26-3418~3419-1意訳「天界の秘義」創世記Ⅲ

3418.十八節、「また、イサクは戻り、そして彼の父アブラハムの日々に掘った水の井戸を掘り返した。即ちそれらをアブラハムの死後、ペリシテ人達がふさいでいた。そして彼の父がそれらに名付けた名に従ってそれらの名で呼んだ。」
「イサクは戻り、そして彼の父アブラハムの日々に掘った水の井戸を掘り返した」は、主が古代人達の許のそれらの真理を明らかにされたことを意味し、「即ちそれらをアブラハムの死後、ペリシテ人達がふさいでいた」は、知識(概念)の科学(知識)だけの中に居た者達が古代人達の許の真理を否定したことを意味し、「そしてそれらの名で呼んだ」は、古代人達の許の真理の性質を意味し、「彼の父がそれらに名付けた名に従って」は、真理の表意するものを意味する。

3419.「イサクは戻り、そして彼の父アブラハムの日々に掘った水の井戸を掘り返した」は、主が古代人達の許のそれらの真理を明らかにされたことを意味することは、「イサク」の表象が神的な理性に関する主であることから知られよう。そのことについては、前に示された。また「戻ることと掘り返すこと」の意味が再び明らかにすることであることから知られよう。また「水の井戸」の意味が知識(概念)の真理であることから知られよう。「井戸」が真理であることは2702, 3096番に、また「水」が知識(概念)であることは、28, 2702, 3058番に認められよう。また「彼の父アブラハムの日々」の意味が、真理に関する先行する時と状態であることから知られよう。そのことが「その時、掘った」によって意味されている。従ってそれは古代人達の許の真理である。「日々」が時と状態であることは、23, 487, 488, 493, 893番に認められよう。「父アブラハム」によって状態が意味される時、神的なものそのものに人間性を結ばれる前の主の神的なものそのものが表象される。そのことは2833, 2836, 3251番に認められよう。また「父アブラハム」によって時が意味される時、神的なものに人間性を結ばれる前の主の神的なものからの善と真理が意味される。そのようにそれらは古代人達の許にあった。
[2]古代人達の許にあった真理は、現在、それらがあったことを殆んど何も知らないほど、また現在同様に教えられている真理と比べて異なった真理であることを殆んど何も知らないほど完全に消された。しかし完全に異なったものであった。古代人達は主の王国の天的なものと霊的なものの表象のものと表意のものを持ち、同時に、それらを理解した者達は賢明な者達と言われ、また実のところ賢明な者達であった。なぜなら、彼らは霊達と天使達と一緒に話すことが出来たからである。というのは、天使的な会話は霊的な、また天的なものなので自然的なスフェア(霊気)の中に居る人間に落ちる時、聖言の中にあるような表象のものと表意するものに落ちるので人間に不可解なものだからである。聖言はそこから神聖な本である。というのは、聖言には完全な相応があるために自然的な人間の目の前では他の方法で神的なものを記述されることが出来ないからである。また古代人達は主の王国の表象のものと表意するものの中に居たので、その中には天的な愛と霊的な愛を除いてなかったので、更に教義の事柄も持った。それらは神への愛と隣人への仁愛について述べただけのものであった。それらにより彼らもまた賢明な者達と言われた。