29-3762-2~3764意訳「天界の秘義」創世記Ⅲ

[4]エレミヤ書において、
「エホバはこのように言われた。あなた達はケダルに向かって上れ、また東の息子達を荒らせ、彼らの天幕と彼らの羊の群れをあなた達は取らなければならない。彼らの幕と凡ての容器、また彼らの駱駝をあなた達は取らなければならない。」49.28,29、ここの「東の息子達」によって善と真理の概念(知識)の中に居る者達が意味されることは、彼らの天幕と羊の群れ、更に幕と凡ての容器、そのようにまた駱駝を取ることから知られよう。というのは、「天幕」によって善の神聖なものが意味されるからである。414, 1102, 2145, 2152, 3312番を参照、また「羊の群れ」によって仁愛の善が意味されることから知られよう。そのことについては343, 2566番に示された。また「幕」によって神聖な真理が意味されることから知られよう。2576, 3478番を参照、また「容器」によって信仰の真理と科学的な(事実に基づく)ものが意味されることから知られよう。3068, 3079番を参照、また「駱駝」によって一般的に科学的な(事実に基づく)ものが意味されることから知られよう。3048, 3071, 3143, 3145番を参照、そのように「東の息子達」によってそれらの中に居る者達、即ち善と真理の概念(知識)の中に居る者達が意味される。
[5]イエスが産まれた時、イエスに東から賢明な者達が来た。彼らは東の息子達と言われた者達であったことは、東において彼らに現われた星により、彼らは主が産まれるであろうこと、また主御自身の降臨を知ることの概念(知識)の中に居たことから知られることが出来よう。その者達についてマタイ伝において次のように、
「ユダヤのベツレヘムにイエスが産まれた時、...見よ、東から賢明な者達が来て言った。ユダヤ人達の王はどこで産まれたのですか? 確かに、私達は東でその方の星を見ました。そしてその方を崇拝するために私達は来ました。」2. 1, 2、シリアからの東の息子達の許に古代からそのような預言があったことは、主の降臨についてのバラムの預言から知られよう。
「私は主御自身を見る。ところがしかし、今ではない。私は主御自身を見つける。ところがしかし、近くではない。ヤコブから星が現われ、またイスラエルから笏が起るであろう。」24.17、バラムが東の息子達の地、即ちシリアから生じたことはモーセの書の下記の箇所から明らかである。
「バラムは自分の主張を公表し、そして言った。モアブの王バラクは私をシリアから、東の山々から連れて来た。」民数記、23.7、イエスが産まれた時、イエスの許に来た賢明な者達は博士と呼ばれたが、しかしその時から賢明な者達と言われたことは、創世記、41.8、出埃及記、7.11、ダニエル書、2.27、4. 6, 7、列王記Ⅰ、4. 30、また預言者達の書の至る所のように多くの聖言の箇所から知られよう。
[6]反対の意味で「東の息子達」は悪と間違った原理の概念(知識)を意味すること、そのようにそれらの中に居る者達を意味することはイザヤ書のもとに知られよう。
「エフライムの嫉妬は去り、またユダの敵達は滅ぼされるであろう。...彼らは海に向かってペリシテ人達の背に襲い掛かるであろう。また彼らは共に東の息子達を略奪し尽くすであろう。」11. 14、エゼキエル書において、
「アンモン人の息子達に対し、見よ、私はあなたを東の息子達に相続のために与えた。彼らはあなたの中に自分達のしきたりを置くであろう。」25. 4,10、士師記の書において、
「イスラエル人が種を蒔いた時、同時に、ミデヤン人とアマレク人、および東の息子達が登って来た。そしてその上に登った。」4.3、ここで「ミデヤン人」は間違った原理の中に居る者達として記述されている。なぜなら、善い生命(生活)の中に居ないからである。3242番を参照、「アマレク人」は間違った原理の中に居る者達として記述されている。1679番を参照、「東の息子達」は間違った原理の概念(知識)の中に居る者達として記述されている。

3763.二~三節、「そして、彼は見た。同時に見よ、野の中の井戸、また見よ、そこで彼の直ぐ近くに横たわっている三つの羊の群れ、なぜなら、その井戸から群れに飲ませたからである。また大きな石が井戸の口の上にあった。
そして、そこへ凡ての群れがまとめられ、また井戸の口の上の石を転がり落とし、そして群れに飲ませ、またその場所へ井戸の口の上に石を戻した。」
「彼は見た」は認識を意味し、「見よ、井戸」は聖言を意味し、「野(畑)の中の」は教会としての野(畑)を意味し、「また見よ、そこで彼の直ぐ近くに横たわっている三つの羊の群れ」は、教会と教義の神聖なものを意味し、「なぜなら、その井戸から群れに飲ませたからである」は、そこからの科学(知識)を意味し、「また大きな石が井戸の口の上にあった」は、それが閉ざされたことを意味し、「そして、そこへ凡ての群れがまとめられた」は、凡ての教会とそこからのそれらの教義の事柄を意味し、「また井戸の口の上の石を転がり落とした」は、それらを開けたことを意味し、「そして群れに飲ませた」は、そこからの教義を意味し、「またその場所へ井戸の口の上に石を戻した」は、そうこうするうちにそれが閉ざされたことを意味する。

3764.「彼は見た」が認識を意味することは、「見ること」の意味が認識することであることから知られよう。そのことについては、この章の後に続く32節においてそこでルベンについて言われることから知られよう。彼は見ることからルベンと名付けられた。