38-4835~4835a意訳「天界の秘義」創世記Ⅳ

4835.「あなたの兄の妻へ行け、そして彼女にレビレート婚を果せ」が、それを継続したこと、即ち教会の表象のものを継続したことを意味することは、「兄の妻に行くこと、或いは入ること、そして彼女にレビレート婚を果すこと」の意味が教会を保護することと継続することであることから知られよう。
モーセの律法において命じられたことは、
「もし、誰かが子なしに死んだなら、その兄弟はその未亡人を妻に娶り、そして自分の兄弟の子孫を起すこと、また長子は死んだ兄弟の名を名付けること、しかし他の息子達は彼のものであることである。」これがレビレート婚と言われた。この法令はユダヤ教会において何も新しいものではなかったが、しかしそれ以前の習慣の中にもまたあったことは、下記のことから知られよう。また同様に、モーセによってイスラエル人に命じられた多くの法令があった。例えば、
「カナン人の娘達から妻を娶ってはならないこと、また氏族の間で娶ること」創世記、24.3, 4、28.1, 2、そこから、また他の多くの箇所から前にあった教会の中にあるようなものが制定され、その後、ヤコブの子孫達に布告され、また与えられたことが明らかである。祭壇と生け贄もまた古代の時にあった習慣であることは創世記、8. 20, 21、22.3, 7, 8、それ故、ユダヤ教会は何も新しい教会ではなく、滅びた古代教会の甦生であったことが明らかである。
[2] レビレート婚がどのような律法であったかはモーセの書において知られよう。
「もし、一緒に住んでいる兄弟達からの一人が彼に息子が居らずに死んだなら、死んだ者の妻は公けに知らない男に嫁いではならない。彼の兄弟が彼女に入り、彼女を自分の妻として娶らなければならない。そしてそのように彼女にレビレート婚を果さなければならない。その時、彼女が産んだ長子は死んだその兄弟の名のために立つことが為されなければならない。それはイスラエルから彼の名が除かれないためである。もし男が自分の兄弟の妻を娶ることを欲しないなら、その兄弟の妻は門に登り長老達に言わなければならない。私の夫の兄弟はイスラエルの中で自分の兄弟に名を起すことを拒否し、私にレビレート婚を果すことを欲しない。その時、その町の長老達は彼を呼び、また彼に話さなければならない。もし彼が立って、また彼女を娶ることを望まないと言ったなら、その兄弟の妻は長老達の目の前で彼に近付き、またその足から靴を取り上げ、同時に彼の顔に唾を吐き掛けなければならない。そして彼女は答え、また自分の兄弟の家を建てない男はこのように為されなければならないと言わなければならない。そしてそこから彼の名はイスラエルにおいて靴を脱がされた家と言われなければならない。」申命記、25.5-10、
[3] レビレート婚が何を表象するかを知らない者は、それは名前を保持するため、またそこから嗣業を保持することだけであったことを除いて異なって信じることは出来ない。しかし名前と嗣業の保持はそこから兄弟が兄弟の妻との結婚に入るほどのことではなく、むしろそれによって教会の保持と継続が表象されるために課せられた。というのは、結婚は善と真理の結婚、即ち天的な結婚を表象したからであり、従って教会もまた表象したからである。なぜなら、教会は善と真理の結婚からあるからであり、また教会がその結婚の中にある時、教会があるからである。その時、教会は天界と一つのものになり、それが天的な結婚そのものである。またそれが結婚を表象したので、それ故、「息子達と娘達」は真理と善もまた表象し、また同じく意味した。それ故に、「子供の居ないこと」は善と真理の剥奪を意味し、従ってもはやその家の中に教会の表象のものが何もないことを意味した。それ故に、交わりの外を意味し、更に「兄弟」は「未亡人の妻」によって表象された真理に連結された善い血縁者を表象した。というのは、生命を持つ真理、また実を生み出す真理、またそのように、教会のものを継続する真理があるために真理はそれ自身の善と血縁者の善を除いて他の善とは連結されることが出来ないからである。このことが天界においてレビレート婚によって認められている。
[4]「もし兄弟がレビレート婚を果すことを欲しなかったなら、兄弟の妻は彼の足から靴を取り上げ、同時に彼の顔に唾を吐いた」ことは、教会の外なる、また内なる善と真理をなくして滅ぼした者の如く意味した。というのは、靴は外なるものであるからであり、1748番を参照、また顔は内なるものであるからである。1999, 2434, 3527, 4066, 4796番を参照、それ故に、「レビレート婚」によって教会の保護と継続が表象されたことが明らかである。
しかし、内なるものの表象のものが主の降臨によって終わった時、その律法も廃止された。
そのことは人間の霊魂、或いは霊とその身体の如くそのことを有する。人間の霊魂、或いは霊はその内なるものであり、また身体は外なるものである。或いは同じことであるが、霊魂、或いは霊は人間の像そのものであるが、しかし身体はその像を表象するものである。人間が甦る時、表象の像、或いは身体であるその外なるものは放棄される。なぜなら、その時、内なるものの中、或いは像そのものの中に居るからである。
そのこともまた、暗闇の中に居り、またそこから光を見る者の如くそのことを有する。或いは同じことであるが、この世の光の中に居り、またそこから天界の光がどのようなものであるかを見る者の如くそのことを有する。というのは、この世の光は天界の光に比べて暗闇と等しいものであるからである。暗闇の中、或いはこの世の光の中には本来あるような天界の光は現われないで、むしろ表象の像の中に現れる。例えば人間の心がその顔の中に現れるように現れる。それ故に、天界の光がその明瞭なものの中に現れる時、やがて暗闇、或いは表象の像を追い散らす。これが主の降臨によって為された。

4835(a).「またあなたの兄の子孫を立てよ」が教会が失われないようにを意味することは、「子孫」の意味が善からの真理、或いは仁愛からの信仰であることから知られよう。そのことについては1025, 1447, 1610, 1940, 2848, 3310, 3373, 3671番に示された。同様に、死んだ兄弟の名前のために立った長子によってもまた意味された。352, 367, 2435, 3325, 3494番を参照、「兄弟の子孫を立てること」は直ぐ上の4834番に言われたことに従って教会を継続することであり、そのように教会が失われないことである。