26-3417意訳「天界の秘義」創世記Ⅲ

3417.「またゲラルの谷に宿営し、またそこに住んだ」は、主が更に低い理性的な真理へ、即ち内的な外観から外的な外観へ行かれたことを意味することは、「宿営すること」の意味が秩序へ配置することであることから知られよう。また「ゲラルの谷」の意味が更に低い理性的なもの、即ち更に外的な真理の外観であることから知られよう。というのは、「谷」は更に低いもの、即ち同じことであるが、更に外的なものを意味するからである。1723番を参照、また「ゲラル」の意味が信仰のものであることから、従って真理のものであることから知られよう。1209, 2504, 3365, 3384, 3385番を参照、また「住むこと」の意味が「居ること」と「住むこと」であることから知られよう。3384番を参照、それ故、「ゲラルの谷に宿営し、またそこに住んだ」は、聖言からも知られることが出来るように、主が真理をそれほど生命(生活)の事柄の中に居ないが、しかし信仰の教義の事柄の中に居る者達の理解と性質に釣り合ったものであるようにもまた配置されたことを意味することが明らかである。聖言でも真理はそのようにある。
[2]例として、教義の事柄の中に居るが、それほど生命(生活)の事柄の中に居ない者達は天的な王国を地上の王国と同様に、そこで偉大な者達が他の者達を支配することで造られることを除いて異なって知らない。そこからの楽しいものが彼らが知る唯一の楽しいものであり、またそれを他の凡ての楽しいものに優先する。それ故、主は聖言の中でそれもまた外観で話された。例えばマタイ伝において、
「行なう者と教える者、その者は諸天界の王国において偉大な者と言われるであろう。」5.19、またダビデの書において、
「私は言う。あなた達は神々であり、またあなた達の凡ての者達は至高者の息子達である。」82.6、ヨハネ伝、10. 34, 35、また弟子達自身も最初は天的な王国について、地上における如く偉大さと優位を除いて他の信念を持たなかったので(主は外観で話された)。例えば、マタイ伝、18.1、マルコ伝、9.34、ルカ伝、9.46、において、また同様に王の右側と左側に座る考え(において)知られよう。マタイ伝、20.20, 21, 24、マルコ伝、10.37、それ故、主は彼らの理解に従ってもまた、性質に従ってもまた言われた。彼らの間で誰が最も偉大な者であるかの論争が起こった時に言われた。
「あなた達は私の王国において私の食卓の上で食べ、また飲むであろう。また十二の王座の上に座りイスラエルの十二の部族を裁く。」ルカ伝、22.24, 30、マタイ伝、19.28、というのはその時、彼らは天的な楽しいものが偉大さと優位でないこと、しかし主がルカ伝において教えておられるように、卑下の楽しいものと他の者達に仕えることの情愛であること、そのように最大の者ではなく、最小の者であることを欲することであることを知らなかったからである。
「誰でもあなた達の凡ての者達の間で最小の者になる者は偉大な者である。」9.48、
[3]従って、知識(概念)の科学(知識)の中に居るが、しかるに仁愛の生命(生活)の中に居ない者達は優位から生じるものを除いて他の楽しいものを知ることが出来ない。またその楽しいものがもっぱら彼らの心に居座っているので、また彼らの凡ての生命を造るので他の楽しいものを知ることが出来ない。それ故、卑下と他の者達に仕える情愛、即ち主への愛と隣人への仁愛から生じる天的な楽しいものを知ることが出来ない。それ故、そこからの幸福なものと幸運なものを全く知らない。そのことが主が彼らの弱々しさに適応して話された理由である。そのように彼らが善を学ぶことへ、また教えることへ、そして行なうことへ呼び起こされ、また導き入れられることのためであった。しかしそれでもなお、マタイ伝、19.30、20.16, 25-28、マルコ伝、10.31, 42-45、ルカ伝、9.48、13.30、22.25-28、のように天界における偉大さが何か、また優位が何かを教えておられる。それらはまた更に低い段階の真理と同様である。実際彼らはそれぞれ偉大な者達、優位を占めている者達、勢力ある者達、また支配している者達に為される。というのは、天使達の一人は地獄の数万の悪魔達より強いからである。しかし自分自身からではなく真実は主から強い。そして自分自身からは何も出来ないこと、従って自分自身は最小の者であることを信じるほど、それだけ主により強い。また卑下の中と他の者達に仕えることの情愛の中に居るほど、即ち主への愛と隣人への愛の善の中に居るほど、それだけそれを信じることが出来る。