26-3413~3416意訳「天界の秘義」創世記Ⅲ

3413.「またそれらに塵を満たした」が、地的なものによって、即ち自己愛と貪欲への愛によって消したことを意味することは、「塵」の意味がそのようなものであることから知られよう。そのことについては、249番に示された。その「塵」の意味が「ペリシテ人」と呼ばれる者達、即ち生命(生活)の事柄の中に居ないが、しかし自己愛と貪欲への愛である地的なものによって内的な真理を消した教義の事柄の中に居る者達である。それらの愛により彼らは割礼を受けて居ない者達と言われる。2039, 2049, 2056, 2632番を参照、
というのは、彼らの中にそれらがあるからであり、彼らはアブラハムの井戸を塵で満たすこと、即ち聖言の内なる真理を地的なものによって消すことを除いて異なって出来ないからである。なぜなら、彼らはそれらの愛により主からの霊的なもの、即ち真理の光を決して認めることが出来ないからである。というのは、それらの愛が暗闇を引き起こし、また暗闇がその光を消すからである。なぜなら、直ぐ上の3412番に言われたように、生命(生活)の事柄の中に居らずに教義の事柄だけの中に居る者達は主からの真理の光が近付くと完全に闇に包まれ、また無感覚に為されるからであり、またそれどころか、そのような者達は怒ることを為し、また凡ゆる方法で真理を滅ぼすことに努めるからである。というのは、自己愛と貪欲への愛は神的なものからの何かの真理が自分に近付くことを許容しないようなものだからである。しかしそれでもなお、真理を知ることにより自慢することと誇ることが出来るというよりも、同じ真理を実際の熱意により説教することが出来る。しかしそれはそれらの愛の炎が燃やし、また扇動するのであり、またその熱意はそこからの激情だけのものである。そのことは同様な熱意、或いは激情を持って全く自分の生命に反して説教することが出来ることから充分知られることが出来よう。それらは地的な熱意であって、それらに凡ての真理の泉である聖言そのものがふさがれる。

3414.「その時、アビメレクはイサクに言った」が、その教義についての主の認識を意味することは、「言うこと」の意味が認識することであることから知られよう。そのことについては前にしばしば示された。またここでペリシテ人達の王である「アビメレク」の表象が教義であることから知られよう。そのことについては、3365, 3391番に示された。また「イサク」の表象が神的な理性に関する主であることから知られよう。

3415.「あなたは私達よりも大いに勝るので私達から去れ」が、彼らは内的な真理の中の神的なものの故に、内的な真理に耐えることが出来なかったことを意味することは、「私達から去ること」の意味が神的なものの臨在に耐えることが出来ないことであることから知られよう。また「大いに勝ること」の意味がここでは内的な真理の中の神的なものの豊かさ故であることから知られよう。「ペリシテ人達」と呼ばれる者達は善の臨在に耐えることが出来ないこと、そのように神的なものの臨在に耐えることが出来ないことは、直ぐ上の3413番に示された。

3416.「そして、イサクはそこから行った」が、主が内的な教義を放棄したことを意味することは、「そこから行くこと」の意味が内的な真理から去ることであることから知られよう。なぜなら、それらについて述べられているからである。また神的な理性に関する主である「イサク」の表象から知られよう。主が内的な真理を放棄されたことは彼らに内的な真理を開かないことを意味する。というのは、聖言の中のどこであろうと内的な真理があるが、しかし救いの本質的な部分を信仰の中に置く者達から知られることが出来るように、知識(概念)の科学(知識)の中に居る者達、また生命(生活)の事柄の中に一緒に居ない者達は、聖言を読む時、決してそれらの真理を認めることが出来ないからである。彼らは主がたびたび愛と仁愛について話されたことに決して注意しない。1017, 2371を参照、また主が愛と仁愛について話されたことに注意する者達でも、仁愛からのものを信仰の実と呼び、それがどのようなものであるか知らずに、全く仁愛と区別し、それどころか仁愛から分離する。従って彼らに聖言の後部のものは見えるが、しかし前部のものは見えない。即ち外的なものは見えるが内的なものは見えない。また前部のもの、即ち内的なものなしに後部のもの、即ち外なるものを見ることは、何も神的なものを見ないことである。これらのことが主が内的な真理を放棄したことによって意味されており、そのことが「イサクはそこから行った」によって意味されている。主が去られるのではなく、彼らが自分達を主から去らせる。なぜなら彼らは彼らから生命のものを遠ざけるからである。