30-3899~3900-1意訳「天界の秘義」創世記Ⅲ

3899.マタイ伝のこの章の前で教会の荒廃について述べられた。即ち、先ず、もはや善と真理が何かを知ることがなく、それらについて論争を始め、次に、それらを侮り、第三に、それらを冒涜した。そのことは3754番に認められよう。今、立てられた教会の性質について、その時、全般的な教義に関して、また彼らの許の教義について、特に神聖な外なる礼拝の中に居る者達、しかし内なるものは汚れたものの中に居る者達、即ち神聖な崇拝で主を口で告白するが、しかし心で自分自身とこの世を崇拝する者達、そのように名誉と富を得る手段として主への礼拝をする者達の許の教義について述べられる。彼らが主、天的な生命、および信仰を承認するほど、それだけそのような者達に為される時、冒涜する。
今から上に述べられた主の御言葉の内意から知られることが出来るように教会のその状態について述べられる。

3900.「その時、例え誰かがあなた達に、見よ、ここに、或いはそこにキリストが居られると言っても信じるな」は、彼らの教義に対し彼ら自身に警戒することの奨励を意味し、「キリスト」は真理に関する主であり、そこから聖言と聖言からの教義に関する主であるが、ここでは反対である。即ち曲解された神的な真理、或いは間違った原理の教義であることが知られよう。「イエス」が神的な善、また「キリスト」が神的な真理であることは3004, 3005, 3008, 3009番に認められよう。
[2]「というのは、偽キリストと偽預言者達が立ち上がるからである」は、その偽りの教義を意味し、「偽キリスト」は聖言からの曲解された教義の事柄、或いは神的な真理でない教義の事柄を意味することは、直ぐ上に言われたことから明らかである。そのことは3010, 3732番の終わりに認められよう。また「偽預言者達」はそれらの間違った原理を教える者達を意味する。2534番を参照、基督教世界に居る間違った原理を教える者達は、特に自分自身の卓越性とこの世の富を目的として持つ者達である。というのは、彼らは聖言の真理を自分への偏愛のために歪めるからである。なぜならば、自己愛と世俗愛が目的としてある時、他のことは何も考えられないからである。その者達が「偽キリストと偽預言者」である。
[3]「大きなしるしと不思議な出来事をする」は、外なる外観と誤りからの確信と説得を意味し、それらに素朴な者達は自分達に惑わされることを許す。それらが「しるしと不思議な出来事をすること」であることは他の箇所で神的な主の慈悲により示されよう。
[4]「もし出来るなら選民達をも惑わすために」は、善と真理の生命(生活)の中に居る者達、またそこから主の中に居る者達を意味する。彼らは聖言において選民と呼ばれ、その者達は神聖なものの下で穢れた礼拝を包む者達の集会の中では滅多に現われず、例え現われても知られない。なぜなら、主が彼らを隠され、また守られるからである。というのは、彼らは確信される前は自分達を容易に外なる神聖なものによって連れ去られることを許すが、しかし確信された後では留まるからである。というのは、彼ら自身が知らない内に主により天使達の交わりの中に保たれるからであり、またその時、その邪悪な集まりから惑わされることは不可能であるからである。
[5]「見よ、私はあなた達に警告した」は、思慮のための奨励、即ち自分自身に警戒するための奨励を意味する。というのは、彼らは「羊の衣を着て現われるが、しかし内部で獰猛な狼である」マタイ伝、7.15、偽預言者達の間に居るからである。偽預言者達は今の世代の息子達であり、その世代の光の息子達より思慮深く巧みな者達である。ルカ伝、16.8、それ故に、主は下記の御言葉により彼らに奨励する。
「見よ、私はあなた達を狼の真ん中へ行かせる。それ故に、あなた達は蛇の如く用心深くあれ、また鳩の如く素朴であれ、」マタイ伝、10.16、