悔い改めることは主が人間の心に入って来られる戸を開くことです。主は悔い改められた無垢な心でなければ入ることが出来ません。なぜなら、人間が自己愛に凝り固まり憎む者に復讐したがり、姦淫したがり、この世の糧を際限なく欲しがり、自分が重んじられ尊ばれたがり、他人を軽んじ侮りたがり、他人にたかり貪りたがる時は主をはねつけるからです。というのは、主は隣人愛そのものであられるので自己愛に凝り固まった心はそれを受け入れられないからです。
人間は罪を犯したからエデンの庭園を追い出されたのであり、エデンの庭園を追い出されたから罪を犯したのではありません。即ちエデンの庭園で神と共に居る時に罪を犯したのであって、それが原因でエデンの庭園を追い出されたのです。
従って、エデンの庭園を追い出された原因の罪を悔い改めなければ、決して神の許に帰ることは出来ません。
その罪は唯物的な思考による神、天国と地獄、死後の生命の否定、更に世俗的な欲望からの憎しみ、姦淫、貪欲、自尊心、貪り等の律法に反する悪です。
これらのものが神から人間を引き離しています。
よく罪とは人間が神から離れていることであり、神から離れているから人間は罪を犯すと言うことを言いますが、これは罪の原因と結果を間違えています。
罪の原因を解決せずに、結果だけで神に近付くことは、離婚した夫婦を離婚の原因を解決することなく、復縁するようなもので無意味です。
罪は引力のようなもので、絶えず人間を地獄へ地獄へと引っ張っています。この罪の引力に人間が引っ張られるのは各々の罪に罪の楽しさがあるからです。
例えば、憎むものに復讐する楽しさ、姦淫の楽しさ、不義の利得を得る楽しさ、自分が尊重され重んじられる楽しさ、不平や不満を言い他の人達を誹謗中傷する楽しさ、このような楽しさに人間は絶えず引っ張られており悔い改めなければ、それらの罪の楽しさの中に埋没し滅びます。
日常生活で罪の悪を感じた時、直ちに神に祈り(報告して)悔い改めることの積み重ねによって、少しずつ悪から離れ、即ち地獄から離れ、善、即ち主に近付きます。これは一瞬に為されることは出来ず、生涯をかけて少しずつ為さなければならないことです。なぜなら、もし一瞬の内に凡ての罪が取り除かれるなら人間の心は破壊され生きないからです。