30-3914~3919意訳「天界の秘義」創世記Ⅲ

3914.「あなたは彼女へ近づけ」が、彼女に連結の能力があることを意味することは、結婚のことが意味される時、「誰かに近づくこと」、あるいは入ることが連結であることから知られよう。ここでは連結の能力であり、更に肯定的なものによる連結の能力である。なぜなら、連結の最初のものは肯定的なものと一緒にあらねばならないからである。即ちそのようにあることの肯定的なものと一緒にあらねばならないからである。

3915.「そして彼女は私のひざの上に息子を産まなければならない」が、内的な真理への情愛による承認を意味し、それにより連結があることは、「産むこと」の意味が信仰で、更に行動で承認することであることから知られよう。そのことについては上の3905番に示された。また「ひざ」、或いは腿(もも)の意味が結婚の愛のものであることから知られよう。そのことについては3021番に示された。従ってそれらは信仰の真理と愛の善の連結である。なぜなら、その連結は主の王国の中の結婚そのものであるからである。従って「私のひざの上に産むこと」はラケルによって表象される内的な真理の承認を意味する。
古代人達において妻の合意により女奴隷から産まれた者達は合法的な息子達と娘達として承認され、また承認されたために彼らのひざの上に産んだ。それは古代教会から引き出され、天的なものと霊的なものを表象し、また表意するものであったその礼拝の宗教儀式の中で知られた。即ちその教会において「産むこと」は真理の承認を意味したので、また「ひざ」は結婚の愛を意味したので、従って情愛による善と真理の連結を意味した。妻が不妊であった時、生命に甦らない者達が死んだ者達を表象しないようにそのような儀式が歓迎された。そのことは直ぐ上の3908番に言われたことに従っている。
[2]それらの言葉によって内意において肯定の第二の段階、承認の第二の段階が意味されている。それは情愛からある。というのは、情愛は連結が行なわれるための承認、或いは肯定が内在するからである。というのは、凡ての連結は情愛によって行なわれるからである。なぜなら、情愛なしに真理は生命を持たないからである。例えば隣人は愛されなければならないと言う真理、またその中に仁愛があると言う真理、またその中に霊的な生命があると言う真理は、もし情愛がなければ、即ちそれを欲するのでなければ知識だけのものである。情愛なしにそれらの真理は生きておらずそれらをどれほど知るにせよ、やはり隣人を愛さないで隣人よりも自分を愛する。それ故に、自然的な生命(生活)の中に居て霊的な生命(生活)の中に居ない。自然的な情愛が霊的な情愛の上に支配し、そして自然的な情愛が支配する限り人間は死んだ者と言われる。なぜなら、天的な生命と反対の生命を持つからである。天的な生命は全く生命そのものである。

3916.「そして私もまた彼女により生かされよう」が、そのように彼女に生命があることを意味することは、「生かされることの意味が死なないことであることから知られよう。そのことについては3908番に示された。従って甦ること、或いは生きることであることから知られよう。

3917.「そして、彼女は自分の女奴隷ビルハを女として彼に引き渡した」が、接合された肯定的な手段を意味することは、「ビルハ」の表象から、また「女奴隷」の表象が肯定的な手段であることから知られよう。そのことについては直ぐ上の3913番に示された。また「女(妻)として与えること」の意味が接合することであることから知られよう。

3918.「またヤコブは彼女へ近づいた」が連結されたことを意味することは、「近づくこと」、或いは「入ること」が結婚に属性付けられる時の意味が連結であることから知られよう。そのことについては直ぐ上の3914番に示された。

3919.「そして、ビルハは身ごもり、またヤコブに息子を産んだ」が、受容と承認を意味することは「身ごもること」の意味が受容であることから、また「産むこと」の意味が承認であることから知られよう。それらのことについては3860, 3868, 3905, 3911番に示された。というのは、霊的な受胎と出産は善からの真理の受容とそこからの承認であるからである。