インターネット新教会

インターネット新教会は誰でもいつでも訪れて主を礼拝することが出来ます。 この世の金銭の献金は一切不要ですが、主のものである善と真理は十分の一とは言わず凡てを主に返してください。 自分が語り行ったどんな真理も善い事も自分が語り行ったと思わず、自分を通して主が為されたことを承認して主を見上げ主に帰してください。 聖餐として、聖言とスヴェーデンボリによって明かされた聖言の内意から日々の心の糧を得てそれを日常生活で活用してください。 洗礼として、なぜ悔い改めるのか、何を悔い改めるのか、どのように悔い改めるのかということを知り、また日々悔い改める習慣を持ってください。 悪から離れて用を為すために、隣人に悪を為すことを恐れて、憎しみ、復讐心、姦淫、欲心、自尊心、不平、愚痴等を遠ざけ、また隣人に役立つことを喜んで自分の役割、仕事、使命等を誠実に果たしてください。 偽善を避け主を義とするために、そのことは自分がそのようにしているのではなく、自分を通して主が為されておられることを承認して、主を見上げ、主を義として、主によって善い実を結んでください。

悔い改め

悔い改め

悔い改めることは主が人間の心に入って来られる戸を開くことです。主は悔い改められた無垢な心でなければ入ることが出来ません。なぜなら、人間が自己愛に凝り固まり憎む者に復讐したがり、姦淫したがり、この世の糧を際限なく欲しがり、自分が重んじられ尊ばれたがり、他人を軽んじ侮りたがり、他人にたかり貪りたがる時は主をはねつけるからです。というのは、主は隣人愛そのものであられるので自己愛に凝り固まった心はそれを受け入れられないからです。

人間は罪を犯したからエデンの庭園を追い出されたのであり、エデンの庭園を追い出されたから罪を犯したのではありません。即ちエデンの庭園で神と共に居る時に罪を犯したのであって、それが原因でエデンの庭園を追い出されたのです。

従って、エデンの庭園を追い出された原因の罪を悔い改めなければ、決して神の許に帰ることは出来ません。

その罪は唯物的な思考による神、天国と地獄、死後の生命の否定、更に世俗的な欲望からの憎しみ、姦淫、貪欲、自尊心、貪り等の律法に反する悪です。

これらのものが神から人間を引き離しています。

よく罪とは人間が神から離れていることであり、神から離れているから人間は罪を犯すと言うことを言いますが、これは罪の原因と結果を間違えています。

罪の原因を解決せずに、結果だけで神に近付くことは、離婚した夫婦を離婚の原因を解決することなく、復縁するようなもので無意味です。

罪は引力のようなもので、絶えず人間を地獄へ地獄へと引っ張っています。この罪の引力に人間が引っ張られるのは各々の罪に罪の楽しさがあるからです。

例えば、憎むものに復讐する楽しさ、姦淫の楽しさ、不義の利得を得る楽しさ、自分が尊重され重んじられる楽しさ、不平や不満を言い他の人達を誹謗中傷する楽しさ、このような楽しさに人間は絶えず引っ張られており悔い改めなければ、それらの罪の楽しさの中に埋没し滅びます。

日常生活で罪の悪を感じた時、直ちに神に祈り(報告して)悔い改めることの積み重ねによって、少しずつ悪から離れ、即ち地獄から離れ、善、即ち主に近付きます。これは一瞬に為されることは出来ず、生涯をかけて少しずつ為さなければならないことです。なぜなら、もし一瞬の内に凡ての罪が取り除かれるなら人間の心は破壊され生きないからです。

スヴェーデンボリの悔い改め

主により私に霊達と天使達と一緒に話すことが与えられた時、この秘義が直ちに示された。というのは、私は他の者達の如く私から私が考えることと私が欲することを信じていたが、しかし天界から私にその時、私からは何も考えず、また欲しないこと、しかし、もし善が考えられ、また欲せられるなら、主からであり、またもし悪が考えられ、また欲せられるなら、地獄からであることが言われたからである。
このようにあったことが、私に思考と情愛が様々に引き起こされたことによって迫真的なまで示された。また継続的に認めることと感じることが与えられた。それ故その後、意志の中へ若干の悪が、また思考の中へ若干の間違った信念が流れ込まれるや否や、私はそれがどこからか探した。そしてその源が私に示された。そしてまた、その源の彼らと一緒に話すこと、彼らを責めることが許可された。そして彼らが私から離れるように、またそのようにその悪と間違った信念を引っ込めるように、また自分自身の許に戻すように、またこのような何かを私の思考に、今後注入しないように強いることが許可された。
このことは千回(無数に)行なわれたのであり、そして今や、私はこの状態の中に長年の間留まって、また今なお、その中に留まっている。そしてそれでもなお、他の者達の如く私に私は私により考えることと欲することが認められる。それによって何の相違もない。というのは、上のその節において示されたように、各々の者にこのように見えるための主の神の摂理があるからである。(神の摂理290)
 
 
人間は自分自身で欲し考えているように思っていますが、実際は主から、即ち天界からか、或いは悪魔から、即ち地獄から欲し考えています。
例え、主から欲し考えていても自分で欲し考えているように、また悪魔から欲し考えていても自分から欲し考えているように見えるので、その欲することと考えることに流されて日々を過ごします。
しかし、現実には悪魔から欲し考えることに悪の楽しさが伴っているため、殆ど人間の欲し考えることは悪魔からのものです。例えば、憎む者に復讐すること、淫乱なこと、不義の利得のこと、自分が尊ばれ重んじられること、他人への悪口、不平、愚痴、他人の不幸のこと、また他人に親切にすることを考えても、回り回って自分が尊ばれるようにとか、何かの利得を得る考えが伴って来ます。
このように悪魔から、即ち地獄から欲し考えることにはその楽しさが伴っているので、人間は今、神様のことを考えていたとしても、次の瞬間には淫乱なこととか、悪口、不平、愚痴のことを考えています。しかしこの時、すぐ主に祈って告白し悔い改めるならその悪い考えに流されず悪魔、即ち地獄との繋がりを断つことが出来ます。
スヴェーデンボリはこのように悪から離れることを千回行ったと述べており、これは日々何度も繰り返し悔い改めたと言うことだと思います。
普通の人間にはスヴェーデンボリほど悪の原因を探求することが出来ませんが、少なくとも自分のこの考えが地獄からのものか天界からのものであるかは解ると思います。そして地獄からのものであったならそれがどんなに楽しいものであっても、はね返し、また天界からのものであったなら受け入れることが日々の生活における悔い改めです。
このような生活の中の一つ一つの欲念と考えを地獄から天界へ方向転換させることによって、またその積み重ねによって人生全体が地獄から天界へ方向転換されると思います。
このような悔い改めなくして、主は人間に入って来られることは出来ません。なぜなら、このような悪の楽しさが主の隣人愛の楽しさをはねつけ、入って来ないように心の戸を堅く閉じるからです。
信仰があるから、教会へ通っているから、聖餐に与っているから、洗礼を受けているから、貧しい人に施しているから、ボランティアをしているから自分は大丈夫だとは思ってもいけないと思います。生活の場で、或いは職場で日々悔い改めない限り悪の楽しさに導かれ地獄の最も深い所へ連れて行かれます。

改心と再生

上の16節に「アブラハムはヘテの子孫達の耳もとで話された」ことが言われた。それによって彼らの能力に従ってが意味された。2965, 2967番を参照、しかしここでは「ヘテの子孫達の目に従って」と言われ、またそれは彼らの理解に従って」が意味される。前の箇所では彼らの意志に従った適用を含むが、しかしここでは彼らの理解に従った適用を含む、というのは、人間はそれらの両方の部分に関して改心されるからである。というのは、もし意志と理解が一つのものを為すまでも一致していなければ、即ち、もし善と真理が一つのものを為すまでも一致していなければ、即ち同じことであるが、仁愛と信仰が一つのものを為すまでも一致していなければ、人間は再生されないからである。(天界の秘義2973)

人間の改心と再生は理解と意志の両方が改心され再生せれなければ人間は改心されず、また再生もされません。
信仰の真理を完璧に理解していても、意志が自己愛であるなら、即ち隣人に悪を為すことを恐れず、また隣人に役立つことを喜ばないなら、しかし自分に罰や非難が及ぶことを恐れ、自分の名利を喜ぶなら信仰の真理は自己愛の名利の手段として冒涜されます。
また意志に隣人に悪を為すことの恐れと隣人に役立つことの喜びがあっても、法律、道徳、律法を知らず、また理解せず、自分の為すべき役割、仕事、使命等を知らず、また理解しなければ隣人を愛することは出来ません。
主からの内なる隣人愛と主からの外なる隣人愛の形が行いを通して連結することで意志と理解が連結され改心され再生されます。この内なる隣人愛を外なる形で行う時、試練が生じそれに勝利することで改心と再生があります。

霊的な人間の再生について

先ず、彼は信仰の真理の中で教えられ、またその時、主からの真理への情愛の中に保たれる。隣人への仁愛である信仰の善が一緒に彼に吹き込まれるが、しかし彼はそれがそのようにあることを殆んど知らない。というのは、それは真理への情愛の中に隠れているからであり、またそれは信仰の真理として仁愛の善に連結されるための意図を隠しているからである。時間の進行で信仰の真理への情愛が増し、また目的のため、即ち善のため、即ち同じことであるが、生命のため真理を得ようと努め、そしてそれが益々増やされ、そのように善に真理が吹き込まれる。それが為される時、人間は吹き込まれた真理に従って生命に善を吹き込み、またそのように行う。即ち善により行うことが自分自身に認められる。その前の時は、信仰の真理が最も重要なものであるが、しかしその後、生命(生活上)の善が最も重要なものに為される。(天界の秘義2979)

人間が聖書から学ぶのは真理への情愛が与えられるからです。それがなければ聖書を読むことは出来ませんが、しかし名利への愛でも学ぶことが出来ます。真理への情愛で読む時、また聖言の真理に従う時、やがて善への情愛が与えられますが、名利で学ぶ場合は与えられません。なぜなら、名利で学ぶ時は自己愛が優勢であるため隣人愛が受け入れられないからです。なぜなら、自己愛で学ぶ時は文字通りの意味を自分に都合よく解釈することしか出来ないからです。しかし真理への情愛で学ぶ時は隣人愛を受け入れ聖言の内意も受け入れられます。そして真理と善、即ち隣人愛が連結する時改心され、また再生されます。

刑罰と苦悩の原因

人間の許の悪が試練をつくり、更に試練へ引き入れる。人間が行う悪、またその結果として受ける罰の原因が王、或いは裁判官に何もないように、試練の原因は神の中に何もない。というのは、刑罰と苦悩の原因は人間が善とそこからの真理の凡てのものである神的な秩序の法則から自分自身を分離するからであり、神的な秩序の法則に反対の悪と間違った原理の中へ自分自身を投げ込むからであり、またそこに刑罰と苦悩があるからである。(天界の秘義2768)

人間が受ける刑罰や苦悩は人間自身に原因があります。その原因を訂正することなしに何も解決されません。それを解決する方法は自分自身を悔い改めることであり、悔い改めにふさわしい生き方に変えることです。その行いが伴って初めて改心が始まります。行いを伴わない悔い改めは観念だけの悔い改めであり、それは単なる思考であって意志は全く変わりません。
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