38-4824~4828意訳「天界の秘義」創世記Ⅳ

4824.「またその名をオナンと呼んだ」は性質、即ち悪い性質を意味することは直ぐ上の4823番に示された。また「名を名付けること」の意味が性質であることから知られよう。そのことについては4822番に示された。「オナン」はその悪い性質を意味し含む。

4825.「また、更に繰り返して彼女は身ごもり、そして息子を産んだ」が、偶像崇拝的なものを意味することはここの「息子」の意味が偶像崇拝的なものであることから知られよう。なぜなら、先に産まれた者達が間違った原理と悪を意味したからである。4821, 4823番を参照、それ故、続いて三番目に産まれた者は偶像崇拝的なものである。とういうのは、両方のもの、即ち間違った原理と悪は偶像崇拝的なものを引出し、またそれが間違った原理と悪に内在するからである。
カナン人からユダに産まれた三人の息子達からこの息子だけが後々まで残り、更にその者からユダヤ民族の三分の一もまたあった。そのことは偶像崇拝的なものから起原を引き出したことが内意において意味されている。その民族は聖言の文字通りの意味から知られる歴史的な箇所と預言的な箇所から偶像崇拝へ最も傾いたこと、また継続して偶像崇拝をしたことがここの内意から明らかである。というのは、偶像崇拝をすることは偶像と彫像を礼拝することだけでなく、そのようにまた他の神々を礼拝することだけでなく、更に内なるものなしに外なるものを礼拝することでもまたあるからである。その偶像崇拝の中にその民族は継続して居た。というのは、その民族は外なるものだけを崇拝し、また内なるものを完全に取り去り、またそれらについて知ることですら欲しなかったからである。無論、その民族自身の許に集会の天幕を契約の箱と一緒に持ち、またそこで贖罪所、机、その上のパン、また燭台と香、また天幕の外に祭壇(その上で全焼の生け贄と神への捧げものを捧げた)を持ち、それらは凡て神聖なものと言われた。天幕の最内部は至聖所と言われ、そのようにまた聖所と言われた。更にその民族の許にアロンの衣服があり、またそれらは彼らの祭司達に最高に神聖なものであり、神聖な衣服と言われた。というのは、それはエポデの肩当てと胸当てとが一緒にあったからであり、それにウリムとトンミムがあったからであり、他に多くのものがあったからである。しかしそれらは本質的には神聖なものではなく、むしろそれらが神聖なものを表象したことから神聖なものであった。即ち主の王国の神的な天的なものと霊的なもの、また主御自身を表象したことから神聖なものであった。ましてその民族の許の民から神聖なものであったのではない。なぜなら、その民は表象された内なるものに何も働き掛けらず、むしろ外なるものだけに働き掛けられたからであり、また外なるものだけに働き掛けられることは偶像崇拝的であるからである。なぜなら、それは木と石、更に金と銀に覆われた木と石が本来神聖なものであると言う幻想から礼拝することであるからである。その民族はそのようなものであり、また今日もそのようなものである。しかしそれでもなお、そのような者達の許に教会の表象のものがあることが出来た。なぜなら、表象のものは人物を考慮しないで、むしろ事柄を考慮するからである。665, 1097 番の終わり、3670, 4208, 4281, 4288番を参照、それ故、礼拝もまた他生において彼らを幸福な者達と幸運な者達に為さず、むしろこの世において異邦人達の偶像に心を向けずに表象の中に留まっている間のみ繁栄した。またそれ故に、公然と偶像崇拝者達に為されると、実際その後、その民族の許で教会のものは何も表象されることが出来なかった。そのことが今カナン人の女からのユダの三番目の息子によって意味される偶像崇拝的なものによって意味されている。
その民族の許の偶像崇拝的なものはその内なる偶像崇拝的なものから起原を引き出した。というのは、その民族は他の諸民族よりも自己愛と世俗愛の中に居たからであり、4459番の終わり、4750番を参照、また自己愛と世俗愛の中に居る者達は内なる偶像崇拝の中に居るからである。なぜなら、自分自身とこの世を崇拝するからであり、また神聖な礼拝を自分自身への崇拝と自分の利得のために行うからである。即ち主の教会と王国の目的のためではなく、従って主のためではなく自分自身の目的のために行うからである。

4826.「またその名をセラと呼んだ」が性質を意味することは「名前を名付けること」の意味が性質であることから知られよう。そのことについては上に示された。そこで先に産まれたユダの息子達、エルとオナンについて述べられた。4822, 4824番を参照、セラによって意味されることは偶像崇拝的な性質である。なぜなら、外なるものと内なるものの多くの偶像崇拝的なものがあるからであり、また両方とも一般的に間違った原理と悪と一緒にあるからである。

4827.「そして彼女は彼を産むことのためにケジブに居た」が、状態を意味することは「ケジブ」の意味が状態であることから、即ち「セラ」によって意味された偶像崇拝的な状態であることから知られよう。その中にユダヤ民族は居た。また「産むこと」の意味が行動で連結されることであることから知られよう。そのことについては3905, 3915, 3919番に示された。また内在する偶像崇拝的な悪との連結であったので、原語から明らかなように、彼女はその名をセラと呼んだことが言われている。なぜなら、彼女によって、即ちシュアの娘によって悪の間違った原理からの悪が意味されるからである。4818, 4819番を参照、

4828.六~十節、「そして、ユダは自分の長子エルに女を娶った。また彼女の名はタマルであった。
また、ユダの長子エルはエホバの目に悪い者であった。そしてエホバは彼が死ぬことをさせた。
そして、ユダはオナンに言った。あなたの兄の妻へ行け、そして彼女にレビレート婚(未亡人が夫の兄弟と再婚する慣習)を果し、またあなたの兄の子孫を立てよ、
ところがしかし、オナンは子が自分のためでないことを知った。そして彼が自分の兄の妻に行った時、自分の兄に子孫を与えないために地に逸した。
また、彼が行なったことはエホバの目に悪かった。そして彼もまた死ぬことをさせた。」
「ユダは自分の長子エルに女を娶った」は、その子孫達の教会を意味し、「自分の長子エルに」は信仰の間違った原理を意味し、「また彼女の名はタマルであった」は霊的なものと天的なものを表象する教会の性質を意味し、「また、ユダの長子エルはエホバの目に悪い者であった」は、悪い間違った原理の中に居ることを意味し、「そしてエホバは彼が死ぬことをさせた」は、教会の表象のものが何もなかったことを意味し、「そして、ユダはオナンに言った」は、教会の表象のものを維持するためにを意味し、「あなたの兄の妻へ行け、そして彼女にレビレート婚を果せ」は、それを継続したことを意味し、「またあなたの兄の子孫を立てよ」は、教会が失われないようにを意味し、「ところがしかし、オナンは子が自分のためでないことを知った」は、反感と嫌悪を意味し、「そして彼が自分の兄の妻に行った時それがあった。即ち地に逸した」は結婚の愛に反対のものを意味し、「自分の兄に子を与えないために」は、それ故に何も継続がなかったことを意味し、「また、彼が行なったことはエホバの目に悪かった」は、神的な秩序に反することを意味し、「そして彼もまた死ぬことをさせた」は、更に教会の表象のものもまたないことを意味する。