28-3653~3654-1意訳「天界の秘義」創世記Ⅲ

3653.それらから今や、愛の善と信仰の真理に関する教会の荒廃の状態が知られることが出来よう。それがこれらの節で充分に述べられており、また同時にそれらの中に居る者達にその時何を為さなければならないかの奨励も充分に述べられている。教会内に三種類の人間が居る。即ち主への愛の中に居る者達、隣人への仁愛の中に居る者達、および真理への情愛の中に居る者達である。最初の種類の者達、即ち主への愛の中に居る者達は、特に「ユダヤに居る者達は山々に逃げよ」によって意味されており、隣人への仁愛の中に居る者達である第二の種類の中に居る者達は、特に「家の屋根の上に居る者は、その家から何かを取るために降りるな」によって意味されており、真理への情愛の中に居る者達である第三の種類の中に居る者達は、特に「また野(畑)に居る者は自分の衣服を取るために後ろに引き返すな」によって意味されている。
それらについては、前の第二部の2454番において言われ、また説明されたことが認められよう。またそこで「後に引き返すこと」と「自分の後を振り返ること」が何かもまた説明された。

3654.聖言の内意において「ユダヤ」は、「エルサレム」がエルサレムを意味しないようにユダヤを意味しないことは、聖言の中の多くの箇所から知られることが出来よう。聖言においてユダヤはそれほど言われていないが、しかしユダの地はよく言われている。またカナンの地によって主の王国が意味され、従って教会もまた意味される如く(なぜなら、教会は地上における主の王国であるからである)ユダの地によってもまたそれらが意味される。またそのことはユダ、或いはユダヤ民族によって主の天的な王国が表象され、またイスラエル、或いはイスラエルの民によって主御自身の霊的な王国が表象されたのでそのためである。そしてそれらが表象されたので、それ故、それらが聖言において言われる時、その内意の中ではそれ以外のものは意味されていない。
[2]それらが意味されることはユダとユダの地について後に続く箇所で神的な主の慈悲により言われることから明らかであろう。即ち、その間に下記の預言者達の許の僅かな言葉から明らかであろう。イザヤ書において、
「油注がれた息子の三日月状の地の間に私の愛する葡萄の木があった。彼はそれを取り巻き、またその石を取り除き、またそこに高貴な葡萄の木を植え、そしてその真ん中に櫓を建てた。また更に、その中に酒ぶねをうがち、そして葡萄の実が結ぶことを待ったが、しかし野葡萄の実を結んだ。今また、エルサレムの住民もユダの男も、願わくば私と私の葡萄の木の間を裁け、...私はそれを荒地に捨てよう。...なぜなら、万軍のエホバの葡萄畑はイスラエルの家だからであり、またユダの男はエホバ御自身の喜びの苗だからである。そしてエホバは正しい審判を望んだが、しかし見よ、膿んだ審判があった。正義を望んだが、しかし見よ、叫びが起きた。」5.1-3, 6, 7、ここの文字通りの意味においてはイスラエル人とユダヤ人の歪められた状態について述べられているが、しかし内意においてはイスラエルとユダヤによって表象された教会の歪められた状態について述べられている。「エルサレムの住民」は教会の善である。「住民」が善であること、或いは同じことであるが、善の中に居る者達であることは2268, 2451, 2712, 3613番に認められよう。また「エルサレム」が教会であることは402, 2117番に認められよう。「イスラエルの家」も同様であり、「家」が善であることは710, 1708, 2233, 2331, 3142, 3538番に認められよう。また「イスラエル」が教会であることは3305番に認められよう。同様に「ユダの男」も意味される。というのは、「男」によって真理が意味されるからであり、265, 749, 1007, 3134, 3310, 3459番を参照、また「ユダ」によって善が意味されるからであるが、「ユダの男」は天的な真理と言われる主への愛の善からの真理であることの相違を持って意味される。即ちそのような真理の中に居る者達であることの相違を持って意味される。