29-3794~3796意訳「天界の秘義」創世記Ⅲ

3794.「彼女の父の」が起源に関して善からを意味することは、ここの「父」であるラバンの表象が共通の根源からの傍系の善であることから知られよう。そのことについては3612, 3665, 3778番に示された。また「父」の意味が善であることからもまた知られよう。そのことについては3703番に示された。

3795.「なぜなら、彼女は羊飼いであったからである」、或いは彼女は牧している者であるが聖言の中で教える内的な真理への情愛を意味することは、「羊飼い」、或いは牧している者の意味が導く者と教える者であることから知られよう。そのことについては343番に示された。またここの「彼女」である「ラケル」の表象が内的な真理への情愛であることから知られよう。そのことについては直ぐ上の3793番に示された。彼女は羊の群れと一緒に井戸に来たので、教え導くことは聖言により教え導く。「井戸」が聖言であることは3765番に認められよう。また更に内的な真理への情愛が教え、またそれにより教える。というのは、教会は情愛から教会があるからであり、またそれから羊飼いは羊飼いであるからである。聖言において「羊飼いと牧している者」は導く者と教える者を意味する。なぜなら、「羊の群れ」は導かれ、また教えられる者達を意味するからである。それ故に、「羊の群れ」は教会と教会の教義の事柄もまた意味する。3767, 3768, 3783番を参照、羊飼いと羊の群れがそれらを意味することは基督教世界において最も熟知されたことである。というのは、教える者達と学ぶ者達はそのように言われるからである。それ故に、それらを聖言から確認することは控えよう。

3796.「そして、それがあった。ヤコブが自分の母の兄ラバンの娘ラケルを見た時」が、その起源からのその真理への情愛の承認を意味することは、ひと続きの事柄から明らかなように、「見ること」の意味がここでは承認することであることから知られよう。また「ラケル」の表象が内的な真理への情愛であることから知られよう。そのことについては、上の3793番に示された。「自分の母の兄ラバンの娘」は起源、即ち「ヤコブの母リベカ」によって表象された理性的な真理に連結された兄弟のような傍系の善からの起源を含む。
[2]真理への情愛と善への情愛によって、次のようにそのことを有する。人間により認められる本来の真理への情愛と善への情愛は、主からあるので、神的な起源からその凡てのものがある。しかしそれらが降る時、途中で様々なものと反対の流れに変化し、またそこで新しい起源を形成する。というのは、人間の許の本来の情愛ではない、また偽の情愛へ流入するからであり、また悪への情愛と間違った原理への情愛に流入するからであり、そのように変えられるからである。外なる形においては、しばしばそれらを本来の情愛と同じに見せるが、しかしそれでもなお、内なる形においてそのようなものではない。唯一の目印は目的から知られる。もし自分自身のための目的から、或いはこの世のための目的からであるなら、その時、それらの情愛は本来のものではない。しかしもし、隣人への善、社会への善、祖国への善のための目的からであるなら、また更にもし、教会への善、また主の王国への善のための目的なら本来の情愛である。なぜなら、その時、主のためであるからである。というのは、主はそれらの善の中に居られるからである。
[3]だが聞き給えそれでもなお、自分自身の許の目的を知ることは賢明なことである。時折、自分のための目的でない時、自分のための目的であるように見える。なぜなら、人間は自分自身について個々のものの中で熟考するような者であるからであり、またそれを習慣と意向からするからである。だが聞き給えもし、誰かが自分自身の許の目的を知ることを欲するなら、自分への称賛と栄光から本来認める楽しいものについて注意するだけで、また自分自身から分離された用から認める楽しいものについて注意するだけで知ることが出来る。もし、用から楽しいものを認めるなら、その時、本来の情愛の中に居る。更にそれらの中の様々な状態についてもまた注意しなければならない。なぜなら、状態そのものが理解を大抵変えるからである。これらを人間は自分自身の許で調べることが出来るが、しかし他の者達においては出来ない。なぜなら、各々の者の情愛の目的は主だけに知られるからである。それ故、主は言われた、
「あなた達は裁くな、あなた達が裁かれないように、あなた達は永遠の断罪をするな、あなた達が永遠の断罪をされないように、」ルカ伝、6.37、というのは、千人(無数)の者達が真理と善に関して同様な情愛に見えることが出来るが、しかし情愛の起源に関して、即ち目的に関しては異なっているからである。
[4]目的が情愛をそのようなものであること、即ち本来のものであるか、偽のものであるか、誤ったものであるかを為し、そこから情愛がある。なぜなら、目的は人間の生命そのものであるからである。というのは、人間により目的として持たれるものが人間の生命のものであるからであり、或いは同じことであるが、人間の愛のものであるからである。隣人への善、共同体への善、教会と主の王国への善が目的である場合、その時、人間は霊魂に関して主の王国の中に居り、従って主の中に居る。というのは、主の王国は目的の王国、また人類の善のための用の王国を除いてないからである。3645番を参照、人間の許の天使達自身は人間の許の目的の中以外に居ない。人間がそのような主の王国の性質の中にある目的の中に居るほど、それだけ天使達はそれから楽しみを与えられ、また自分達を彼に兄弟のように連結する。しかし人間が自分自身の目的の中に居るほど、それだけ天使達は離れ、またそれだけ悪い霊達が近付く。なぜなら、地獄において他の目的は支配しないからである。これらからどの起源から情愛があるかを調べることを知ることがどれほど重要であるか知られることが出来よう。それは目的から以外知られることが出来ない。