27-3634~3637意訳「天界の秘義」創世記Ⅲ


3634.相応の中に居る人間、即ち主への愛と隣人への愛の中に居り、またそこから信仰の中に居る人間は自分の霊により天界に居り、また自分の身体によりこの世に居る。またそのように一つのものとして働くので、彼は天界の像でもまたある。また言われたように、凡てのものの流入、或いは全般的なものの個別的なものへの流入、或いは部分的なものへの流入があるので、彼は人間的な形の下の小天界である。というのは、人間は善と真理から人間であることを有するからであり、また獣から区別されたものであるからである。

3635.人間的な身体の中にその凡ての活動の源泉である二つのものがあり、更に外なる凡ての行動と感覚の源泉である二つのもの、或いは純然たる身体の源泉である二つのもの、即ち心臓と肺臓がある。それらの二つのものはそのように巨大人、即ち主の天界に相応する。そこで天的な天使達が一つの王国を構成し、もう一つの主の王国を霊的な者達が構成する。なぜなら、主の王国には天的な王国と霊的な王国があるからである。天的な王国は主への愛の中に居る者達により構成され、霊的な王国は隣人への仁愛の中に居る者達により構成される。2088, 2669, 2715, 2718, 3235, 3246番を参照、人間の中の心臓とその分野は天的な王国に相応し、肺臓とその分野は霊的な王国に相応する。心臓と肺臓もまたそこからの流入によってそれらが存在し、また存続し、それほどまでもそれらに流入する。しかし心臓、および肺臓と巨大人との相応は神的な主の慈悲により特に述べられなければならない。

3636.主は天界の霊太陽で在られ、またそれから他生における凡ての光があること、また天使達と霊達、即ち他生に居る者達にこの世の光からは全く何も見えないこと、またこの世の太陽の光は暗黒以外のものでないことは最も普遍的なことである。天界の霊太陽から、即ち主から光だけでなく、熱もまたあるが、しかし霊的な光と霊的な熱がある。霊的な光は天使達と霊達の目の前で光の如く見えるが、しかし本質的に知性と知恵を有する。なぜなら、霊太陽からあるからである。また霊的な熱は彼らに熱の如く感覚に認められるが、しかしそれに愛が内在する。なぜなら、霊太陽からあるからである。それ故に、愛もまた霊的な熱と言われ、同時に人間に熱もまた引き起こす。また知性は霊的な光と言われ、同時に人間に生命の光を見せる。これらの全般的な相応から他の相応が引き出される。なぜなら、凡てのものの全体的なものも個別的なものも愛の善と知性の真理に関係するからである。

3637.巨大人は人間に関しては主の全天界であるが、しかし最高の意味において巨大人は主だけで在られる。というのは、主御自身から天界があるからであり、また主御自身にそこの凡てのものが相応するからである。
人類は悪い生活(生命)とそこからの間違った原理の確信によって完全に歪められたものに為されたので、またその時、人間の許の低いものが人間の高いものの上に支配することを始めたので、即ち人間の許の自然的なものが人間の霊的なものの上に支配することを始めたので、従ってその後、エホバ、即ち主は巨大人を通して、即ち天界を通して流入することがなく、それらを秩序へ戻すことが出来なかったので、それ故、人類が主御自身に関係するために、またただ一人の巨大人の全天界に関係するために、また主御自身だけに相応するために主のこの世への降臨の必然性が生じ、そのように人間的なものをまとう必然性が生じ、またそれを神的なものに為す必然性が生じ、またそれによって秩序を元へ戻し、悪とそこからの間違った信念の中に居る者達が巨大人の足の下に、従って巨大人の外に投げ捨てられる必然性が生じた。
それ故、天界の中に居る者達は主の中に、それどころか主御自身の身体の中に居ることが言われる。なぜなら、主は天界の凡てで在られるからである。その中でそこの凡ての者は、同時に個々に職務と義務を割り当てられる。