27-3513~3517意訳「天界の秘義」創世記Ⅲ

3513.「そして私は食べよう」が、そのように自分のものとすることを意味することは「食べること」の意味が専有であることから知られよう。そのことについては、2187, 2343, 3168, 3503番に示された。自然的な人間の中へ真理、或いは善と真理の知識が快いものと楽しいものによって吹き込まれる時、自分のものと為される。またそれらの真理がそこで善に結ばれる場合、その時、理性の真理と善に伝達が為され、そのように理性に伝達が為される。その伝達が自分のものにすること(専有)と言われる。なぜなら、自然的な人間の中の理性的なものであるからである。というのは、理性の中にあるものを、全体的なものの中に部分的なものを持つ如く、自然的な人間の中に理性の中にあるものを持つからである。部分的なものから全般的なものが存在するようになること、また部分的なものなしに何も全般的なものは存在するようにならないことは熟知されている。理性の部分的なものの全般的なものが自然的な人間の中にもたらされ、またそれは全般的なものであるので、他の形の下に現われ、またそれを構成しているものの個々の秩序に従って現われるので、従ってそこからの形に従って現われる。もし、自然的な人間の中に全般的なものを形作る天的な善と霊的な真理の個々のものとそこからの霊的な真理の部分的なものがあるなら、その時、天的な形と霊的な形が現われ、またそれらが或る種の像の中に表象され、天界の全般的な何かのものが個別的なものの中に現われる。しかしもし、個々のものと部分的なものが悪と間違った原理であるなら、自然的な人間の中に形作る全般的なものは、その時、表象される像の中に地獄の何かの全般的なものが個々のものの中に現われる。
[2]聖餐式において食べることと飲むことによってもそのようなことが意味される。そこでもまた食べることと飲むことは自分のものとすることである。即ち「食べること」によって善のものを自分のものとすることが意味され、「飲むこと」によって真理のものを自分のものとすることが意味される。もし善、即ち主への愛と隣人への愛を形成するなら、内なる人間、或いは理性的な人間を形成し、またそれによって相応している外なる人間と自然的な人間を形成する。その時、人間は個別的にも全般的にも天界の像に為され、従って主の像に為される。しかしもし、主と善、また信仰の真理への侮り、その上、隣人への憎しみを形成するなら、その時、人間は個別的にも全般的にも地獄の像に為され、またそれが神聖なものの中で一緒に為される時、更に地獄の像に為される。というのは、そこから冒涜があるからである。ふさわしく食べ、また飲む者達は永遠の生命が専有されるが、しかし不相応に食べ、また飲む者達は死を専有する。

3514.「またエホバの前で私はあなたを祝福しよう」が、そのように連結を意味することは、「私はあなたを祝福しよう」の意味が彼の生命への連結であることからか知られよう。そのことについては、上の3504番に示された。それが「エホバの前で私はあなたを祝福しよう」と言われているので連結である。自然的な真理と理性的な善との伝達については接合が属性付けられるが、しかし自然的な善と理性的な善との伝達については連結が属性付けられる。というのは、主と人間の間に善である天的なものに関して類似が存在するからであり、真理である霊的なものに従ってその類似は存在しないからである。そのことは1832番に認められよう。

3515.「私が死ぬ前」が、そのように自然的なものの中の生命を意味することは、「死」の意味が生命への蘇生であることから知られよう。そのことについては、上の3498, 3505番に示された。

3516.八~十節「またそれで、私の息子よ、私があなたに命じることについて私の言葉を聞け、
私は願う羊の群れに行け、そしてそこから私に善い二匹の雌山羊の子を取れ、同時に、私はそれらをあなたの父の好むようなご馳走に作ろう。
そして、あなたの父にそれを持って行き、また父がその死の前にあなたを祝福することのために食べさせよ、」
「またそれで、私の息子よ、私があなたに命じることについて私の言葉を聞け」は、自然的な真理に対し神的な理性の中の神的な真理により取り入れられた願望と喜びを意味し、「私は願う羊の群れに行け」は、神的な理性に連結されていない家の自然的な善を意味する。「そしてそこから私に善い二匹の雌山羊の子を取れ」は、その善の真理を意味し、「同時に、私はそれらをあなたの父の好むようなご馳走に作ろう」は、そこからの楽しいものを作るであろうを意味し、「そして、あなたの父にそれを持って行き、また食べさせよ」は、神的な理性の神的な善にを意味し、また専有を意味する。「父があなたを祝福することのために」は、そのように連結を意味し、「その死の前」は自然的なものの中での蘇生を意味する。

3517.「それで、私の息子よ、私があなたに命じることについて私の言葉を聞け」が、自然的な真理に対し神的な理性の中の神的な真理により取り入れられた願望と喜びを意味することは、ここで話す「リベカ」の表象が神的な理性の神的な真理であることから知られよう。そのことについては前に示された。またここで言われている「ヤコブ」の表象が自然的な真理であることから知られよう。そのことについてもまた前に示された。願望のものが喜びであることは説明なしに明らかである。