29-3812-3意訳「天界の秘義」創世記Ⅲ

[7]ダビデの書において、
「私の凡ての骨はゆるみ、私の心臓は蝋の如く為された。...私の凡ての骨は数えることが出来る。...彼らは私の衣服を自分達のために分け、また私の掛け布の割り当てのくじを引いた。」詩篇、22. 14, 17, 18、ここでは主の固有性である神的な真理に関する主の試練について記述されている。またそれ故、「私の骨」と言われている。また主の固有性である神的な善に関する試練について記述されており、またそれ故、「私の心臓」と言われている。心臓が善であることは3313, 3635番に認められよう。また「骨」はそれらの真理を意味し、それらを「数えること」は誤った推論と間違った原理によってそれらを滅ぼすことを欲することであるので、それ故、直ちに「衣服を分け、また掛け布の割り当てのくじを引いた」が続く。なぜなら、「衣服」もまた真理であるからである。しかし外的な真理である。297, 1073, 2576番(を参照)、それらを分けることと掛け布の割り当てのくじを引くことも、同様なことを含む。例えばマタイ伝においても同様に衣服を分けたことと、それらの割り当てのくじを引いたことによって同様に表象され、また意味された。27.35、ダビデの書において、
「エホバは私の凡ての骨を守られ、それらについて一つも砕かれないであろう。」詩篇、34.20、ここでもまた内意において神的なものについて記述されている。そこの「私の凡ての骨」は主の神的な真理であり、「砕かれないこと」は滅ぼされないこととして記述されている。
「私の霊魂はエホバの中でこ踊りして喜び、エホバ御自身の救いの中で楽しむ。私の凡ての骨は言う。誰があなたの如く居られるであろう。」詩篇、35.10、ここで明瞭に「骨」は霊的な意味において理解の固有性である。同書において、
「あなたは私に楽しみと喜びを聞くことを為すであろう。あなたが砕いた骨がこ踊りして喜ぶであろう。」詩篇、51.8、ここで「あなたが砕いた骨がこ踊りして喜ぶであろう」は、試練の後の真理を通した回復として記述されている。
[8]「骨」は理解の固有性を意味したので、或いは真理に関する固有性を意味したので、また最高の意味において主の固有性で在られる神的な真理を意味したので、それ故、過ぎ越しの生け贄の定めにより過ぎ越しの小羊の骨を砕かなかった。その事柄について次のようにモーセの書において、
「肉について、それをあなたは一つの家の中で食べ尽くされなければならない。家から外へ持ち出してはならない。またその中の骨をあなた達は砕いてはならない。」出埃及記、12.46、また他の箇所に、
「それについて朝まで残してはならない。またそれについて骨を砕いてはならない。」民数記、9.12、最高の意味において「骨を砕かないこと」は神的な真理を害しないことであり、また表象の意味は各々の善の真理を害さないことである。というのは、真理から善の性質と善の形があるからであり、また肉体の骨の如く真理は善の支柱であるからである。
[9]神的な真理そのものである聖言が死んだ者達を生かすことが、
「エリシャの墓に投げ込まれ、その骨に触れた男が甦り、また自分の足の上に立ち上がった」ことによって表象された。列王記Ⅱ、13.21、「エリシャ」が神的な真理に関する主、或いは聖言に関する主を表象したことは、2762番に認められよう。反対の意味において「骨」は人間の固有性からの間違った原理を意味することは、エレミヤ記の下記の箇所から明らかである。
「その時に、彼らはユダの王達の骨、またその君主達の骨、また祭司達の骨、また預言者達の骨、またエルサレムの住民達の骨を彼らの墓から引き出し、また彼らが愛し、また仕えた太陽、月、および諸天の凡ての群れに広げるであろう。」8.1,2、エゼキエル書において、
「私はイスラエルの息子達の屍を彼らの偶像の前に置くであろう。そしてあなた達の祭壇の周りにあなた達の骨を散らそう。」6.5、モーセの書において、
「彼をエジプトから連れ出された神は彼らに角の力の如くその異邦人達、敵達を食べ、また彼らの骨を砕き、そしてその武器を粉砕されるであろう。」民数記、24.8、列王記Ⅱ、の書において、
「ヨシア王は彫像を壊し、また木立を切り倒し、またそれらの場所を人間の骨で満たした。...彼は墓から骨を取り出し、そして祭壇の上で焼きそれに穢れたものをもたらした。...そこの高位の凡ての祭司達を祭壇の上で生け贄にして、そしてそれらの上で人間の骨を焼き尽くした。」23. 14, 16, 20、モーセの書において、
「野の上で剣で刺し通された者、或いは死体、或いは人間の骨、或いは墓に触れた魂は七日の日々汚れた者になるであろう。」民数記、19. 16, 18、
[10]「骨」は間違った原理を意味し、また「墓」はそれらの中の悪を意味するので、また偽善は外見的に善のように見えているが、しかし内面的に間違った原理と汚れたものからの不潔な悪なので、それ故、主は次のようにマタイ伝において言われている。
「災いなるかな、律法学者とファリサイ人達、偽善者達よ、なぜなら同様に、あなた達は白い墓を造るからである。それらは確かに外側で美しく見えるが、しかし内側は死者の骨と凡ゆる不潔なもので満ちている。そのように、あなた達もまた確かに、外側で正しい人間に見えているが、しかし内側は偽善と不正で満たされている。」23. 27, 28、
それでそれらから「骨」によって真理に関しても、間違った原理に関しても理解の固有性が意味されることが明らかである。