28-3661~3665意訳「天界の秘義」創世記Ⅲ

3661.「そして彼に命じ、なおまた彼に言った」が、熟考とそこからの認識を意味することは、歴史的な聖言において「命じること」の意味が熟考することであることから、また「言うこと」の意味が認識することであることから知られよう。そのことについては、1791, 1815, 1819, 1822, 1898, 1919, 2080, 2619; 2862番に示された。熟考は事柄の熟視でありそれをどのように有するか、更にどのようなものであるかの熟視であり、そこから認識がある。

3662.「あなたはカナンの娘達から女(妻)を娶るな」が、間違った原理と悪への情愛に連結されないとすればを意味することは、「女(妻)を娶る」ことの意味が結び付けられること、或いは連結されることであることから知られよう。また「娘達」の意味が情愛であることから知られよう。そのことについては568, 2362, 3024番に示された。また「カナン」の意味が間違った原理と悪であることから知られよう。そのことについては1093, 1140, 1141, 1167, 1205, 1444, 1573, 1574, 1868番に示された。

3663.「あなたは立ち上がれ」が、そこからのその善を上げるとすればを意味することは、ここで言われている「立ち上がること」の意味が何かを上げることを含むことから知られよう。そのことについては2401, 2785, 2912, 2927, 3171番に示された。ここでは「カナンの娘達」によって意味されているようなものから「ラバンの娘達」によって意味されているようなものへ上げることである。ラバンの娘達については後に続く個所で述べよう。

3664.「パダンアラムへ行け」が、そのような真理の概念(知識)を意味することは、「アラム」、即ちシリアの意味が概念(知識)であることから知られよう。そのことについては1232, 1234, 3249番に示された。「パダンアラム」が真理の概念(知識)であることはそこからである。なぜなら、シリアに川があったからであり、そこにナホル、ベトエル、およびラバンが居たからである。川によって真理の概念(知識)が意味されることは3051番に認められよう。「パダンアラム」は、前の第25章20節、また後に続く第31章18節においてもまた述べられており、またそれらの箇所においてもまた真理の概念(知識)を意味する。

3665.「あなたの母の父ベトエルの家に行け、そしてそこから、あなたの母の兄ラバンの娘達から女(妻)を娶れ」が、連結されなければならない隣接した外なる善とそこからの真理を意味することは「ベトエル」の表象が最初の部類の異邦人達の善であることから知られよう。そのことについては2865番を参照、また「ラバン」の表象が自然的な人間、或いは外なる人間の中の善い情愛であることから知られよう。また特に共通の起源の隣接した善い情愛であることから知られよう。そのことについては3129, 3130, 3160, 3612番に示された。また「女(妻)を娶ること」の意味がそこからの真理への情愛に結び付けられること、或いは連結されることであることから知られよう。「女(妻)を娶ること」が、連結されることであることは明らかであり、また「娘達」が情愛であることは568, 2362, 3024番に認められよう。それ故、それらの言葉が何を意味するか知られよう。即ちここの「ヤコブ」によって表象された自然的な善が隣接した外なる善からの真理に連結されることを意味することが知られよう。
[2]それらは次のようにそのことを有する。人間が再生される場合、その時、人間は先ず主により幼児の如く導かれ、その後、少年の如く導かれ、次に青年の如く導かれ、最後に成人の如く導かれる。幼児、少年の如く学ぶ真理は全く外なるものと形体的なものである。なぜなら、内的なものはまだ理解することが出来ないからである。それらの真理はそれらの中の内部に神的なものがあるような概念(知識)を除いて他のものではない。それらの中に神的なものがある概念(知識)は内的な真理を益々継続的に、また秩序によって容認することが出来るようなものである。しかしそれらの中に神的なものがない概念(知識)は内的な真理を容認せずに退けるようなものである。というのは、外なる、また形体的な善と真理の概念(知識)は、その性質に従って種を受け入れる大地の如くあるからである。その或る種を受け入れ他の種を受け入れない性質があり、また一つの種類の種を成長させ、また他の種を抑えつける性質がある。それらの中の内部に神的なものがある概念(知識)は本来霊的な、また天的な真理と善を引き入れる。というのは、内部に神的なものからのものがあるからであり、また神的なものからのものが処理するからである。それらの概念(知識)はそのようなものである。しかしそれらの中に神的なものがない概念(知識)は間違った原理と悪だけを引き入れる。なぜなら、そのような性質であるからである。ここで「ラバンの娘達」によって意味される外なる、また形体的な真理の概念(知識)は霊的な、また天的な真理と善を引き入れる。しかし「カナンの娘達」によって意味される外なる、また形体的な真理の概念(知識)は霊的な、また天的な真理と善を引き入れない。
[3]幼年期から少年期までの概念(知識)は最も全般的な容器の如く習得され、それらは善のもので満ちており、また満たされ人間が照らされる。もしそれらの中に本物の善があることが出来るような容器であるなら、その時、それらの中の内部が神的なものより満たされ、人間が照らされる。そしてそれが連続的に益々為される。しかしもし、それらの中に本物の善があること出来ないような容器であるなら、その時、人間は照らされない。無論、照らされる如く見えるが、しかし間違った原理と悪からの愚かな光からある。しかしそれでもなお、それらによって善と真理に関して益々不明瞭にされる。
[4]このような多くの概念(知識)があり、また類型に関して殆んど列挙されることが出来ないほど多くのものがあり、まして種類に関しては殆んど区別されることが出来ないほど多くのものがある。というのは、それらは神的なものから理性的なものを通して自然的なものの中へ様々に引き出されるからである。というのは、それらの或る種のものは理性的な善を通して直接に流入するからであり、またそこから自然的な善の中へ流入するからであり、更にその善の真理の中へ流入するからであり、また再びそこから外なる自然的なものの中へ、或いは形体的なものの中へ流入するからであり、なお加えて、そこでもまた様々な派生物に分かれるからである。またそれらの或る種のものは間接に理性的な真理を通して自然的な真理の中へ流入するからであり、更にその真理の善の中へ流入するからであり、また再びそこから外なる自然的なものの中へ、或いは形体的なものの中へ流入するからである。そのことは3573, 3616番に認められよう。
それらは民族、氏族、および家族、またそれらの中の血縁関係と姻戚関係の如くそれらを有する。即ち最初の先祖からの正しい血統の中に居る者達がおり、また斜めの血統の中、或いは益々傍系の血統の中に居る者達の如くそれらを有する。天界においてそれらは最も区別されたものである。なぜなら、そこの凡ての社会は類型と種類に従って、またそこからの類似に従って区別されたものであるからである。685, 2508, 2524, 2556, 2739, 3612番を参照、それらもまた天的な人間達であった最古代人達が表象した。それによってそのように彼らは民族、氏族、および家族に分かれて住んだ。470, 471, 483, 1159, 1246番を参照、それ故、表象の教会からの者達は結婚を自分達の民族の氏族の間に制限することを命じられた。というのは、そのように彼らによって天界を表象することが出来たからであり、また善と真理に関する連結がその社会を表象することが出来たからである。丁度、今ここのヤコブによって「あなたの母の父ベトエルの家に行け、そしてそこから、あなたの母の兄ラバンの娘達から女(妻)を娶れ」と命じられたように表象することが出来たからである。
[5]それらは傍系の善からの外なる真理、或いは形体的な真理の概念(知識)そのものに関係する。また言われたように、それらはその内部に本来神的なものを有し、またそのように、後で再生される幼児、少年の許にある概念(知識)のように本物の善を引き入れることが出来る。そのような概念(知識)が聖言の歴史的な概念(知識)の性質である。例えばそこでパラダイス(楽園)について、そこの最初の人間について、その真ん中の生命の樹木について、また科学(知識)の樹木について、その者を騙したそこの蛇について言われている。それらは概念(知識)であり、それらは本質的に神的なものを持ち、また本質的に霊的な善と真理、および天的な善と真理を引き入れる。なぜなら、それらの概念(知識)はそれらを表象し、また意味するからである。聖言の歴史的なものの中の概念(知識)もまた残りのものである。丁度、それらがそこで天幕について、また神殿について、またその構造について、同様にアロンとその息子達の衣服について、更に天幕の祝祭、初生り刈り入れの祝祭、パン種を入れない祝祭について、また他の同様なことについて述べられているようなものである。それらとそのようなものが幼児、少年により知られ、また考えられる場合、その時、彼の許の天使達によりそれらが表象し、また意味する神的なものについて考えられる。また天使達はそれらに働き掛けられるので、天使達の情愛が伝達され、またそれらにより少年は楽しものと愉快なものを引き起こす。そしてその心を本物の真理と善を受け入れるために準備する。このようなものと他の非常に多くのものが傍系の善からの外なる、また形体的な真理の概念(知識)である。