事柄から分離した。その結果として、古代教会において教義の凡てであった仁愛の教義を無意味なものと為し、またそのように消した。しかしそれらの代わりに信仰の教義の事柄を吹聴し、またそれらの中に凡ての宗教的なものを置いた。そして彼らは仁愛の生命(生活)から、或いは生命(生活上)の仁愛からそのように退いたので、他の者達よりも無割礼な者達と言われた。というのは、「無割礼な者達」によって、どれほど教義の事柄の中に居るにせよ仁愛の中に居ない凡ての者達が意味されたからである。2049番の終わりを参照、仁愛から退いた者達、更に自分自身を知恵と知性からもまた遠ざけた者達はそのような無割礼な者達である。
[3]というのは、もし善の中に居るのでなければ、即ち仁愛の中に居るのでなければ、誰も何かの真理を分別することと理解することが出来ないからである。というのは凡ての真理は善と善に関係することからあるからである。そのように善なしに真理を理解することは出来ず、また知ることを欲しない。他生においてこのような者達の許に、彼らが天界から遠くに居る時、時折、雪のように冷たい光が見えるが、しかしその光は冬の光のようなものである。なぜなら、熱なしには何も実を結ばないからである。それ故に、そのような者達が天界へ近付く時、彼らの光は全くの暗闇に変えられ、また彼らの心も同様に愚かなものに変えられる。これらから、今や知識(概念)の科学(知識)だけの中に居る者達がどんなか知られることが出来よう。彼らは神的なものからの真理を知ることが出来ず、またそのように真理を消す。