29-3784~3790意訳「天界の秘義」創世記Ⅲ

3784.七~八節、「また、彼は言った。見よ、依然として日は長い。羊達を集める時ではない。羊の群れに飲ませよ、また行って牧せよ、
同時に、彼らは言った。私達は出来ません。凡ての群れが集められ、また井戸の口の上から石を転がし落とすまで、そして私達が羊の群れに飲ませるまで、」
「彼は言った。見よ、依然として日は長い」は、今なお継続している日の状態を意味し、「羊達を集める時ではない」は、教会と教義の事柄の諸々の善と諸々の真理をまだ一つにしないことを意味し、「羊の群れに飲ませよ、また行って牧せよ」は、それでもなお、そこから僅かな者達に教えることを意味し、「同時に、彼らは言った。私達は出来ません。凡ての群れが集められるまで」は、それらは一緒にいなければならないことを意味し、「また井戸の口の上から石を転がし落とすまで」は、そのように聖言の覆いが取られるまで」を意味し、「そして私達が羊の群れに飲ませるまで」は、その時、教えられることを意味する。

3785.「彼は言った。見よ、依然として日は長い」が、今なお継続している日の状態を意味することは、日の意味が状態であることから知られよう。そのことについては、23, 487, 488, 493, 893, 2788, 3462番に示された。「見よ、依然として日は長い」が継続していることはひと続きのものから明らかである。

3786.「羊達を集める時ではない」が、教会と教義の事柄の善と真理をまだ一つにしないことを意味することは、「時」の意味が一般的に状態であることから知られよう。そのことについては2625, 2788, 2837, 3254, 3356番に示された。また「集めること」の意味が一つになることであることから知られよう。また「羊」の意味が一般的に教会と教義の事柄の善と真理であることから知られよう。羊は一般的にそれらを意味する。なぜなら、表象の教会の宗教儀式において、また聖言においてそれらの動物は善への情愛、或いは真理への情愛であるからである。そのことは45, 46, 142, 143, 246, 714, 715, 776, 1823, 2179, 2180, 2781, 3218, 3519番に示されたことから知られることが出来よう。またそれらは教会と教義の事柄の善と真理なので、またそれらについて内意の中で取り扱われているので、「羊達を集める時ではない」によって教会と教義の事柄の善と真理をまだ一つにしないことを意味する。それらのことによって表象の意味において次のようにそのことを有する。古い状態を捨て、また新しい状態を身に着ける人間、即ち再生される人間において、再生よりも前に教会と教義の事柄の善と真理を学び、また吸収しなけらばならない。というのは、知識(概念)、更にそれらのための情愛は新しい生命を受け入れる容器であるからである。それ故、進んでいる年齢において、或いは充分な状態においてでなければ誰も再生されることが出来ない。そのことは677, 679, 711, 1555, 2046, 2063, 2636, 2697, 2979, 3203, 3502, 3508, 3510, 3665, 3699, 3701番に認められよう。そのことは一般的に教会と一緒にそのことを有する。教会が設立される時、先ず善と真理の教義の事柄が一つのものにならなければならない。というのは、教会はそれらの上に建てられるからであり、更に教義の事柄もまた相互に結びつき、また相互に関係するからである。それ故、前以て一つのものになるのでなければ無力なものであろう。またそれらが不足する時、人間の理性から補われなければならない。人間の理性が霊的なものと神的なものの中で盲目であるほど、また欺かれるほど、その時、自分自身から推論する。そのことは前にしばしば示された。それ故、教会に聖言が与えられた。その中に善と真理の凡ての教義の事柄がある。再生される人間に個別に聖言が持たれる如く、一般的な教会において、その中に聖言を持つ。というのは、再生される者は個別の教会であるからである。上に言われたように、再生される前に人間の許に、前以て教会の善と真理の教義の事柄が一緒に在らねばならない。それらが「見よ、依然として日は長い。羊達を集める時ではない」によって内意の中で意味されている。

3787.「羊の群れに飲ませよ、また行って牧せよ」が、それでもなお、そこから僅かな者達に教えることを意味することは、「羊の群れに飲ませること」の意味が聖言から教えることであることから知られよう。そのことについては3772番に示された。また「行って牧せよ」の意味がそこからの生命(生活)と教義であることから知られよう。そのことは3335, 3690番に認められよう。また「牧すること」の意味が教義であることから知られよう。343番を参照、また後に続く箇所において知られよう。ここに隠れている秘義は完全な状態に至るまで達する者達、またそのように再生されることが出来る者達は僅かな者達であることである。そのことについては2636番に示された。

3788.「同時に、彼らは言った。私達は出来ません。凡ての群れが集められるまで」が、それらは一緒に居なければならないことを意味することは、上の3786番のように、「集められること」の意味が一つであること、或いは一緒に居ることであることから知られよう。また「群れ」の意味が教義の事柄であることから知られよう。そのことにつては3767, 3768番に示された。それらの言葉が何を含むかは直ぐ上の3786, 3787番に言われたことから知られることが出来よう。

3789.「また井戸の口の上から石を転がし落とすまで」が、そのように聖言の覆いが取られるまでを意味することは、「石を転がし落とすこと」の意味が覆いを取られることであることから知られよう。そのことについては3769, 3771, 3773番に示された。また「井戸」の意味が聖言であることから知られよう。そのことについては3424, 3765番に示された。

3790.「そして私達が羊の群れに飲ませるまで」が、その時、教えられることを意味することは「羊の群れに飲ませること」の意味が教えることであることから知られよう。そのことについては3772, 3787番に示された。それらのこともまた前に言われたことから明らかである。