29-3857-2意訳「天界の秘義」創世記Ⅲ

[4]同様に他の凡てのものがあり、それ故に、主は聖言において人間の理解に従って、またその外観に従って話された。聖言の文字通りの意味はそのようなものであるが、しかしそれでもなお、そのように本来内意を持ち、その中に内的な真理がある。それ故今や、「レア」について「エホバが彼女の母胎を開かれた」こと、また「ラケルは不妊である」ことが言われている。というのは言われたように、「レア」によって外的な真理への情愛が表象され、また「ラケル」によって内的な真理への情愛が表象されているからである。しかし外的な真理は人間が学ぶ最初の真理なので、またそれによって内的な真理の中に導かれることが出来るので、主は外的な真理を備えられた。そのことが、
「神が遂に彼女に聞き、また彼女の母胎を開かれた」創世記、30.22、ことによって意味されている。
[5]それらのことは古代の時代にあった諸教会から、またそれらの教義から知られることが出来よう。確かに、それらの教義は外なる真理により描写されたものであった。例えば洪水後あった古代教会から知られるように、その教義は非常に多くの部分に関して外なる表象のものと表意するものからなり、それらの中に内なる真理が隠されていた。彼らの大部分の者は外なる礼拝の中に居た時、神聖な礼拝の中に居た。もし表象のものと表意するものは神的な礼拝の本質的なものでなく、霊的なものと天的なものを表象し、また意味したと最初に誰かが彼らに言ったなら、彼らは完全にはねつけ、またそのように何も教会は造られたかったであろう。更に一層、ユダヤ教会は、もしその宗教儀式は主の神的なものから神聖なものを有したことを誰かが彼らに言ったなら、彼らは全く承認しなかったであろう。
[6]主がこの世に来られた時の人間もまたそのような者であり、更に一層、形体的な者であり、また教会に居た者達は他の者達よりも形体的な者達であった。そのことは主の許の側近に居り、また主御自身の王国についてあれほど多く聞いたが、しかしそれでもなお、内的な真理を理解することが出来なかった弟子達そのものから明瞭に明らかである。というのは、彼らは今日のユダヤ人達の如く、彼らが待ち望むメシアについて、その民を全世界の凡ての民族の上に支配と栄光のために上げることを除いて他の観念を持つことが出来なかった。また主から天的な王国についてあれほど多くのことを聞いた後でさえ、それでもなお、地上の王国の如くある天的な王国を除いて考えることが出来ず、またそこで父なる神が最高であり、その後に御子が居り、また続いて彼ら十二人が居り、そしてそのように彼らが支配することを除いて考えることが出来なかった。それ故に、ヤコブとヨハネもまた一人は主御自身の右側に、またもう一人は左側に座ることを求めた。マルコ伝、10.35-37、また他の弟子達は彼らが主に自分達より偉大なものであることを求めたことを憤慨した。マルコ伝、10.41、マタイ伝、20.24、それ故に主は彼らに天界において最も偉大な者であることが何かを教えられた後でも、マタイ伝、20.25-28、マルコ伝、10.42-45、それでもなお、彼らの着想に従って話された。即ち彼らが十二の王座に座り、またイスラエルの十二の部族を裁くことを話された。ルカ伝、22.24, 30、マタイ伝、19.28、
[7]もし彼らに「弟子達」によって彼らが意味されたのではなく、愛と信仰の善の中に居る凡ての者達が意味されたこと、3354, 3488番を参照、更に主の王国の中ではこの世の如き王座、卓越、支配はないこと、また彼らは人間の最少の者ですら裁くことが出来ないことが言われたなら、2129, 2553番を参照、彼らはその言葉を投げ捨て、各々自分の仕事に立ち去り主は残されたであろう。主がそのように話されたのは、主の御言葉が受け入れられ、またそれらによって彼らが内なる真理へ導かれるためであった。なぜなら、主が話されたそれらの言葉の外部に内なるものが隠され潜伏しているからであり、それらは時が経つにつれ、またそれらの外なるものが追い散らされる時に明らかになるからである。そしてそれらが対象としてだけ、即ち内なるものについて考えることの手段としてだけ仕えるためである。
それ故今や、エホバが最初にレアの母胎を開かれ、またヤコブに息子達を産んだこと、そしてその後、ラケルの母胎を開かれ、またヤコブに息子達を産んだことによって何が意味されるか知られることが出来よう。