エマヌエル・スヴェーデンボリ著
神の摂理についての天使的知恵の書
永遠の祝福と真の救い
原典訳
真の祝福
"Quod cultor sui et cultor naturae se contra Divinam Providentiam confirmet, cum videt impios ad honores evehi ac fieri magnates et primates; tum etiam abundare opibus, ac vivere in lautis et magnificis; et cultores Dei in contemptu et paupertate.
Cultor sui et cultor naturae credit dignitates et opes esse summas et solas, ita ipsas felicitates, quae dari possunt."(n.250)
「自分自身の思慮の崇拝者と自然の崇拝者は、不敬虔な者が名誉を高められることへ、そして、高官、および最上位の者に為され、更にその上、富に満ち溢れること、なお加えて、贅沢なものと豪華なものの中で生活するのを見る時、そして神の崇拝者が侮りと貧困の中に生活するのを見る時、神的な神の摂理に反して自分自身の思慮と自然を確信する。
自分自身の思慮の崇拝者と自然の崇拝者は、地位(名誉)と富が最高のものと唯一のものであることを信じる。従って、それらが与えられることが出来ることが幸福そのものであることを信じる。」(250番)
訳者まえがき
著者エマヌエル・スヴェーデンボリ(1688-1772)はスエーデンの生まれですが、彼が生きた時代は日本で言えば江戸時代の真っ只中で、第五代将軍 徳川綱吉により生類憐れみの令が出された翌年に生まれ、彼が1歳の時、松尾芭蕉が奥の細道を著し、14歳の時、赤穂浪士の討ち入りがあり、28歳の時、徳川吉宗が八代将軍になりました。
彼の名前であるエマヌエルは「神は私たちとともにおられる」という意味ですが、これは彼の父が彼がいつも神とともにいることを思い出すためにつけたものです。
彼は20代の頃、英国等に5年間留学し帰国後、28歳で鉱山局の監査官になり59歳まで勤めました。そして55歳の時、主御自身から聖い務めに招かれ、その後「天界の秘義(創世記・出埃及記の内的意味)」、「宇宙間の諸地球」、「最後の審判」、「新エルサレムとその天界の教義」、「白馬」、「天界と地獄」、「主・聖書・生命・信仰の四教義」、「続最後の審判」、「神の愛と知恵」、「啓示された黙示録」、「結婚愛」、「新教会教義概要」、「霊魂と身体の交流」、「真の基督教」等の著作をラテン語で執筆出版しました。
「神の摂理についての天使的知恵の書」は1763年、著者が75歳の時、原題"SAPIENTIA ANGELICA DE DIVINA PROVIDENTIA"(神的な神の摂理についての天使的知恵)と題してオランダ アムステルダムで出版されました。
人間の肉眼はこの世のものしか見えないので、この世の一時的な祝福を真の祝福と思い、また救いも罪の痛みがなくなり、単に天国へ入ることを許されれば救われたと信じます。神の永遠の祝福が何か、また真の救いが何かを本書から学んでいただければ幸いです。
なお、本書の本文の中で重要な単語は原語を併記し理解が曖昧にならないようにしました。また難解と思われる個所は訳者の理解出来る範囲で(注:)を加えました。また文頭以外で大文字で始まる単語の多くは神に帰属する語であるので、「神の」或いは「神的な」等の語を加えました。また原文では重複する名詞、動詞の多くは省略されているので、必要に応じて補足し、また代名詞も出来るだけ名詞に置き換えました。
目 次-1
(章番号は原典にありませんが便宜上付けました。また章番号の後の番号はページ番号ではなく節文の通し番号です。)
第一章 1
神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配である。
(1)全世界(霊的な宇宙と自然的な宇宙)は全体的なものも個別的な
ものも共に、その創造されたものは神的な神の愛から神的な神の
知恵によって存在する。....................................3
(2)神的な神の愛と神的な神の知恵は一つのものとして主から発出す
る。......................................................4
(3)この一つのものは凡ての創造されたものの中のある種の像の中に
ある。....................................................5
(4)凡ての創造されたものが全般的なものにおいて、また部分的なも
のにおいてこのように一つのものであるために神的な神の摂理が
ある。そしてもし一つのものでないなら、一つのものになるため
にある。..................................................7
(5)愛の善は知恵の真理に結合された範囲より多く善ではない。また
知恵の真理は愛の善に結合された範囲より多く真理ではない。..10
(6)知恵の真理に結合されていない愛の善は本質的に善ではないが、
しかし外観上の善である。また愛の善に結合されていない知恵の
真理は本質的に真理ではないが、しかし外観上の真理である。..14
(7)主は何かが分割されたものであるということを許されない。それ
故に、善と一緒に真理の中にあるか、悪と一緒に間違った信念の
中にあらねばならない。....................................16
(8)善と一緒に真理の中にあるものは何か意義あるものであり、また
悪と一緒に間違った信念の中にあるものは何か意義あるものでは
ない。....................................................19
(9)主の神的な神の摂理は悪と一緒の間違った信念を均衡のために、
比較のために、浄化のために、またそれ故に、他の者の許の善と
真理の結合のために仕えるように為す。......................21
第二章 27
神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。
(1)天界は主との結合である。..................................28
(2)人間は創造から主に、より近く、またより親密に結合されること
が出来るようなものである。................................32
(3)人間は主に親密に結合されるほど、益々賢明になる。..........34
(4)人間は主に親密に結合されるほど、益々幸福になる。..........37
(5)人間は主に親密に結合されるほど、益々自分自身のものが自分自
身のものとしてあることを自分自身に明確に見る。なお加えて、
それが主のものであることを明らかに認める。................42
第三章 46
主の神的な神の摂理はそれを実行する凡てのものの中に神的な無限と
神的な永遠を目指す。
(1)神の無限は本質的に、なお加えて、神の永遠は本質的に神的なも
のと同じである。..........................................48
(2)神の無限、なお加えて、神の永遠は本質的に有限なものの中にそ
れ自身から無限なもの、そして永遠なものを除いて異なって目指
すことは出来ない。........................................52
(3)神的な神の摂理は凡てのものにおいて、特に人類を救うことにお
いてそれ自身から無限と永遠を目指して行う。................55
(4)神の無限、なお加えて神の永遠の像は人類の救われた者からなる
天使的な天界の中に現われる。..............................60
(5)天使的な天界を形作ることにおいて無限と永遠を目指すことは、
天界が神的な神の摂理の最内部のものである主御自身の像である
一人の大きな人間として主の目の前にあるためである。........64
第四章 70
人間に知られていない神的な神の摂理の法則がある。
第五章 71
人間が理性に従って自由に行動するということが神的な神の摂理の法
則である。
(1)人間に理性と自由、即ち合理性と自主性があり、それらの二つの
能力は主から人間の許にある。..............................73
(2)何でも人間が自由に行うことは、理性の行いであっても、或いは
理性の行いではなくても、彼の理性に従っている限り彼の行いと
して彼に見える。..........................................74
(3)何でも人間が自分自身の思考に従って自由に行うことは、彼に彼
の行いの如く彼のものにされ、そして残留する。..............78
(4)人間はそれらの二つの能力によって主により改心され、また再生
される。そしてそれらなしに改心されることと再生されることは
出来ない。............................................... 82
第一の状態は地獄行きの宣告の状態である。...............83
第二の状態は改心の状態である。.........................83
第三の状態は再生の状態である。.........................83
(5)人間はそれらの二つの能力によって、改心されることと再生され
ることが出来るほど、それらによって凡ての善と真理を考え、ま
た行うことは自分自身からではなく主から行うことを承認するこ
とへ連れて来られることが出来る。..........................87
(6)主の人間との結合は、また人間の主との相互の結合は、それらの
二つの能力によって行なわれる。............................92
(7)主は神的なその摂理の進行の凡てのものにおいて、人間の許にそ
れらの二つの能力が損なわれないように、なお加えて、神聖なも
ののように保護される。....................................96
(8)それ故に、人間が理性に従って自由に行動するということが神的
な神の摂理である。........................................97
第六章 100
人間が外なる人間における悪の行いを罪として自分自身からの如く遠
ざけるということで、またそのように主が内なる人間の中の悪を全く
同じように遠ざけることが出来るということの、またその時、外なる
人間における悪の行いを主が一緒に遠ざけることが出来るということ
の神的な神の摂理の法則がある。
(1)誰でも人間に思考の外なるものと内なるものがある。.........103
(2)人間の思考の外なるものは、本来、彼の内なるものがあるように
ある。...................................................106
(3)外なる人間における悪の行いが遠ざけられない間は、内なるもの
は悪への強い欲望から清められることが出来ない。なぜなら、そ
れらが妨げるからである。.................................111
(4)外なる人間における悪の行いは、人間による以外、主により遠ざ
けられることが出来ない。.................................114
(5)それ故に、人間は外なる人間による悪の行いを自分自身による如
く遠ざける義務がある。...................................118
(6)主はその時、内なる人間の中の悪への強い欲望から人間を清めら
れ、また外なる人間における悪の行いそのものから人間を清めら
れる。...................................................119
(7)人間を主御自身に、また主御自身を人間に結合するための永続す
る主の神的な神の摂理がある。その結果として永遠の生命の幸福
なものを人間に与えることが出来る。このことは、もし悪がそれ
らの強い欲望と一緒に遠ざけられた範囲でなければ為されること
が出来ない。.............................................123
第七章 129
人間は外なる手段によって宗教のことを考えることへ、また欲するこ
とへ強制されてはならないということが、従って、宗教のことを信じ
ることへ、また愛することへ強制されてはならないということが神的
な神の摂理の法則である。しかし人間は自分自身を納得させ、また時
折、自分自身を強制して宗教のことを考え、欲しなければならないと
いうことが神的な神の摂理の法則である。
(1)奇蹟としるしは強制するので、誰も奇蹟としるしによって改心さ
れない。.................................................130
(2)幻、および死者との会話は強制するので、誰も幻、および死者と
の会話によって改心されない。.............................134a
(3)脅しと罰は強制するので、だれも脅しと罰によって改心されない。
.........................................................136
〔1〕外なるものは内なるものを強制することは出来ないが、しかし
内なるものは外なるものを強制することが出来る。........136
〔2〕内なるものは外なるものによる強制そのものを追い払うため
にはねつけること。....................................136
〔3〕外なる楽しいものは内なるものを外なるものとの一致へ、そし
てまた、外なるものの愛へ誘惑する。....................136
〔4〕強制された内なるものと自由な内なるものが与えられる。..136
(4)誰も理性(合理性)のない、また自主性のない状態において改心
されない。...............................................138
〔1〕恐怖があると自由と理性、即ち自主性と理性(合理性)を取り
去るので、誰も恐怖の状態において改心されない。........139
〔2〕誰も不幸の状態において、例えその時、もし神について考え、
また助けを嘆願するにしても改心されない。..............140
〔3〕誰も心の病気の状態において改心されない。..............141
〔4〕誰も身体の病気の状態において改心されない。............142
〔5〕俗世とそこでの凡ての仕事を放棄する者も同様であり、また神、
天界、救いについて思考だけに帰する者も同様である。....142
〔6〕誰も無知の状態において改心されない。..................143
〔7〕理解の盲目の状態において誰も改心されることが出来ない。144
(5)自分自身を強制することは理性(合理性)と自主性に反していな
い。.....................................................145
(6)外なる人間は内なる人間によって改心されるべきであり、また逆
に改心されるべきではない。...............................150
第八章 154
人間が主により天界からの聖言、教義、および説教によって導かれ、
また教えられるために神的な神の摂理の法則がある。またこれは凡て
の外観の中で自分自身により導かれ、また教えられる如くある。
(1)人間は主のみにより導かれ、また教えられる。...............155
〔1〕唯一の本質、唯一の実体、および唯一の形から凡てのものの本
質、実体、および形が創造された。......................157
〔2〕唯一のその本質、実体、および形は神的な神の愛と神的な神の
知恵であり、それらから凡てのものがあること、それらが人間
の許の愛と知恵に関係する。............................157
〔3〕元来の神の善と元来の神の真理があり、それらは凡てのものに
関係する。............................................157
〔4〕それが生命であり、それから凡てのものの生命と生命の凡ての
ものがある。..........................................157
〔5〕この唯一のものと主御自身は偏在、全知、および全能であるこ
ともまた、各々の基督教徒はその教義から、また各々の異教徒
はその宗教から承認する。..............................157
〔6〕この唯一のものと主御自身は永遠からの主、即ちエホバで在ら
れる。................................................157
(2)人間は天使的な天界を通して、また天使的な天界により主だけか
ら導かれ、また教えられる。...............................162
(3)人間は主からの流入によって導かれ、また照らしによって教えら
れる。...................................................165
(4)人間は主から聖言を通して、聖言からの教義、また説教により教
えられる。こうして主御自身だけから直接教えられる。.......171
〔1〕聖言は主御自身から、また主御自身についてのものであるので、
主は聖言である。......................................172
〔2〕また、聖言は神的な神の善の神的な神の真理であるので、主は
聖言である。..........................................172
〔3〕このように、聖言から教えられることは、主御自身から教えら
れることである。......................................172
〔4〕また、説教(伝道)によって間接に為されることは、主により
直接に教えられることを取り除かない。..................172
(5)人間は主により外なるものにおいて、凡ての外観の中で自分自身
からの如く導かれ、また教えられる。.......................174
第九章 175
例え人間は何も神的な神の摂理の働きを感ぜず、また気付かなくても、
しかしそれでもなお、それを知り、また承認するということが神的な
神の摂理の法則である。
(1)もし、人間が神的な神の摂理の働きを認め、また感じるなら、同
様に、もし前もって運命を知るなら、理性に従って自由に行動し
ない。なぜなら、何か意義ある行動を自分自身から行うように見
えないからである。.......................................176
(2)もし、人間が神的な神の摂理を明らかに認めるなら、自分自身を
その進行の秩序と進展に引き入れ、そしてそれをひっくり返し、
同時に破壊する。.........................................180
〔1〕外なるものは内なるものと凡ての働きにおいて一つのものを
為すための結びつきを持っている。......................180
〔2〕人間は全くの外なるものにおいてだけ主と一緒に居り、もし
同時に、内なるものにおいても一緒に居たなら、神的な神の
摂理の進展の凡ての秩序と進行をひっくり返し、また破壊し
たであろう。..........................................180
(3)もし、人間が神的な神の摂理を明らかに認めるなら、神を否定す
るか、自分自身を神に為すであろう。.......................182
(4)人間に神的な神の摂理を背後から認めることは許されるが、前か
らではない。更に、霊的な状態においては認めることを許される
が、しかるに自然的な状態においてではない。...............187
第十章 191
自己からの思慮は何もないのであり、ただそれがあることが見えるだ
けである。そしてまた、それがあるに応じてそのように見えることが
余儀なくされる。しかし神的な神の摂理は最も細部のものから最大の
ものまで例外なくある。
(1)人間の凡ての思考は彼の生命の愛の情愛からあり、またそれらな
しに誰にも思考はなく、生じられることも出来ない。.........193
(2)人間の生命の愛の情愛は主のみによく知られている。.........197
(3)人間の生命の愛の情愛は主から主御自身の神的な神の摂理を通し
て導かれ、またその時、同時に、思考が導かれる。それらにより
人間の思慮がある。.......................................200
(4)主はその神的な神の摂理を通して全人類の情愛を一つの形の中へ
配置する。それは大きな人間である。.......................201
(5)それ故、人類から天界と地獄が大きな人間の形の中にある。...204
(6)自然のみを、また人間の思慮のみを認めた者は地獄を造り、また
神と主御自身の神的な神の摂理を認めた者は天界を造る。.....205
(7)これらの凡てのものは人間に自分自身によって考え、また自分自
身によって処理(管理)することが現れる以外に為されることが
出来ない。...............................................210
第十一章 214
神的な神の摂理は永遠なものを目指し、そして一時的なものは永遠な
ものと一致している範囲を除いて他の条件では考慮しない。
(1)一時的なものは地位と富に関係し、従ってこの世における名誉と
利得に関係する。.........................................215
〔1〕地位と富とは何か、またどの源からあるか。..............215
〔2〕支配と所有の目的のための地位と富への愛はどのようなものか、
また用の目的のための地位と富への愛はどのようなものか。215
〔3〕自己愛からの支配愛と用への愛の二つの愛は地獄と天界の如く
相互に分離されたものである。..........................215
〔4〕自分が支配することと主が支配されることの相違は人間により
殆んど知られていない。................................215
(2)永遠なものは、天界における愛と知恵である霊的な名誉と財産に
関係する。...............................................216
〔1〕地位と富は祝福であり、また呪いである。................217
〔2〕地位と富が祝福を与えるものである時は、霊的なもの、なお加
えて永遠なものであるが、しかし、呪いである時は一時的なも
の、また移ろいやすいものである。......................217
〔3〕呪いである地位と富は祝福である地位と富に比較すれば、凡て
のものにおいて何も意義あるものではないものの如くあり、な
お加えて、本質的にあるものに比べて本質的にないものの如く
ある。................................................217
(3)一時的なものと永遠なものは人間により分離されるが、しかし主
により結合される。.......................................218
〔1〕一時的なものは何か、また永遠なものは何か。............219
〔2〕人間は本来、一時的な者であり、また主は本来、永遠な者であ
る。またそれ故、人間からは一時的なものを除いて生じること
が出来ず、また主からは永遠なものを除いて生じることが出来
ない。................................................219
〔3〕一時的なものは、それ自身から永遠なものを分離し、また永遠
なものはそれ自身に一時的なものを結合する。............219
〔4〕主は人間を外観によって主御自身に結合される。..........219
〔5〕また、相応によって結合される。........................219
(4)人間の許の一時的なものと永遠なものの結合は主の神的な神の摂
理である。...............................................220
〔1〕神的な神の摂理により人間は死によって自然的なものと一時的
なものを脱ぎ、なお加えて、霊的なものと永遠なものを着る。
......................................................220
〔2〕主は神的なその神の摂理によって霊的なものを通して自然的な
ものに主御自身を繋げ、なお加えて、永遠なものを通して用に
従って一時的なものに主御自身を繋げられる。............220
〔3〕主は相応を通して用に主御自身を繋げられ、またそのように、
人間による外観を通してそれらの確信に従って用に主御自身を
繋げられる。..........................................220
〔4〕このように一時的なものと永遠なものの結合が神的な神の摂理
である。..............................................220