インターネット新教会

インターネット新教会は誰でもいつでも訪れて主を礼拝することが出来ます。 この世の金銭の献金は一切不要ですが、主のものである善と真理は十分の一とは言わず凡てを主に返してください。 自分が語り行ったどんな真理も善い事も自分が語り行ったと思わず、自分を通して主が為されたことを承認して主を見上げ主に帰してください。 聖餐として、聖言とスヴェーデンボリによって明かされた聖言の内意から日々の心の糧を得てそれを日常生活で活用してください。 洗礼として、なぜ悔い改めるのか、何を悔い改めるのか、どのように悔い改めるのかということを知り、また日々悔い改める習慣を持ってください。 悪から離れて用を為すために、隣人に悪を為すことを恐れて、憎しみ、復讐心、姦淫、欲心、自尊心、不平、愚痴等を遠ざけ、また隣人に役立つことを喜んで自分の役割、仕事、使命等を誠実に果たしてください。 偽善を避け主を義とするために、そのことは自分がそのようにしているのではなく、自分を通して主が為されておられることを承認して、主を見上げ、主を義として、主によって善い実を結んでください。

意訳「神の摂理」

真の祝福 ・訳者まえがき・目次-1

エマヌエル・スヴェーデンボリ著

 

神の摂理についての天使的知恵の書

 

永遠の祝福と真の救い

 

原典訳

 

 

 

 

 

 


真の祝福  

 

 

"Quod cultor sui et cultor naturae se contra Divinam Providentiam confirmet, cum videt impios ad honores evehi ac fieri magnates et primates; tum etiam abundare opibus, ac vivere in lautis et magnificis; et cultores Dei in contemptu et paupertate.

Cultor sui et cultor naturae credit dignitates et opes esse summas et solas, ita ipsas felicitates, quae dari possunt."n.250

 

 

 

自分自身の思慮の崇拝者と自然の崇拝者は、不敬虔な者が名誉を高められることへ、そして、高官、および最上位の者に為され、更にその上、富に満ち溢れること、なお加えて、贅沢なものと豪華なものの中で生活するのを見る時、そして神の崇拝者が侮りと貧困の中に生活するのを見る時、神的な神の摂理に反して自分自身の思慮と自然を確信する。

自分自身の思慮の崇拝者と自然の崇拝者は、地位(名誉)と富が最高のものと唯一のものであることを信じる。従って、それらが与えられることが出来ることが幸福そのものであることを信じる。250番)

 


訳者まえがき

著者エマヌエル・スヴェーデンボリ(1688-1772)はスエーデンの生まれですが、彼が生きた時代は日本で言えば江戸時代の真っ只中で、第五代将軍 徳川綱吉により生類憐れみの令が出された翌年に生まれ、彼が1歳の時、松尾芭蕉が奥の細道を著し、14歳の時、赤穂浪士の討ち入りがあり、28歳の時、徳川吉宗が八代将軍になりました。

彼の名前であるエマヌエルは「神は私たちとともにおられる」という意味ですが、これは彼の父が彼がいつも神とともにいることを思い出すためにつけたものです。

彼は20代の頃、英国等に5年間留学し帰国後、28歳で鉱山局の監査官になり59歳まで勤めました。そして55歳の時、主御自身から聖い務めに招かれ、その後「天界の秘義(創世記・出埃及記の内的意味)」、「宇宙間の諸地球」、「最後の審判」、「新エルサレムとその天界の教義」、「白馬」、「天界と地獄」、「主・聖書・生命・信仰の四教義」、「続最後の審判」、「神の愛と知恵」、「啓示された黙示録」、「結婚愛」、「新教会教義概要」、「霊魂と身体の交流」、「真の基督教」等の著作をラテン語で執筆出版しました。

 

「神の摂理についての天使的知恵の書」は1763年、著者が75歳の時、原題"SAPIENTIA ANGELICA DE DIVINA PROVIDENTIA"(神的な神の摂理についての天使的知恵)と題してオランダ アムステルダムで出版されました。

 

人間の肉眼はこの世のものしか見えないので、この世の一時的な祝福を真の祝福と思い、また救いも罪の痛みがなくなり、単に天国へ入ることを許されれば救われたと信じます。神の永遠の祝福が何か、また真の救いが何かを本書から学んでいただければ幸いです。

 

なお、本書の本文の中で重要な単語は原語を併記し理解が曖昧にならないようにしました。また難解と思われる個所は訳者の理解出来る範囲で(注:)を加えました。また文頭以外で大文字で始まる単語の多くは神に帰属する語であるので、「神の」或いは「神的な」等の語を加えました。また原文では重複する名詞、動詞の多くは省略されているので、必要に応じて補足し、また代名詞も出来るだけ名詞に置き換えました。




目   次-1

(章番号は原典にありませんが便宜上付けました。また章番号の後の番号はページ番号ではなく節文の通し番号です。)

 

第一章                             1

 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配である。

(1)全世界(霊的な宇宙と自然的な宇宙)は全体的なものも個別的な

   ものも共に、その創造されたものは神的な神の愛から神的な神の

   知恵によって存在する。....................................3

(2)神的な神の愛と神的な神の知恵は一つのものとして主から発出す

   る。......................................................4

(3)この一つのものは凡ての創造されたものの中のある種の像の中に

   ある。....................................................5

(4)凡ての創造されたものが全般的なものにおいて、また部分的なも

   のにおいてこのように一つのものであるために神的な神の摂理が

   ある。そしてもし一つのものでないなら、一つのものになるため

   にある。..................................................7

(5)愛の善は知恵の真理に結合された範囲より多く善ではない。また

   知恵の真理は愛の善に結合された範囲より多く真理ではない。..10

(6)知恵の真理に結合されていない愛の善は本質的に善ではないが、

   しかし外観上の善である。また愛の善に結合されていない知恵の

   真理は本質的に真理ではないが、しかし外観上の真理である。..14

(7)主は何かが分割されたものであるということを許されない。それ

   故に、善と一緒に真理の中にあるか、悪と一緒に間違った信念の

   中にあらねばならない。....................................16

(8)善と一緒に真理の中にあるものは何か意義あるものであり、また

   悪と一緒に間違った信念の中にあるものは何か意義あるものでは

   ない。....................................................19

(9)主の神的な神の摂理は悪と一緒の間違った信念を均衡のために、

   比較のために、浄化のために、またそれ故に、他の者の許の善と

   真理の結合のために仕えるように為す。......................21


第二章                             27

 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。

(1)天界は主との結合である。..................................28

(2)人間は創造から主に、より近く、またより親密に結合されること

   が出来るようなものである。................................32

(3)人間は主に親密に結合されるほど、益々賢明になる。..........34

(4)人間は主に親密に結合されるほど、益々幸福になる。..........37

(5)人間は主に親密に結合されるほど、益々自分自身のものが自分自

   身のものとしてあることを自分自身に明確に見る。なお加えて、

   それが主のものであることを明らかに認める。................42

 

第三章                             46

 主の神的な神の摂理はそれを実行する凡てのものの中に神的な無限と

 神的な永遠を目指す。

(1)神の無限は本質的に、なお加えて、神の永遠は本質的に神的なも

   のと同じである。..........................................48

(2)神の無限、なお加えて、神の永遠は本質的に有限なものの中にそ

   れ自身から無限なもの、そして永遠なものを除いて異なって目指

   すことは出来ない。........................................52

(3)神的な神の摂理は凡てのものにおいて、特に人類を救うことにお

   いてそれ自身から無限と永遠を目指して行う。................55

(4)神の無限、なお加えて神の永遠の像は人類の救われた者からなる

   天使的な天界の中に現われる。..............................60

(5)天使的な天界を形作ることにおいて無限と永遠を目指すことは、

   天界が神的な神の摂理の最内部のものである主御自身の像である

   一人の大きな人間として主の目の前にあるためである。........64

 

第四章                             70

 人間に知られていない神的な神の摂理の法則がある。

 

第五章                             71

 人間が理性に従って自由に行動するということが神的な神の摂理の法

 則である。

(1)人間に理性と自由、即ち合理性と自主性があり、それらの二つの

   能力は主から人間の許にある。..............................73

(2)何でも人間が自由に行うことは、理性の行いであっても、或いは

   理性の行いではなくても、彼の理性に従っている限り彼の行いと

   して彼に見える。..........................................74

(3)何でも人間が自分自身の思考に従って自由に行うことは、彼に彼

   の行いの如く彼のものにされ、そして残留する。..............78

(4)人間はそれらの二つの能力によって主により改心され、また再生

   される。そしてそれらなしに改心されることと再生されることは

   出来ない。............................................... 82

     第一の状態は地獄行きの宣告の状態である。...............83

     第二の状態は改心の状態である。.........................83

     第三の状態は再生の状態である。.........................83

(5)人間はそれらの二つの能力によって、改心されることと再生され

   ることが出来るほど、それらによって凡ての善と真理を考え、ま

   た行うことは自分自身からではなく主から行うことを承認するこ

   とへ連れて来られることが出来る。..........................87

(6)主の人間との結合は、また人間の主との相互の結合は、それらの

   二つの能力によって行なわれる。............................92

(7)主は神的なその摂理の進行の凡てのものにおいて、人間の許にそ

   れらの二つの能力が損なわれないように、なお加えて、神聖なも

   ののように保護される。....................................96

(8)それ故に、人間が理性に従って自由に行動するということが神的

   な神の摂理である。........................................97

 

第六章                             100

 人間が外なる人間における悪の行いを罪として自分自身からの如く遠

 ざけるということで、またそのように主が内なる人間の中の悪を全く

 同じように遠ざけることが出来るということの、またその時、外なる

 人間における悪の行いを主が一緒に遠ざけることが出来るということ

 の神的な神の摂理の法則がある。

(1)誰でも人間に思考の外なるものと内なるものがある。.........103

(2)人間の思考の外なるものは、本来、彼の内なるものがあるように

   ある。...................................................106

(3)外なる人間における悪の行いが遠ざけられない間は、内なるもの

   は悪への強い欲望から清められることが出来ない。なぜなら、そ

   れらが妨げるからである。.................................111

(4)外なる人間における悪の行いは、人間による以外、主により遠ざ

   けられることが出来ない。.................................114

(5)それ故に、人間は外なる人間による悪の行いを自分自身による如

   く遠ざける義務がある。...................................118

(6)主はその時、内なる人間の中の悪への強い欲望から人間を清めら

   れ、また外なる人間における悪の行いそのものから人間を清めら

   れる。...................................................119

(7)人間を主御自身に、また主御自身を人間に結合するための永続す

   る主の神的な神の摂理がある。その結果として永遠の生命の幸福

   なものを人間に与えることが出来る。このことは、もし悪がそれ

   らの強い欲望と一緒に遠ざけられた範囲でなければ為されること

   が出来ない。.............................................123

 

第七章                             129

 人間は外なる手段によって宗教のことを考えることへ、また欲するこ

 とへ強制されてはならないということが、従って、宗教のことを信じ

 ることへ、また愛することへ強制されてはならないということが神的

 な神の摂理の法則である。しかし人間は自分自身を納得させ、また時

 折、自分自身を強制して宗教のことを考え、欲しなければならないと

 いうことが神的な神の摂理の法則である。

(1)奇蹟としるしは強制するので、誰も奇蹟としるしによって改心さ

   れない。.................................................130

(2)幻、および死者との会話は強制するので、誰も幻、および死者と

   の会話によって改心されない。.............................134a

(3)脅しと罰は強制するので、だれも脅しと罰によって改心されない。

   .........................................................136

  〔1〕外なるものは内なるものを強制することは出来ないが、しかし

     内なるものは外なるものを強制することが出来る。........136

  〔2〕内なるものは外なるものによる強制そのものを追い払うため

     にはねつけること。....................................136

  〔3〕外なる楽しいものは内なるものを外なるものとの一致へ、そし

     てまた、外なるものの愛へ誘惑する。....................136

  〔4〕強制された内なるものと自由な内なるものが与えられる。..136

(4)誰も理性(合理性)のない、また自主性のない状態において改心

   されない。...............................................138

  〔1〕恐怖があると自由と理性、即ち自主性と理性(合理性)を取り

     去るので、誰も恐怖の状態において改心されない。........139

  〔2〕誰も不幸の状態において、例えその時、もし神について考え、

     また助けを嘆願するにしても改心されない。..............140

  〔3〕誰も心の病気の状態において改心されない。..............141

  〔4〕誰も身体の病気の状態において改心されない。............142

  〔5〕俗世とそこでの凡ての仕事を放棄する者も同様であり、また神、

     天界、救いについて思考だけに帰する者も同様である。....142

  〔6〕誰も無知の状態において改心されない。..................143

  〔7〕理解の盲目の状態において誰も改心されることが出来ない。144

(5)自分自身を強制することは理性(合理性)と自主性に反していな

   い。.....................................................145

(6)外なる人間は内なる人間によって改心されるべきであり、また逆

   に改心されるべきではない。...............................150

 

第八章                             154

 人間が主により天界からの聖言、教義、および説教によって導かれ、

 また教えられるために神的な神の摂理の法則がある。またこれは凡て

 の外観の中で自分自身により導かれ、また教えられる如くある。

(1)人間は主のみにより導かれ、また教えられる。...............155

  〔1〕唯一の本質、唯一の実体、および唯一の形から凡てのものの本

     質、実体、および形が創造された。......................157

  〔2〕唯一のその本質、実体、および形は神的な神の愛と神的な神の

     知恵であり、それらから凡てのものがあること、それらが人間

     の許の愛と知恵に関係する。............................157

  〔3〕元来の神の善と元来の神の真理があり、それらは凡てのものに

     関係する。............................................157

  〔4〕それが生命であり、それから凡てのものの生命と生命の凡ての

     ものがある。..........................................157

  〔5〕この唯一のものと主御自身は偏在、全知、および全能であるこ

     ともまた、各々の基督教徒はその教義から、また各々の異教徒

     はその宗教から承認する。..............................157

  〔6〕この唯一のものと主御自身は永遠からの主、即ちエホバで在ら

     れる。................................................157

(2)人間は天使的な天界を通して、また天使的な天界により主だけか

   ら導かれ、また教えられる。...............................162

(3)人間は主からの流入によって導かれ、また照らしによって教えら

   れる。...................................................165

(4)人間は主から聖言を通して、聖言からの教義、また説教により教

   えられる。こうして主御自身だけから直接教えられる。.......171

  〔1〕聖言は主御自身から、また主御自身についてのものであるので、

     主は聖言である。......................................172

  〔2〕また、聖言は神的な神の善の神的な神の真理であるので、主は

     聖言である。..........................................172

  〔3〕このように、聖言から教えられることは、主御自身から教えら

     れることである。......................................172

  〔4〕また、説教(伝道)によって間接に為されることは、主により

     直接に教えられることを取り除かない。..................172

(5)人間は主により外なるものにおいて、凡ての外観の中で自分自身

   からの如く導かれ、また教えられる。.......................174

 

第九章                             175

 例え人間は何も神的な神の摂理の働きを感ぜず、また気付かなくても、

 しかしそれでもなお、それを知り、また承認するということが神的な

 神の摂理の法則である。

(1)もし、人間が神的な神の摂理の働きを認め、また感じるなら、同

   様に、もし前もって運命を知るなら、理性に従って自由に行動し

   ない。なぜなら、何か意義ある行動を自分自身から行うように見

   えないからである。.......................................176

(2)もし、人間が神的な神の摂理を明らかに認めるなら、自分自身を

   その進行の秩序と進展に引き入れ、そしてそれをひっくり返し、

   同時に破壊する。.........................................180

  〔1〕外なるものは内なるものと凡ての働きにおいて一つのものを

     為すための結びつきを持っている。......................180

  〔2〕人間は全くの外なるものにおいてだけ主と一緒に居り、もし

     同時に、内なるものにおいても一緒に居たなら、神的な神の

     摂理の進展の凡ての秩序と進行をひっくり返し、また破壊し

     たであろう。..........................................180

(3)もし、人間が神的な神の摂理を明らかに認めるなら、神を否定す

   るか、自分自身を神に為すであろう。.......................182

(4)人間に神的な神の摂理を背後から認めることは許されるが、前か

   らではない。更に、霊的な状態においては認めることを許される

   が、しかるに自然的な状態においてではない。...............187

 

第十章                             191

 自己からの思慮は何もないのであり、ただそれがあることが見えるだ

 けである。そしてまた、それがあるに応じてそのように見えることが

 余儀なくされる。しかし神的な神の摂理は最も細部のものから最大の

 ものまで例外なくある。

(1)人間の凡ての思考は彼の生命の愛の情愛からあり、またそれらな

   しに誰にも思考はなく、生じられることも出来ない。.........193

(2)人間の生命の愛の情愛は主のみによく知られている。.........197

(3)人間の生命の愛の情愛は主から主御自身の神的な神の摂理を通し

   て導かれ、またその時、同時に、思考が導かれる。それらにより

   人間の思慮がある。.......................................200

(4)主はその神的な神の摂理を通して全人類の情愛を一つの形の中へ

   配置する。それは大きな人間である。.......................201

(5)それ故、人類から天界と地獄が大きな人間の形の中にある。...204

(6)自然のみを、また人間の思慮のみを認めた者は地獄をり、また

   神と主御自身の神的な神の摂理を認めた者は天界をる。.....205

(7)これらの凡てのものは人間に自分自身によって考え、また自分自

   身によって処理(管理)することが現れる以外に為されることが

   出来ない。...............................................210


第十一章                            214

 神的な神の摂理は永遠なものを目指し、そして一時的なものは永遠な

 ものと一致している範囲を除いて他の条件では考慮しない。

(1)一時的なものは地位と富に関係し、従ってこの世における名誉と

   利得に関係する。.........................................215

  〔1〕地位と富とは何か、またどの源からあるか。..............215

  〔2〕支配と所有の目的のための地位と富への愛はどのようなものか、

     また用の目的のための地位と富への愛はどのようなものか。215

  〔3〕自己愛からの支配愛と用への愛の二つの愛は地獄と天界の如く

     相互に分離されたものである。..........................215

  〔4〕自分が支配することと主が支配されることの相違は人間により

     殆んど知られていない。................................215

(2)永遠なものは、天界における愛と知恵である霊的な名誉と財産に

   関係する。...............................................216

  〔1〕地位と富は祝福であり、また呪いである。................217

  〔2〕地位と富が祝福を与えるものである時は、霊的なもの、なお加

     えて永遠なものであるが、しかし、呪いである時は一時的なも

     の、また移ろいやすいものである。......................217

  〔3〕呪いである地位と富は祝福である地位と富に比較すれば、凡て

     のものにおいて何も意義あるものではないものの如くあり、な

     お加えて、本質的にあるものに比べて本質的にないものの如く

     ある。................................................217

(3)一時的なものと永遠なものは人間により分離されるが、しかし主

   により結合される。.......................................218

  〔1〕一時的なものは何か、また永遠なものは何か。............219

  〔2〕人間は本来、一時的な者であり、また主は本来、永遠な者であ

     る。またそれ故、人間からは一時的なものを除いて生じること

     が出来ず、また主からは永遠なものを除いて生じることが出来

     ない。................................................219

  〔3〕一時的なものは、それ自身から永遠なものを分離し、また永遠

     なものはそれ自身に一時的なものを結合する。............219

  〔4〕主は人間を外観によって主御自身に結合される。..........219

  〔5〕また、相応によって結合される。........................219

(4)人間の許の一時的なものと永遠なものの結合は主の神的な神の摂

   理である。...............................................220

  〔1〕神的な神の摂理により人間は死によって自然的なものと一時的

     なものを脱ぎ、なお加えて、霊的なものと永遠なものを着る。

     ......................................................220

  〔2〕主は神的なその神の摂理によって霊的なものを通して自然的な

     ものに主御自身を繋げ、なお加えて、永遠なものを通して用に

     従って一時的なものに主御自身を繋げられる。............220

  〔3〕主は相応を通して用に主御自身を繋げられ、またそのように、

     人間による外観を通してそれらの確信に従って用に主御自身を

     繋げられる。..........................................220

  〔4〕このように一時的なものと永遠なものの結合が神的な神の摂理

     である。..............................................220

 


目次-2と1-1,2 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

目次-2

第十二章                            221

 人間は、もし人生の終わりに至るまで、信仰の真理の中、また仁愛の

 の善の中に引き止められることが出来る範囲でなければ、それらの中

 へ内的に入ることを許されない。

(1)人間は霊的な事柄の知恵の中へ入れられることが出来、そしてま

   た、それらの愛の中へも入れられることが出来るが、しかも、そ

   れでもなお改心されることが出来ない。.....................222

(2)もし、人間が将来、それらから離れるなら、また相反するものの

   中へそれるなら、神聖なものを冒涜する。...................226

  〔1〕人間が意志から考え、話し、および行なうものは何でも彼に自

     分のものにされ、また善いものも悪いものも残留する。....227

  〔2〕しかし、主がその神的な神の摂理によって絶えず予見し、また

     処理されるその結果として悪は個別的にあり、また善も個別的

     にある。そしてそのように善と悪が分けられることが出来る。

     ......................................................227

  〔3〕しかし、上記のことは、もし人間が最初に信仰の真理を承認し、

     またそれらに従って生活し、そしてその後、それらから離れ、

     またそれらを否定するなら、行われることが出来ない。....227

  〔4〕善と悪を混ぜる時、これほどまでに分けられることが出来ない。

     ......................................................227

  〔5〕そして、善と悪は各々の人間の許で分けられなければならない

     ので、また前述のような者の許で分けられることが出来ないの

     で、それ故に、真に凡ての人間的なものが滅ぼされる。....227

(3)多くの冒涜の種類があるが、しかしこの種類の冒涜は凡てのものの

     中で最も悪いものである。..............................229

  〔1〕第一の冒涜の種類は聖言を元として、また聖言に関して、或い

     は教会の神的なものを元として、またそれらに関してふざける

     者達からある。........................................231

  〔2〕第二の冒涜の種類は、神的な真理を理解し、また承認するが、

     しかもそれにもかかわらずそれらに反して生活する者からある。

     ......................................................231

  〔3〕第三の冒涜の種類は聖言の文字の意味を悪への愛と間違った信

     念の原理を確信することへ当てはめる者からある。........231

  〔4〕第四の冒涜の種類は口で敬虔なこと、また神聖なことを語り、

     そしてまた、それらの愛の情愛を語調、また身振りで真似、そ

     してそれにもかかわらずそれらを心で信じ、また愛していない

     者からある。..........................................231

  〔5〕第五の冒涜の種類は神的なものを自分自身に帰する者からある。

     ......................................................231

  〔6〕第六の冒涜の種類は聖言を承認するが、またそれでもなお主の

     神的なものを否定する者からある。......................231

  〔7〕第七の冒涜の種類は、先ず神的な真理を承認し、なお加えてそ

     れらに従って生活し、そしてその後、それらを離れ、またそれ

     らを否定する者からある。..............................231

(4)それ故に、人間は人生の終わりに至るまで、知恵の真理の中と同

   時に、愛の善の中に留まらされることが出来る範囲でなければ、

   主は人間を知恵の真理の中と同時に愛の善の中へ内的に入ること

   を許されない。...........................................232

  〔1人間の許の内なるものの中で悪と善は一緒に存在することが出

     来ない。それ故に、悪の間違った信念と善の真理も一緒に存在

     することが出来ない。..................................233

  〔2人間の内なるものにおいては、もし、悪と悪の間違った信念が

     遠ざけられた範囲でなければ、主によりそこに善と善の真理が

     導入されることは出来ない。............................233

  〔3もし前以て、善がその真理と一緒にそこに導入されるなら、即

     ち、もし悪がその間違った信念と一緒に遠く離れるよりも、そ

     れ以上に、善がその真理と一緒に導入されるなら、人間は善か

     ら離れ、そして自分自身の悪へ戻る。....................233

  〔4人間は悪の中に居る時も、彼の理解に多くの真理が導入される

     ことが出来る。そしてこれらを記憶の中に貯えることも出来る

     が、またそれにもかかわらず冒涜されることはない。......233

  〔5しかし、主はその神的な神の摂理によって、人間が外なる人間

     において自分自身からの如く悪を遠ざける前に、真理が意志に

     より受け入れられないように、また人間が外なる人間において

     自分自身からの如く悪を遠ざける範囲を除いて、それ以上に、

     真理が意志により受け入れられないようにそれを最大限警戒さ

     れる。................................................233

  〔6もし、人間が外なる人間において自分自身からの如く悪を遠ざ

     ける前に、真理が意志により受け入れられるなら、またもし、

     人間が外なる人間において自分自身からの如く悪を遠ざける範

     囲を除いて、それ以上に、真理が意志により受け入れられるな

     ら、その時、それらを悪と一緒に、また間違った信念と一緒に

     混ぜることで善を不純化し、また真理を曲解するであろう。233

  〔7それ故に、もし、人間が人生の終わりに至るまで知恵の真理と

     愛の善の中に留まらされることが出来るのでなければ、主は人

     間を知恵の真理の中へ、また愛の善の中へ内的に入ることを許

     されない。............................................233

 

第十三章                            234

 許しの法則もまた神的な神の摂理の法則である。

聖言からの例

(1)人間の最も賢明なアダムと妻は自分達自身を蛇により惑わされる

   ことを許され、またそれを神はその神的な神の摂理によって防が

   なかった。...............................................241

(2)彼らの最初の息子のカインは、その弟のアベルを殺した。そして

   その時、神は彼と語ることでそれを抑えなかったが、しかし、単

   に殺人の行為の後で、呪うことで彼と語った。...............242

(3)イスラエルの人々が砂漠において金の子牛を崇拝し、それをエジ

   プトの地から彼らを連れ出した神として承認した。それにもかか

   わらず、エホバはシナイ山から近付いてこれを見たが、しかも防

   止しなかった。...........................................243

(4)ダビデが国民を数え、またそれ故に、疫病が送られたことにより

   数千の人間が死んだ。ところがしかし、神はダビデが国民を数え

   る前ではなく、数えることが行なわれた後に、預言者ガドをダビ

   デに派遣し罰を通告した。.................................244

(5)ソロモンに偶像崇拝的な礼拝を制定することが許された。.....245

(6)また彼の後の、多くの王達に神殿と教会の神聖なものをけがすこ

   とが許された。...........................................246

(7)その国民に主を十字架につけることが許された。.............247

この世のものからの例

(1)凡ての自分の思慮の崇拝者と凡ての自然の崇拝者は、この世にお

   いて、これほど多くの不敬虔な者、またこれほど多くの彼らの不

   敬、また同時に、彼らにおけるある種の不敬を自慢することを見

   る時、またそれでもなお、その結果として、神から彼らに何も処

   罰がないことを見る時、神的な神の摂理に反して自分の思慮と自

   然を確信する。...........................................249

(2)自分の思慮の崇拝者と自然の崇拝者は、不敬虔な者が名誉を高め

   られることへ、そして、高官、および最上位の者に為され、更に

   その上、富に満ち溢れること、なお加えて、贅沢なものと豪華な

   ものの中で生活するのを見る時、またこれに反して、神の崇拝者

   が侮りと貧困の中に生活するのを見る時、神的な神の摂理に反し

   て自分の思慮と自然を確信する。...........................250

(3)自分の思慮の崇拝者と自然の崇拝者は戦争が許され、またその時、

   多くの人間の殺害、なお加えて、彼らの財産の略奪が許されるこ

   とを考える時、神的な神の摂理に反して自分の思慮と自然を確信

   する。...................................................251

(4)自分の思慮と自然の崇拝者は、その理解に従って、勝利が思慮の

   関与により、思慮の責任により依存し、またいつでも、正義の関

   与に依らないことを考える時、更に、指揮官が正しい者であるに

   せよ、或は不正な者であるにせよ何も相違を引き起こさないこと

   を考える時、神的な神の摂理に反して自分の思慮と自然を確信す

   る。.....................................................252

宗教からの例

(1)自然的なものに過ぎない人間は、様々な人々の宗教に目を向ける

   時、神を全く知らない者、或は太陽と月を崇拝する者、更に偶像

   と彫像を崇拝する者が存在することを見る時、神的な神の摂理に

   反して自分の思慮と自然を確信する。.......................254

(2)自然的なものに過ぎない人間は、イスラム教の宗教的なものがこ

   れほど多くの帝国と王国に受け入れられていることを見る時、神

   的な神の摂理に反して自分の思慮と自然を確信する。.........255

(3)自然的なものに過ぎない人間は、基督教の宗教がヨーロッパと呼

   ばれる住める世界の中の最小の地域だけにあること、またそこで、

   分裂されたものであることを見る時、神的な神の摂理に反して自

   分の思慮と自然を確信する。...............................256

(4)自然的なものに過ぎない人間は、基督教の宗教が受け入れられた

   多くの王国において、そこで神的な権限を自分自身に要求する者

   達が居り、また神々の如く尊ばれることを欲する者達が居り、ま

   た死んだ人間へ助けを祈る者が居ることにより、神的な神の摂理

   に反して、自分の思慮と自然を確信する。...................257

(5)自然的なものに過ぎない人間は、基督教の宗教を公然と認める者

   達の間に、救いをある種の言葉の中に置き、それらを考え、また

   話すことの中に置き、そして彼らが行なう善の中に救いの何かの

   ものを置かないことから、自分の思慮と自然を確信する。.....258

(6)自然的なものに過ぎない人間は基督教世界においてこれほど多く

   の異端がある、例えばクエーカ派、モラヴィア派、再洗礼派、ま

   た多くの異端があり、しかも今なお、あることから神的な神の摂

   理に反して自分の思慮と自然を確信する。...................259

(7)自然的なものに過ぎない人間はユダヤ教が今なお存在し続けてい

   ることから、神的な神の摂理に反し、自分の思慮と自然を確信す

   る。.....................................................260


その他の例

(1)全基督教世界で三人の神々である三人物の許に一人の神を礼拝す

   ることから、また神は人格と本質で一人であることも、その中に

   三一性があることも、またその神は主であることも知らなかった

   ことから、神的な神の摂理に対して疑いをもたらされることが出

   来る。...................................................262

(2)聖言の個々のものの中に霊的な意味があること、またそこからそ

   の神聖さがあることも知らなかったことから、神的な神の摂理に

   対して疑いをもたらされることが出来る。...................264

(3)元来の基督教の宗教は、悪を罪の如く斥けることであることを、

   これまで知らなかったことから神的な神の摂理に対して疑いをも

   たらされることが出来る。.................................265

(4)人間は死後、人間が生きることを、これまで知らなかったことか

   ら、またこれが、更に早くに明かされなかったことから、神的な

   神の摂理に対して疑いをもたらされることが出来る。.........274

 

第十四章                            275

 悪は救いの目的のために許されている。

(1)凡ての人間は悪の中に居り、そして改心されるためには悪から遠

   ざけられなければならない。..............................277[a]

(2)悪は、もし明らかにならなければ遠ざけられることが出来ない。

   .......................................................278[a]

  〔1〕自分は凡ての罪のある罪人であることを告白するが、しかも自

     分自身の許に何も調べない者。.........................278[b]

  〔2〕宗教により自分自身を調べることを怠る者。.............278[b]

  〔3〕世俗的なもののために罪について何も考えない者達、またそれ

     故、それらを知らない者。..............................278[b]

  〔4〕罪に好意を示す者、またそれ故に、それらを知ることが出来な

     い者。...............................................278[b]

  〔5〕罪はこれらの凡ての者の許に見えない。またそれ故に、罪は遠

     ざけられることが出来ない。...........................278[b]

  〔6〕最後に、なぜ罪の調査、出現、承認、告白、また抵抗なしに悪

     が遠ざけられることが出来ないのかが、今まで知られなかった

     理由が明らかにされなければならない。.................278[b]

(3)悪が遠ざけられるほど、それだけ許される。.................279

  〔1〕罪が主の直接の慈悲により許された時に、悪も人間から分離さ

     れると信じられること、それどころか追い出されると信じられ

     ることは現代の誤りである。............................279

  〔2〕人間の生命の状態が瞬間に変えられること、またそのように、

     人間が悪い者から善い者に瞬間に変わることが出来ること、そ

     故れに、人間は地獄から連れ出され、同時に即座に、天界の中

     へ移されること、そしてこれが主の直接の慈悲から為されるこ

     とが信じられることは現代の誤りである。................279

  〔3〕このように信じる者は善が何か、また悪が何かを何も知らない。

     ......................................................279

  〔4〕瞬間の救いと直接の慈悲を信じる者は、意志の情愛が、心の器

     官の純粋に本質的な性質の状態の純然たる推移であること、ま

     た理解の思考がそれらの形の推移と変化であること、また記憶

     は、それらの推移と変化が留まっている状態であることを知ら

     ない。................................................279

  〔5〕罪が許された時、更にそれが取り除かれたと信じることもまた

     現代の誤りである。....................................279

(4)このように救いとしての目的のために悪の許しがある。.......281

 

第十五章                            285

 神的な神の摂理は善い者の許と同様に悪い者の許にも平等である。

(1)神的な神の摂理は善い者の許だけでなく、悪い者の許にもまた例

   外なく最も個別的なものの中にあるが、しかもそれでもなお、悪

   い者の悪の中にない。.....................................287

  〔1〕誰も自分自身から考えないが、しかし他の者から考えるという

     条件で悪を為すことは罪でなかったこと。................294

  2この条件では悪は主からあることが見られること。........294

  〔3〕凡ての者がこのように異なって考えるように為すことを主だけ

     が出来ることを認めないこと。..........................294

(2)悪い者は絶えず自分自身を自ら進んで悪の中へ引き入れるが、し

   かし主は絶えず悪い者を悪から引き出す。...................295

  〔1〕各々の悪の中に無数のものがある。......................296

  〔2悪い者は自分自身により自分自身をそれらの無数の悪の中へ絶

     えず深く引き入れる。..................................296

  〔3悪い者の中での神的な神の摂理は悪から絶え間なく引き出すこ

     とのための目的の理由で悪の絶え間ない許しである。......296

  〔4悪から引き出されることは千の方法で行なわれ、更に主により

     最も密かに行われる。..................................296

(3)悪い者は自分の知性が凡てであることを信じている限り、また神

   的な神の摂理は何も意義あるものでないことを信じている限り、

   主により悪から引き出されること、また善の中へ導かれることが

   全く出来ない。...........................................297

  〔1人間固有の理解(知性)は意志が悪の中にある時、間違った信

     念を除いて認めない、また認めることを欲しないし、それ以外

     のものを認めることを欲することが出来ない。............298

  〔2例えその時、人間固有の理解(知性)が真理を見ても、真理を

     他方へ転ずる、即ち真理を虚偽化する。..................298

  〔3神的な神の摂理は絶えず人間に真理を認めること、また更に、

     真理を理解することの情愛を与えること、そしてまた、真理を

     受け入れることの情愛を与えることを行なう。............298

  〔4人間はそれによって自分自身によってではなく、主により悪か

     ら引き出される。......................................298

(4)主は地獄を対立されたものによって支配される。またこの世の中

   の悪い者を内なるものに関する限り地獄の中で支配されるが、し

   かし外なるものに関する限り地獄の中で支配されない。.......299

 

第十六章                            308

 神的な神の摂理は誰かに悪と善を専有させないが、しかし人間固有の

 思慮が両方とも人間に専有させる。

(1)人間固有の思慮が何か、また人間固有のものでない思慮は何か。

   .........................................................310

(2)人間は人間固有の思慮により凡ての善と真理は自分自身からある

   ことを自分自身に説得し、また自分自身の許に確信する。同様に

   凡ての悪と間違った信念も自分自身からあることを自分自身に説

   得し、また自分自身の許に確信する。.......................312

(3)説得され、そして確信された凡てのものは固有性の如く人間の許

   に残存する。.............................................317

  〔1〕論証(確信)されることが出来ないことは何もなく、また多く

     の間違った信念は真理よりも容易に論証(確信)されることが

     出来る。..............................................318

  〔2〕論証(確信)された間違った信念によっては真理が見えないが、

     しかし論証(確信)された真理によっては間違った信念が見え

     る。..................................................318

  〔3〕何でも好ましいものを論証(確信)することが出来るが、それ

     は知性ではなく、才気があるだけであり、最も邪悪な者の許に

     もまた有り得る。......................................318

  〔4〕意志の確信と一緒にない理解の確信が存在するが、これに対し

     て凡ての意志の確信はその通りに理解の確信でもある。....318

  〔5〕意志、および理解と一緒に為す悪い者の確信(論証)は、その

     結果として、人間固有の思慮が凡てであることを、また神的な

     神の摂理が何もないことを人間が信じるように為す。これに反

     し、理解の確信だけを為すものはこれを為さない。........318

  〔6〕意志と一緒に理解により確信された凡てのものは永遠に留まる

     が、しかし理解により確信されただけのものは永遠には留まら

     ない。................................................318

(4)もし、人間が凡ての善と真理は主からあることを真実の如く信じ

   たなら、なお加えて、凡ての悪と間違った信念は地獄からあるこ

   とを信じたなら、自分自身に善を専有しなかったし、またそれを

   功績を得るために行わず、悪を自分自身に専有しなかっただろう。

   そして自分自身をその罪のある者に為さなかっただろう。.....320

  〔1〕自分自身の許に知恵と思慮は人間からあること、またそれ故、

     人間の中で彼のものとしてあることの外観を確信する者が、そ

     れと別に見ることは人間は人間ではなく、獣か彫像を除いて異

     なって見ることが出来ないが、それでもその時、反対である。

     ......................................................321

  〔2〕凡ての善と真理は主からあること、なお加えて、凡ての悪と間

     違った信念は地獄からあることが真実であるように信じること

     と考えることは不可能な如く見えるが、それでもその時、それ

     が真に人間の真実であり、それ故、天使の真実である。....321

  〔3〕主の神的なものを承認しない者と悪は罪であることを承認しな

     い者は、このように信じることと考えることが不可能である。

     これに対して、これらの二つのものを承認する者は可能である。

     ......................................................321

  〔4〕これらの二つのものの承認の中に居る者は、自分自身の許に悪

     を制してそらせる(反射する)だけであり、また地獄からある

     悪を罪として斥け、また拒絶する範囲で自分自身からそれらを

     地獄へ投げ返す。......................................321

  〔5このように神的な神の摂理は誰にも悪と善を専有させないが、

     しかし人間固有の思慮が両方とも自分に専有させる。......321

 

第十七章                            322

 人間は凡ての者が改心されることが出来、そして全く地獄への予定は存

 在しない。

(1)創造の目的は人類からの天界である。.......................323

  〔1凡ての人間は永遠に生きるために創造された。............324

  〔2凡ての人間は幸福な状態において永遠に生きるために創造され

     た。..................................................324

  〔3それ故、凡ての人間は天界へ行くために創造された。......324

  〔4〕神的な神の愛はそれを除いて異なって欲することは出来ない、

     また神的な神の知恵はそれを除いて異なって備えることは出来

     ない。................................................324

(2)それ故、神的な神の知恵により各々の人間は救われることが出来

   る。かくて神を承認し、同時に善く生きる者は救われる。.....325

  〔1神の承認は神の人間との、また人間の主との結合を生じる。そ

     して神の否定は神の人間との、また人間の主との分離を生じる。

     ......................................................326

  〔2各々の者は自分自身の生活上の善に従って神を承認し、また主

     御自身に結合される。..................................326

  〔3生活上の善、即ち良く生きることは、悪を宗教に反しているの

     で斥けることである。従って神に反しているので斥けることで

     ある。................................................326

  〔4これらが凡ての宗教に共通のものであり、各々の者はこれらの

     ものによって救われることが出来る。....................326

(3)もし、救われないなら、人間自身の責任である。.............327

  〔1凡ての宗教は時代の推移によって衰え、また滅ぼされる。..328

  〔2人間の許の神の像を逆様にすることによって、凡ての宗教が衰

    え、また滅ぼされる。...................................328

  〔3これは子孫の中で遺伝の悪の絶え間ない増加により起こる。328

  〔4それでもなお、各々の者が救われることが出来るように主によ

     り備えられている。....................................328

  〔5〕更に、新しい教会が前の荒らされた教会に代わって引き続いて

     起こるように備えられている。..........................328

(4)このように凡ての者は天界へ予定されており、また誰も地獄へ予定

   されていない。...........................................329

  〔1〕天界以外の他の予定は神的な神の愛とその無限に反している。

     ......................................................330

  〔2〕天界以外の他の予定は神的な神の知恵とその無限に反している。

     ......................................................330

  〔3教会内で生まれた者だけが救われることは、途方もない異端で

     ある。................................................330

  〔4人類の誰かが予定により地獄へ落とされることは残酷な異端で

     ある。................................................330

 

第十八章                            331

 主は神的な神の摂理の法則に反して行うことが出来ない。なぜなら、

 それらに反して行うことは神的な神の愛に反して行うことであり、ま

 た神的な神の知恵に反して行うことであるからである。従って主御自

 身の御自身に反して行うことであるからである。

(1)神的な神の摂理の働きは人間を救うことのためにその出生から始

   まり、そして人生の終わりに至るまで続き、またその後、永遠に

   続く。...................................................332

(2)神的な神の摂理の働きは純粋な慈悲により手段を通して連続的に

   行われる。...............................................335

(3)直接の慈悲による瞬間の救いはあり得ない。.................338

  〔1〕直接の慈悲による瞬間の救いについての信仰は人間の自然的な

     状態から獲得されたものである。........................338

  〔2〕この信仰は自然的な状態とは全く異なった霊的な状態の無知に

     よりある。............................................338

  〔3〕内的に見られた基督教世界における、凡ての教会の教義は直接

     の慈悲による瞬間の救いに反対している。しかしそれでもなお、

     外的な教会の人間はそれを強固にする。..................338

(4)直接の慈悲による瞬間の救いは教会の中で飛ぶように走っている

   火蛇(毒蛇)である。.....................................340

  〔1〕その信仰によって宗教が破棄される。....................340

  〔2〕その信仰によって無頓着が持ち込まれる。................340

  〔3〕その信仰によって地獄行きの宣告が主に帰される。........340

付記

地獄から登って来た霊達.........................................340



1(章番号)-1(節文の通し番号) 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。(章番号は原典にありませんが便宜上付けました。)
 
 
1.神的な神の摂理が何か、また主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配があることが理解されるために、神的な神の愛と神的な神の知恵についての論文の中で以前に述べられ、また示されたものが知られるということが重要である。
それらは次のものである。主の中で神的な神の愛は神的な神の知恵の愛であり、そして神的な神の知恵は神的な神の愛の知恵である(34-39番)。
神的な神の愛と神的な神の知恵は、それら自身から創造された他の者達の中に神の愛が存在することと神の知恵が形になること以外の他の方法で他の者達と結合することは出来ない(47-51番)。全世界の凡てのものは神的な神の愛と神的な神の知恵から創造された(52,53,151-156番)。全世界の凡てのものは神的な神の愛と神的な神の知恵を受け入れるものである(55-60番)。主は天使達の目の前で霊太陽として現われ、そしてそこから発している熱は愛であり、またそこから発している光は知恵である(83-88, 89-92, 93-98, 296-301番)。神的な神の愛と神的な神の知恵は一つのものとなって主から発する(99-102番)。永遠からの主はエホバで在られる。全世界とその凡てのものを元来の主御自身から創造され、かくて無から創造されたのではない(282-284, 290-295番)。
これらは神的な神の愛と神的な神の知恵についての天使的な知恵と呼ばれる論文の中に述べられた。


1-2 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。
 
2.これら(前述のもの)とそれら(神の愛と神の知恵の中のもの)の創造についての論文の中に記述されたものから寄せ集められたものから、主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配は神的な神の摂理と呼ばれることが確かに知られることが出来よう。しかし、そこで創造について述べられたので、また創造の後の物事の状態の維持について述べられたのではないので、またこれらは主の支配であるので、それ故に、今やここに創造後の物事の状態の維持について述べよう。
しかし、この章においては創造されたものの中の神的な神の愛と神的な神の知恵、即ち神的な善と神的な真理の結合の維持について取扱う。このことについては下記の順序で述べよう。
(1)全世界(霊的な宇宙と自然的な宇宙)は全体的なものも個別的なものも共に、その創造されたものは神的な神の愛から神的な神の知恵によって存在する。
(2)神的な神の愛と神的な神の知恵は一つのものとして主から発出する。
(3)この一つのものは凡ての創造されたものの中のある種の像の中にある。
(4)凡ての創造されたものが全般的なものにおいて、また部分的なものにおいてこのように一つのものであるために神的な神の摂理がある。そしてもし一つのものでないなら、一つのものになるためにある。
(5)愛の善は知恵の真理に結合された範囲より多く善ではない。また知恵の真理は愛の善に結合された範囲より多く真理ではない。
(6)知恵の真理に結合されていない愛の善は本質的に善ではないが、しかし外観上の善である。また愛の善に結合されていない知恵の真理は本質的に真理ではないが、しかし外観上の真理である。
(7)主は何かが分割されたものであるということを許されない。それ故に、善と一緒に真理の中にあるか、悪と一緒に間違った原理(信念)の中にあらねばならない。
(8)善と一緒に真理の中にあるものは何か意義あるものであり、また悪と一緒に間違った原理(信念)の中にあるものは何か異議あるものではない。
(9)主の神的な神の摂理は悪と一緒の間違った原理(信念)を均衡のために、比較のために、浄化のために、またそれ故に、他の者の許の善と真理の結合のために仕えるように為す。

1-3 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

1-3 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

3.(1)全世界(霊的な宇宙と自然的な宇宙)は全体的なものも個別的なものも共に、その創造されたものは神的な神の愛から神的な神の知恵によってある。
〈1〉エホバで在られる永遠からの主は本質に関する限り神的な神の愛と神的な神の知恵である。また主御自身は主御自身から全世界とその凡てのものを創造されたことは神的な神の愛と神的な神の知恵についての論文において示された。
その結果として全世界はその全体的なものも個別的なものも一緒に神的な神の愛により神的な神の知恵を通して創造されたことが帰結される。前もって述べられた論文において、更に愛は知恵なしに何か意義あることを行うことが出来ないし、知恵は愛なしに何か意義あることを行うことが出来ないことが示された。というのは、愛は知恵なしに、即ち意志は理解なしに何か意義あることを考えることが出来ないからである。無論、何か意義あることを認めることと感じることも出来ない。また何か意義あることを話すことも出来ない。それ故に、愛は知恵なしに、即ち意志は理解なしに何か意義あることを行うことが出来ない。
同じく、知恵は愛なしに、即ち理解は意志なしに何か意義あることを考えることが出来ないし、何か意義あることを認めることと感じることも出来ない。無論、何か意義あることを話すことも出来ない。それ故に、知恵は愛なしに、即ち理解は意志なしに何か意義あることを行うことが出来ない。というのは、もしそれらから愛が取り去られるなら、その後、何か意義あることを意志(欲)することが出来ないからである。従って何か意義あることを行うことが出来ないからである。
人間の許で、もし彼が何かを行うなら、このような時、彼が行うことは存在するようになる。このことは元来の神の愛と元来の神の知恵で在られる神の許で、全世界とその凡てのものを創造し、また造る時、なお更(それは)存在するようになる。
〈2〉全世界(霊的な宇宙と自然的な宇宙)は全体的なものも個別的なものも共に、その創造されたものは神的な神の愛から神的な神の知恵によってあることはこの世における凡ての視覚の対象から確認されることが出来る。何かの対象を詳細な方法で取り上げよ、またそれをある種の知恵により吟味せよ。同時に、あなたは確認するだろう。樹木、或いはその種子、或いはその果実、或いはその花、或いはその葉を取り上げよ。そしてあなたの許に知恵を集めよ、そしてそれを鋭い顕微鏡で見よ。同時に驚くべきものを見るだろう。その上に、あなたが見ないであろう内部のものは更に驚くべきものである。
秩序を見よ、その継承の中で樹木はどのようにして種子から新しい種子に至るまで成長するのか。また熟慮せよ、凡ての継承の中でそれ自身を更に繁殖することの永続している努力があるかどうか。というのは、樹木の最後のものが目指す結果は種子であるからである。その種子の中にその繁殖させるものが新しいものになる。その時、更にもし霊的に考えることをあなたが欲するなら(これは、もしあなたが欲するなら可能であるが)確かにその中にあなたは知恵を見ないだろうか?
また更に、もしあなたがそれを絶えず霊的に考えることを欲するなら、これは種子からあるのではなく、純粋な火であるこの世の太陽からあるのでもなく、無限の知恵がある神で在られる創造主から種子の中にあること、またかつて産出された時にだけあるのではなく、更に将来も継続してあることを見ないだろうか? というのは、存続が永続する存在であるように維持は永続する創造であるからである。これは、もしあなたが活動から意志を取り去るなら、それに応じて活動が止まるのと同じである。或いは、もしあなたが話すことから思考を取り去るなら、それに応じて話すことが止まるのと同じである。或いは、もしあなたが運動から努力を取り去るなら、それに応じて運動が止まるのと同じである。要するに、もしあなたが結果から原因を取り去るなら、それに応じて結果は失われる。その他。
〈3〉確かに、創造されたこのような凡てのものに活動力が与えられているが、しかし活動力はそれ自身から何かの方法で働かない。しかし活動力を与えるものから働く。更に別の何がしかの地上の主体を見よ。例えば、蚕、蜜蜂、或いは他の小さい昆虫を、先ず自然的に、その後、理性的に、最後に霊的に調べよ。そしてその時、もしあなたが深く考えることが出来るなら、あなたはその凡てのものに驚くであろう。またもし、あなたの中に知恵を入れて語ることが出来るなら、あなたは驚愕の中で「誰がこれらの中に神的なものを見ないか? 凡てのものは神的な神の知恵である。」と言うであろう。
もしあなたが創造されたものの凡ての用を、どのようにして適切な順序で人間に至るまで、また人間から創造主へ続くか見るならそのことから、また創造主の人間との結合によって凡てのものの関係が依存するのを見るなら、またもし、あなたが凡てのものの維持を認めることを欲するなら、その後、更に驚くであろう。
神的な神の愛が凡てのものを創造したであろうが、しかし神的な神の知恵なしに何も創造しなかったことは次に認められるであろう。

1-4 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

1-4 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

4.(2)神的な神の愛と神的な神の知恵は一つのものとして主から発出する。
〈1〉これは神的な神の愛と神的な神の知恵についての論文において示されたことからもまた明らかである。特にそこの下記のものから明らかである。主の中で神の存在と神の形は区別して一つのものである(14-16番)。主の中で無限のものは区別して一つのものである(17-22番)。神的な神の愛は神的な神の知恵の愛であり、また神的な神の知恵は神的な神の愛の知恵である(34-39番)。愛は知恵との結婚なしに何か意義のあることを行うことは出来ない(401-403番)。愛は知恵との結合の中になければ何も働かない(409,410番)主の中で神的な神の愛と神的な神の知恵は一つのものである如く、霊的な熱と霊的な光も霊太陽としての主から発することで一つのものを為す(99-102番)。
これらのことから、上記のことの真実が明らかである。しかし、どのようにして二つのものが一つのものとして働くか知られていないので、この機会に説明することを私は欲する。一つの何かのものは形なしに存在しないが、しかし形自身が一つの何かのものを作る。更に形はより完全にされたものであればあるほど益々一つのものを作り、他のものとは区別してあるが、同時にそれにもかかわらず一つにされたものであり、それから形が構成される。
〈2〉一つの何かのものは形なしに存在しないが、しかし形自身が一つの何かのものを作る。
心を集中して考える凡ての者は一つの何かあるものは形なしに存在しないこと、またもし、存在するなら形があることを明瞭に認めることが出来よう。というのは、何でも存在するものは形から性質と呼ばれるものを、そしてまた、属性と呼ばれるものを獲得するからである。更に、状態の変化と呼ばれるもの、例えば似ていると呼ばれるものを、また同様な他のものを獲得するからである。
それ故に、形の中にないことは、何かの性質の形がないことであり、また何かの性質の形がないことは、更に何もものがないことである。形自身が凡てのそれらのものを与える。また凡てのものは形の中にあるので、もし形が完全にされたなら、鎖において輪へ輪がつながるようにそれら自身を相互に関係する。
それ故に、形自身が一つの何かあるものを生じ、また同様に主体を生じる。このことから性質、状態、作用が属性付けられることが出来る。このように何かのものは形の完全であることに従って完全である。
〈3〉この世において目に見られる凡てのものはこのような物である。なお加えて、自然のより内部の中にある、或いは霊的な世界の中にある目に見られない凡てのものもまたこのようなものである。
人間はこのようなものであり、また人間の社会もこのようなものである。また教会もこのようなものであり、更に主の前で天使的な凡ての天界もこのようなものである。要するに、創造された全世界の凡てのものは全般的なものだけでなく、更に凡ての部分的なものもこのようなものである。
全体的なものと個別的なものの形があるためには、凡てのものを創造された神御自身が元来の神の形である必要があり、その結果として、同時に元来の神の形から創造された凡てのものが形の中にある。
上記のことは神的な神の愛と神的な神の知恵についての論文において示されたのである。例えば、神的な神の愛と神的な神の知恵は本質的な性質であり、またそれは形である(40-43番)。神的な神の愛と神的な神の知恵は本来の形である故に、神御自身であり、また唯一の生命である(44-46番)。神的な神の愛と神的な神の知恵は主において一つのものである(14-16番、17-22番)。また、主から一つのものとして発出する(99-102番、また他の所に)。
〈4〉形は益々完全な一つのものを生じる。その結果、形を構成することによって他のものと区別してあるが、それにもかかわらず一つのものにされている。
これは外観であるので、もし理解が高められていなければ殆んど理解に落ち込まない。それらの形を構成するものが同様の似たものによって以外に形は異なって一つのものを生じることが出来ない。この事柄についてたびたび私は天使達と話したのである。天使達は、これは秘義であること、彼らの賢明な者達は明瞭に理解し、それに対してそれほど賢明でない者達は不明瞭に理解すること、しかし形は益々完全にされること、その結果、形を生ずることから他のものと区別してあること、しかしそれでもなお特別な方法で一つにされたものであることが真実であることを言った。
これを天使達は天界の中の社会によって、それらがひとまとめにされて天界を構成することで説明した。しかもなお各々の社会の天使達によって説明した。天使自身の仲間がそれぞれ別々に区別されるほど、従って独立するほど、またそのように天使自身からの如く、また天使自身の情愛から仲間達を愛するほど、社会の形は完全なものであることによって説明した。
更に、それを二つのものが区別されるのであればあるほど益々完全な一つのものを作ることが出来ることを善と真理の結合によって、同様に愛と知恵の結合によって説明した。また区別のつかないものは曖昧なものであり、そのことから形の不完全性が結果として生じることを説明した。
〈5〉しかし、どうして完全に区別されたものが結合されるのか、またそのように一つのものを作るのか、更に多くのものによって説明した。特に、人間の中にある無数の皮膜によって区別されたものに従って、またそれにもかかわらず靭帯によって一つにされたものに従って説明した。また愛とその凡てのものに、なお加えて知恵とその凡てのものに同様であること、それらは一つのもののようなものよりも異なって認められないことを説明した。
これらについて多くのものが神的な神の愛と神的な神の知恵についての論文(14-22番)の中に、また天界と地獄についての著作(56と489番)の中に認められよう。
今述べたばかりのことは天使的な知恵のものなので述べられた。

1-5 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

1-5 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

5.(3)この一つのものは凡ての創造されたものの中のある種の像の中にある。
〈1〉主の中の神的な神の愛と神的な神の知恵は一つのものであり、なお加えて主御自身から一つのものとして発出し、凡ての創造されたものの中のある種の像の中にあることは神的な神の愛と神的な神の知恵についての論文の中の至る所に示されたものから知られることが出来る。また特に47-51番、55-60番、282-284,290-295,313-318,319-326,349-357から知られることが出来る。
凡ての創造されたものの中に神的なものがあることは上記の個所において示されたのである。なぜならば神が創造主であるからである。その方は永遠からの主で在られ、霊的な世界の霊太陽を主御自身の御自身のものから作り出され、そしてその霊太陽によって全世界の凡てのものが創造された。
それ故に、その霊太陽は主からあり、また主がそこに居られる。その霊太陽は最初の実体であるだけでなく、更に唯一のものであり、それから凡てのものが創造された。また唯一の実体であるので、それが創造された凡てのものの中にあることが帰結される。しかし用に従って無限の多様性と一緒にある。
〈2〉このような事情の下に、主の中に神的な神の愛と神的な神の知恵があるので、また霊太陽の中に主御自身からの神的な火と神的な輝きがあるので、また霊太陽から霊的な熱と霊的な光が発出するので、またこれらの二つのものは一つのものを作るので、この一つのものが創造された凡てのものの中のある種の像の中にあることが帰結される。
それ故、全世界の中にある凡てのものは善と真理に関係する。無論、それらの結合にも関係する。或いは同じことであるが、全世界の中の凡てのものは愛と知恵に関係する。またそれらの結合に関係する。なぜなら善は愛の善であり、真理は知恵の真理であるからである。というのは愛はその凡てのものを善と呼び、また知恵はその凡てのものを真理と呼ぶからである。
これらの結合が凡ての創造されたものの中にあることは、次のものの中に認められよう。

1-6 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

1-6 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

6.〈1〉多くの者から唯一の実体があり、更にそれは最初のものであり、それから凡てのものがあることが認められている。しかしその実体がどのようなものであるかは知られていない。それ以上に更に、単一のものが何もないような、また何も寸法(領域)のない点にたとえることが出来るような、またそのようなものの無限のものから形の寸法(領域)が現われるような。このような単一なものがあると信じられている。
しかし、これは空間の考えから生まれる誤りである。というのは、この空間の考えから前述の最小のものが現われるように見えるからである。しかし、それでもなお、何かのものが単純で、また純粋であればあるほど益々、高く、また完全であることが真実である。その理由は何かの対象物のより内部のものが見られれば見られるほど益々そこでより驚くべきもの、より完全なもの、およびより美しいものが見られるからである。またそれ故に最初の実体の中に凡てのものの最も驚くべきもの、最も完全なもの、および最も美しいものがある。
なぜなら、このようにあることは最初の実体は霊的な霊太陽であるからである。それは述べられたように主からあって、またその中に主が居られる。このようにその霊太陽自身が唯一の実体である。なぜなら、それは空間の中にはなく、凡てのものの中の凡てのものであり、なお加えて創造された全世界の最大のものと最小のものの中にあるからである。
〈2〉その霊太陽が最初の実体で唯一の実体である故に、それから凡てのものがある。その中に無限に多くのものがあり、それらはその霊太陽から発する実体の中に現われることが出来るように、それらは実体を与えられたものになる。そして最後には物質と呼ばれるものになる。
霊太陽を創造されたものの中に見ることが出来ないのは、創造されたものはその霊太陽から二様の段階を通して下がるからである。それらの段階に従って凡ての完全性は減少する。
それ故、上に述べられたように何かのものの内部のものが見られれば見られるほど益々驚くべき、より完全な、より美しいものが見られるのである。
これらのことが述べられたのは、神的なものがある種の像において、凡ての創造されたものの中にあることが確認されるためである。しかし、それは段階を通して下がる中でより不完全に、またより不十分に現われる。またもし地上の物質に囲まれる閉塞によって上の段階から更に低い段階が切り離されるなら、なお更に不完全に現われる。
しかし、これらはもし、神的な神の愛と神的な神の知恵についての論文の中で霊的な霊太陽について(83-172番)、段階について(173-281番)、および全世界の創造について(282-357番)示されたものが読まれ、同時に理解されないなら不明瞭なものでなければ認められることが出来ない。

1-7 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

1-7 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

7.凡ての創造されたもが全般的なものにおいて、また部分的なものにおいてこのように一つのものであるために神的な神の摂理がある。そしてもし、一つのものでないなら、一つのものになるためにある。即ち、凡ての創造されたものの中に神的な神の愛からと神的な神の知恵から何か意義のあるものがあるためである。即ち、同じことであるが、凡ての創造されたものの中に善と真理があること、即ち善と真理の結合があるためである。
上(5番)に述べられたように善は愛の善であり、真理は知恵の真理である。それ故に、次の至る所において愛と知恵の代わりに善と真理が述べられる。また愛と知恵の結合の代わりに善と真理の結婚が述べられる。

1-8 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

1-8 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

8.神的な神の愛と神的な神の知恵は主の中で一つのものであり、また主から一つのものとして発出し、主御自身から創造された凡てのものにおいて、ある種の像の中にあることは先行する節から明らかである。
更に、このような事情の下に、善と真理の結婚と呼ばれるその同一性について、即ちその結合について、特に幾つかのことを述べよう。
〈1〉その結婚は主の御自身の中にある。
なぜなら、述べられたように、神的な神の愛と神的な神の知恵は主御自身の中で一つのものであるからである。
〈2〉(その結婚は)主からある。
なぜなら、主から発出する凡てのものの中に愛と知恵は完全に一つにされているからである。神的な神の愛は熱の如く、また神的な神の知恵は光りの如く、それら二つのものが霊太陽としての主から発出する。
〈3〉それらは天使達により無論、二つのものとして受容されるが、しかし主により彼らの許に一つのものに為され、教会の人間達の許に同様に為される。
〈4〉天界の天使達の許に、また教会の人間達の許に、一つのものとしての主からの愛と知恵の流入により、また天使達と人間達によるそれらの受容により、主は聖言の中で花婿、および夫と言われ、なお加えて天界と教会は花嫁、および妻と言われている。
〈5〉それ故に、全般的に天界と教会は、また個別的に天界の天使と教会の人間は、それらの結合の中にあるほど、即ち善と真理の結婚の中にあるほど、それだけ主の像と似姿である。それらの二つのものは主の中で一つのものであるので、無論、それらは主である。
〈6〉愛と知恵は全般的に天界の中で、また教会の中で、なお加えて天界の天使の中で、また教会の人間の中で、意志と理解なので一つのものである。従って善と真理が一つのものを作る時、一つのものになる。即ち、同じことであるが、仁愛と信仰が一つのものになる時、一つのものになる。或いは更に、同じことであるが、聖言からの教えとそれに従った生活が一つのものになる時、一つのものになる。
〈7〉しかし、どのようにしてそれらの二つのものが人間の中と、その凡てのものの中で一つのものとなるかは神的な神の愛と神的な神の知恵についての論文においての第五部の中で示された。そこに人間の創造について、また特に意志、および理解と心臓、および肺臓の相応について述べられた(358から432番まで)。

1-9 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

1-9 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

9. しかし、どのようにして人間の下のもの、即ち人間の外部のものである動物界の中で、同じく植物界の中で一つのものになるかは、この続きの中の至る所で述べられる。それらに下記の三つのものを前置きとして述べて置かなければならない。
第一は、主により創造された全世界の中に、またその全体的なものと個別的なものの中に善と真理の結婚があった。
第二は、その結婚は創造の後に人間の許に分離された。
第三は、分離されたものが一つのものになるように、またそのように善と真理の結婚が回復されるために神的な神の摂理がある。
これらの三つのものは神的な神の愛と神的な神の知恵についての論文において多くのもので説明された。それ故に、更にそれらを説明することは必要でない。
確かに、各々の者は理性により、もし凡ての創造されたものの中に創造から善と真理の結婚があったなら、またそれがその後、もし分離されたなら主はそれを回復されるために絶えず働かれることを認めることが出来よう。それ故に、その回復が、またそこから主と創造された全世界との結合が人間を通してあることが、神的な神の摂理である。

1-10 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

1-10 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

10. (5)愛の善は知恵の真理に結合された範囲より多く善ではない。また知恵の真理は愛の善に結合された範囲より多く真理ではない。
これを善と真理はその起源から獲得する。善はその起源において主の中にあり、真理も同様にある。なぜなら主は元来の神の善と元来の神の真理であるからである。またこれらの二つのものはそれ自身において一つのものである。
それ故、善は天界の天使達の許に、また地の人間達の許に、もし真理に結合された範囲でなければ本質的に善ではない。また真理は、もし善に結合された範囲でなければ本質的に真理ではない。
凡ての善と凡ての真理は主からあることは熟知されている。それ故、善は真理と一つのものとなるので、なお加えて真理は善と一つのものとなるので、善が本質的に善であるために、また真理が本質的に真理であるために、それらを受容するものである天界の天使と地の人間の中で一つのものにならなければならないことが帰結される。

1-11 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

1-11 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

11.〈1〉全世界の中の凡てのものは善と真理に関係することは、確かに熟知されている。なぜなら、善によって愛の凡てのものを一括して包含し、また含むことが意味され、また真理によって知恵の凡てのものを一括して包含し、また含むことが理解されているからである。しかし、それにもかかわらず、善は、もし真理に結合されなければ何か意義のあるものではないこと、また真理も、もし善に結合されなければ何か意義のあるものでないことは熟知されていない。
無論、善は真理なしに何か意義のあるものである如く見え、また真理も善なしに何か意義のあるものである如く見える。しかし、それでもなお何か意義のあるものではない。というのは、神的な神の愛と神的な神の知恵についての論文の中(14-16番)に示されたように、愛は(その凡てのものは諸々の善と呼ばれるが)物事の神的な存在であり、また知恵は(その凡てのものは諸々の真理と呼ばれるが)物事のその神的な存在からの神的な形であるからである。それ故に、神的な存在は神的な形なしには何か意義のあるものではなく、神的な形も神的な存在なしに何か意義のあるものではないように、善は真理なしに、なお加えて真理は善なしに何か意義のあるものではない。
同様に、何か意義のあるものに関係していない善とは何か?(はたして)善と言われることが出来るかどうか? というのは何も情愛のない(善は)、また何も理解のない(善は善と言われることが出来ない)からである。
〈2〉働きかけることと、自分自身に理解されることがもたらされることと、感じられることは善と一つのものであり、真理に関係する。なぜなら、理解の中にあるものに関係するからである。誰かに単なる善を言って、同時に、これ、或いはそれは善であると言わないなら善は何か意義のあるものであるかどうか?
これに対して、善と一つのものとして認められるこのもの、或いはそのものは何か意義のあるものである。この何か意義のあるものは理解の中を除いて他の所で善に結合されない。また凡ての理解は真理に関係する。
意志することの場合も同様である。意志することは、知ること、理解すること、および考えることなしに人間が何かを意志するのは何か意義のあることではない。しかしこれらと一緒に一つのものであるなら何か意義のあるものになる。凡ての意志することは愛の意志であり、また善に関係する。そして凡ての知ること、理解すること、および考えることは理解であり、また真理に関係する。それ故、単に意志することは何か意義のあるものではないが、しかしこれ、或いはそれを意志することは何か意義のあるものであることが明らかである。
〈3〉用は善であるので、凡ての用と同様である。用が、もしそれと一つのものである何らかのものへ向けられていなければ用ではない。従って何か意義のあるものでもない。用はそれ自身の何か意義のあるものを理解から獲得する。またそれは、そこから用に結合されるか、或いは結びつけられ真理に関係する。用はそれ自身の性質をそれにより獲得する。
〈4〉これらの僅かな言葉から善は真理なしに何か意義のあるものではなく、真理も善なしに何か意義のあるものでないことが知られれることが出来よう。
善は真理と一緒に、なお加えて真理は善と一緒にあることで何か意義のあるものであると言われる。それ故、間違った原理と一緒の悪は、また悪と一緒の間違った原理は何か意義のあるものでないことが帰結される。というのは、悪と間違った原理は善と真理に対立するものであるからである。そして対立するものは破壊する。この対立するものが何か意義のあるものを滅ぼす。しかし、この事柄については次の所で述べよう。

1-12 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

1-12 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

12. しかし、善と真理の結婚は原因の中に生じ、また善と真理の結婚は原因から結果の中に生じる。原因の中の善と真理の結婚は意志と理解の結婚である。即ち、愛と知恵の結婚である。人間が意志し、また考える凡てのものの中で、そしてそこから結論し、なお加えて意図することでその結婚がある。この結婚は結果へ入り、またその結婚を生じるが、しかし生じることで二つの区別されたものに見える。なぜなら、その時、同時に存在するものが連続(継続)的なものになるからである。
例えば、もし人間が食物を与えられること、着せられること、住むこと、仕事を為すこと、即ち働くこと、交際することを欲し、また考えるなら、その時、前もってそれを総合的な視野から欲し、また考える。即ち結論し、また意図する。それらを結果の中で決定(実行)した場合、その時、一つのものの後にもう一つのものが後に続く。しかしそれでもなお意志と思考の中で絶え間なく一つのものになる。用はそれらの結果の中で愛の用、即ち善の用である。用への手段は理解の用、即ち真理の用である。
これらの全般的なものは誰でも特定のものによって、何が愛の善に関係し、また何が知恵の真理に関係するか区別して認めるだけで確認することが出来る。また原因の中でどのようにして関係するか、また結果の中でどのようにして関係するか区別して認めるだけで確認出来る。

1-13 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

1-13 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

13. 愛が人間の生命を造ることが何度も言われた。しかし、知恵から分離された愛は意味されない。即ち原因の中の真理から分離された善は意味されない。なぜなら原因の中の真理から分離された愛、即ち善は何か意義のあるものではないからである。それ故に、主からある愛と知恵が一緒にある愛が人間の最も内部のものを作る。更に愛は人間が受容している範囲で人間の生命を作る。それは原因の中で知恵から分離されていないが、しかし結果の中では知恵から分離されるように見える(注:原因の中では知恵の形に依らなければ愛は存在出来ない。つまり目的、即ち意図は意図だけでは原因である手段になれないが、手段の中に意図が存在することで原因の中に意図が存在出来る。結果の中ではそれが分離されるように見える。12番参照)。というのは愛はそれ自身の性質(の形)なしに認識されることが出来ないからである。そしてその性質(の形)は知恵である。性質(の形)、即ち知恵は神の存在それ自身からを除いて生じられることは出来ない。神の存在それ自身は愛であり、それ故、神の存在それ自身は一つのものである。善と真理も同様である。
このような事情の下に、愛が知恵からある如く真理は善からあるので、それ故に、両方ともひとまめにされて愛、即ち善と呼ばれる。というのは愛はその知恵の形の中にあるからであり、また善はその真理の形の中にあるからである。凡ての性質は別の源泉からあるのではなく形からある。
このような事情の下に、これらから善はその真理に結合された範囲よりも少しも多い善ではない。また真理はその善に結合された範囲よりも少しも多い真理ではないことが知られることが出来よう。

1-14 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

1-14 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

14.(6)知恵の真理に結合されていない愛の善は本質的に善ではないが、しかし外観上の善である。また愛の善に結合されていない知恵の真理も本質的に真理ではないが、しかし外観上の真理である。
〈1〉真実は、もし本質的な善が、その真理に結合されているのでなければ何か意義のある善は存在しない。また本質的な真理も、その善に結合されているのでなければ何か意義のある真理は存在しないのである。しかもなお、真理から分離された善が存在し、また善から分離された真理が存在する。これは偽善者とおべっか使いの許に存在する。また誰であれ悪い者達のもとに、また自然的な善の中に居て、何も霊的な善の中に居ない者達の許に存在する。
上記の者達は、教会に、祖国に、社会に、同朋に、乏しい者達に、貧しい者達に、未亡人に、および孤児に善を為すことが出来る。そしてまた、真理を理解することが出来、その理解から考えることが出来、その思考から話すことと教えることが出来る。しかし、それにもかかわらず、彼らの諸々の善と諸々の真理は内なるものではない。従って彼らの許の善と真理は本質的に善と真理ではない。しかし外なる善と真理である。従って外観(見かけ)だけの善と真理である。というのは、自分自身とこの世のためだけのものであって、善自身と真理自身のためのものではないからである。従って善と真理からのものではないからである。それ故に、口先だけの、また身体だけのものであって、心からのものではない。
(2)かくして、金屑に被せられた金と銀に、また腐った木、或いは汚物に被せられた金と銀に例えられることが出来る。なお加えて、彼らから発言される真理は消散させられる呼吸の息に、或いは消え去る弱い光に例えられることが出来る。それでもなお、それらは外面的に本物の如く見える。しかし、彼らの許でそのように見えるが、それでもなお、このことを知らずに聞く者達と受ける者達の許に異なって聞かれ、また受け取られることが出来る。というのは、各々の者に外なるものが彼ら(各々の者)自身の内なるものに従って働きかけるからである。というのは真理は誰の口から発言されたものであっても他の者達の中に、その状態と性質に従って心によって受け取られるからである。
遺伝により自然的な善の中に居る者達、また何も霊的な善の中に居ない者達も、ほぼ同じ状況にある。というのは、凡ての善と凡ての真理の内なるものは霊的なものであるからであり、これは諸々の間違った原理と諸々の悪を追い散らすからである。これに対して、単に自然的なものはそれらに好意を持つ。なお加えて、諸々の悪と諸々の間違った原理に好意を持つことと、善を行うことは一致していない。

1-15 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

1-15 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

15. 善は真理から、なお加えて真理は善から分離されることが出来る。また分離された場合でも善と真理の如く見える。なぜなら、人間に自主性と呼ばれる行動することの能力と理性と呼ばれる理解することの能力があるからである。これらの能力の誤用から人間が内部のものの中でどれほどどんな種類の人間であっても外部のものにおいて異なって見えることが出来る。それ故に、悪い者も善を行うことと真理を話すことが出来る。即ち、悪魔も光りの天使を装うことが出来る。
しかし、これらの主題については神的な神の愛と神的な神の知恵についての論文の中に認められる。それらは次のものである。悪の起源は理性と自主性と呼ばれる人間に固有の能力の誤用によって起こる(264-270番)。それらの二つの能力は悪い者の許に善い者の許と同様にある(266番)。愛は知恵との結合なしに、即ち善は真理との結合なしに何か意義あることを行うことは出来ない(401番)。愛は、もし知恵、即ち理解との結合の中になければ何も行わない。また知恵、即ち理解が相互に結合されるように為す(410-412番)。知恵、即ち理解は愛からそれ自身に与えられた活力により上げられること、また天界からの光のものを理解すること、なお加えて受け入れることが出来る(413番)。愛は、もしそれ自身の配偶者の知恵をその段階において愛するなら同様に上げられること、また天界からの熱のものを受け入れることが出来る(414,415番)。そうでなければ、愛は知恵、即ち理解をそれ自身に一つのものとして働くように、その上げることから連れ戻す(416-418番)。愛は、もし知恵と一緒に上げられるなら理解の中で清められる(419-421番)。愛が理解の中で知恵により清められたなら霊的なもの、また天的なものになる。これに対して、愛が理解の中で汚されたなら感覚的なもの、世俗的なものになる(422-424番)。仁愛、および信仰と、そしてそれらの結合と、愛、および知恵と、そしてそれらの結合とは同様なものである(427-430番)。天界の中の仁愛は何か(431番)。

1-16 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

1-16 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

16. (7)主は何かが分割されたものであるということを許されない。それ故に、善と一緒に真理の中にあるか、悪と一緒に間違った原理の中にあらねばならない。
主の神的な神の摂理は特に目的として人間が善と一緒に真理の中に居るということを持っており、またそのために働く。というのは、そのようにその善とその愛があるためであり、また同じくその真理とその知恵があるためである。なぜならこれによって人間は人間であるからである。というのはその時、主の像であるからである。これに対して、人間がこの世の中に生きる限り善の中と間違った原理の中に一緒に居ることが出来るので、更に、悪の中と真理の中に一緒に居ることが出来るので、というよりはむしろ、悪の中と善の中に一緒に居ることが出来るので、このように二重のものの如く居ることが出来る。またこの分割はその主の像を破壊し、また同様に人間を破壊する。それ故に、主の神的な神の摂理はその人間の全体的なものと個別的なものの中に、この分割がないように注意する。また悪の中と間違った原理の中に一緒に居るということが、善の中と悪の中に一緒に居るようなことよりも人間に害が少ないので、それ故に、主はそれを許される。それを望まれておられる如く許されるのではなく、人間の救いの目的のために妨害することが出来ないものの如く許される。
人間は悪の中と一緒に真理の中に居ることが出来る。また主はそれを人間の救いの目的のために妨害することが出来ない、その理由は人間の理解は彼の愛と共に下に留まっていても知恵の光りの中へ上げられることが出来、また諸々の真理を認めること、或いはもしそれらを聞くなら承認することが出来るからである。というのは、そのように人間は理解によって天界の中に居ることが出来るが、しかし愛によって地獄の中に居ることが出来るからである。なお加えて、人間がこのように居ることを人間のために否定されない。なぜなら理性と自主性の二つの能力は取り去ることが出来ないからである。それらによって人間であり、また獣から区別される。またそれらによって全く再生されることと、そのように救済されることが出来る。なぜなら、それらによって人間は知恵に従って行動することと、同じく知恵の愛ではない愛に従って行動することが出来るからである。また上の知恵から下の愛を見ることが出来る。また同様に思考、意図、情愛、従って悪と間違った原理、更に生命の善と学ぶことの真理を自分自身に学んで認めることが出来る。自分自身の中にそれらの思考と承認がなければ改良されることは出来ない。
上に述べられたこれらの二つの能力について、次においてより多くのことが述べられるであろう。これが人間が善の中と一緒に真理の中に居ること、更に、悪の中と一緒に間違った原理の中に居ること、そしてまたそれらの代わるがわるの中に居ることが出来る理由である。

1-17 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

1-17 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

17. 人間はこの世において一つのものともう一つのものの連結、或いは結合へ、即ち善と真理の結合の中へ、或いは悪と間違った原理の結合の中へ殆んど行くことが出来ない。なぜなら、この世に生きる限り改心の、即ち再生の状態に保たれるからである。しかし、凡ての人間は死の後に善と真理の結合、或いは悪と間違った原理の結合の中へ行く。なぜなら、その時、もはや改心されることと再生されることが出来ないからである。その時、どっちの結合へ行くかは、彼にこの世の生命がどのようなものであったか、即ち彼に支配愛がどのようなものであったかによる。それ故に、もし悪の愛の生命が彼にあったなら、この世において教師から、説教から、或いは聖言から彼自身に取得した凡ての真理は取り除かれる。それが取り除かれることによりスポンジが水を吸収するように、自分の悪に一致する間違った原理(信念)を吸収する。しかし、またもし反対に彼に善の愛の生命があったなら、この世において聞くことによって、読むことによって彼自身に受け取りはしたが、しかし自分自身に確信しなかった凡ての間違った原理(信念)は取り除かれる。そしてそれに代わって彼の善と一致している真理が与えられる。
今述べたばかりのことは下記の主の言葉によって意味される。
「彼からタレントを取り上げよ..、そして10タレント持っている者に与えよ。というのは凡ての持っている者に満ち溢れるように与えられるからである。しかし、持たない者からは、また更に取り去られる。」(マタイ25.28,29;13.12; マルコ4.25; 8.18;19.24-26)

1-18 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

1-18 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

18. 各々の者は死の後に善と一緒に真理の中に居るか、悪と一緒に間違った原理(信念)の中に居る。なぜなら善と悪は結合出来ないからである。また善と一緒に悪の間違った原理(信念)に居ることも出来ないし、また悪と一緒に善の真理に居ることも出来ないからである。というのは、それらは対立しているからである。なお加えて、対立しているものは相互に一つのものがもう一つのものを滅ぼすために絶えず戦う。
悪と一緒に善の中に居る者達は黙示禄の中のラオディキアの教会への主の下記の言葉によって意味される。
 「私はあなたの行いを知った。それは冷たいものではない、熱いものでもない。冷たいものであったか、或いは熱いものであってくれたらよかった。しかし、あなたは生ぬるく、そして冷たくなく、熱くもないので私の口からあなたを吐き出すことであろう。」(3.15,16)。更に、主の下記の言葉によって意味される。
 「誰も二人の主人に仕えることは出来ない。なぜなら、一人に憎しみを持ち、また一方を愛するからである。即ち一人に結びつき、また一方を軽んずるからである(マタイ6.24)。

1-19 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

1-19 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

19.(8)創造されたものが善と一緒に真理の中にあれば何か意義あるものであり、また悪と一緒に間違った原理(信念)の中にあれば何も意義あるものではない。
〈1〉創造されたものが善と一緒に真理の中にあれば何か意義あるものであることは上に認められる(11番)。それ故、悪と一緒に間違った原理(信念)の中にあることは何か意義のあるものではないことが帰結される。何か意義あるものが存在しないことによって、それらの活力が何もないことと霊的な生命が何もないことが意味される。
悪と一緒に間違った原理(信念)の中に居る者達は皆地獄の中に居る。無論、彼ら自身の間で活力がある。なぜならば、悪い者は悪を為すことが出来、そしてまた千の方法でも悪を為すことが出来るからである。それにもかかわらず、もし悪意によって以外なら悪い者達に悪を為すことが出来ない。しかし、善い者達に少しも悪を為すことが出来ない。そしてもし、善い者達に悪を為すなら、そのことは時々行われるが、それは善い者達自身の悪との結合によってある。
〈2〉このことから諸々の試練がある。それらは自分自身の許の諸々の悪からの攻撃である。またそれ故、諸々の戦いがある。それらによって善い者達は自分自身の諸々の悪から解放されることが出来る。
悪い者達に活力は何もないので、それ故に、凡ての地獄は主の前で無のようにあるだけでなく、活力に関しても全く無力である。このようにあることは私が見た多くの観察によって確認された。しかし、凡ての悪い者達は自分自身を力強い者達であると信じ、また凡ての善い者達は自分自身を力強くない者達であると信じていることは驚くべきである。その理由は、悪い者達は凡てのものを自分の活力に、それ故にまた、だますことに、また悪意に帰して、同時に主に何も帰さないからである。これに対して善い者達は自分の思慮に何も帰さないで、凡てのものを主に帰す。その方は全能者である。
悪と一緒の間違った原理(信念)は何か意義のあるものではない。なぜならそれらに霊的な生命は何もないのと同じであるからである。その理由は地獄の生命は生命とは言われないからである。しかし死の生命と言われる。それ故に、凡てのものは何か意義のあるものである場合は生命にある。何か意義のあるものが存在することが出来ない場合は死にある(注:厳密な意味での善い者とは意志と理解が善で真理である者であるが、そのような方は主お一人だけである。一般の人間はこの世に生きる限り意志が悪ではあっても真理の理解の中に居ることが出来、その真理に導かれて善に向かって進むことが出来る。このように善に向かって進む者も善い者であると言える。)。

1-20 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

1-20 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

20. 悪と一緒に真理の中に居る者達は、高い所を飛ぶが、もし翼が取り去られたなら落ちる鷲にたとえられることが出来る。というのは、自分自身の生活(人生)において全く神へ目を向けなかったが、真理を理解し、それらを話し、またそれらを教えた人間達が死の後に霊達と為された時、彼らに同様のことが起こるからである。彼らはその理解(知性)によって自分自身を高い所へ上げ、また時々諸天界へ入り、そして光りの天使を装った。しかし、彼らから真理が取り去られ、また真理が出されるとそれによって地獄へ落ちる。
また鷲は理解に知的な視力がある強奪する人間達を意味し、そして翼は霊的な真理を意味する。彼らは自分の生活(人生)において全く神を見上げることがなかったことが言われた。生活(人生)において神を見上げることによって、この、或いはその悪は神に対する罪であることを考えること、またそれ故にその悪を為さないことを除いて他のことは意味されない。

1-21 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

1-21 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

21. 主の神的な神の摂理は悪と一緒の間違った原理(信念)を均衡のために、比較のために、浄化のために、またそれ故に、他の者の許の善と真理の結合のために仕えるように為す。
前に述べたことから主の神的な神の摂理が人間の許に真理を善に、また善を真理に結合されるために絶えず働きかけることは、その結合が教会であり、また天界であることの理由から知られることが出来よう。というのは、その結合は主の中にあり、また主から発する凡てのものの中にあるからである。その結合から天界、そしてまた教会も結婚と言われる。それ故に、聖言において神の王国は結婚にたとえられる。その結合から安息日はイスラエル教会において礼拝の最も神聖なものであった。なぜなら、安息日はその善と真理の結合を意味したからである。それ故、聖言の中のその全体的なものと個別的なものの中に善と真理の結婚が更にある。(それについては聖書についての新しいエルサレムの教義80-90番に認められる)。
善と真理の結婚は主の教会との結婚からあり、またこれは主の中の神の愛と神の知恵の結婚からある。というのは、善は愛の善であり、また真理は知恵の真理であるからである。これらから、人間の許に善を真理に、なお加えて真理を善に結合させることの神的な神の摂理の永続する目的があることが認められることが出来よう。というのは、このようにして人間は主に結合されるからである。

1-22 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

1-22 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。
 
22. しかし、多くの者は特に仁愛から信仰の分離によって、この結婚を破壊したので、また破壊しているので、なぜなら信仰は真理の信仰であり、そして真理は信仰の真理であるからである。なお加えて仁愛は善の仁愛であり、また善は仁愛の善であるからである。かくてこの結婚の破壊によって自分自身の許に悪と間違った原理(信念)を結合する。そしてそのように反対のものに為されたのであり、また為されるのである。しかし、それでもなおこれらのものは均衡によって、比較によって、また浄化によって他の者達の許の善と真理の結合のために仕えるために主から備えられている。

1-23 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

1-23 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

23. 主により他の者達(注:善と真理の結婚を破壊していない者達、即ち悪と間違った原理の結合が為されていない者達、即ち地獄に居ない者達。)の許に善と真理の結合が天界と地獄の間の均衡によって備えられている。というのは、地獄から絶えず悪と一緒に間違った原理(信念)が吐き出されているが、しかし天界から善と一緒に真理が発散されているからである。
この均衡の中に凡ての人間はこの世に生きる限り保たれる。またそれによって考えることの、欲することの、話すことの、および行うことの自由の中に居る。この自由の中で改良されることが出来る。(この霊的な均衡については天界と地獄についての著作の中に認められる。589-596番、また597-603番。そのことから人間に自由がある。)。

1-24 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

1-24 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

24. 主により、善と真理の結合が比較(Relationem)によって備えられている。というのは善とはどのようなものであるかは、もしそれほど善ではない善への比較によってでなければ、また悪に対しての対立によってでなければ認められないからである。凡ての知覚と感覚は比較からある。それらの善と悪がどのようなものであるかの知覚と感覚は比較からある。なぜなら、凡ての愉快なものはそれほど愉快でないものから認められ、また不愉快なものによって認められるからである。凡ての美しいものはそれほど美しくないものから、また醜いものによって、同様に、凡ての愛の善はそれほど善ではない善から、また悪によって、そして凡ての知恵の真理はそれほど真理ではない真理から、また間違った原理(信念)によって認められるからである。
凡ての物事のその最大のものからその最小のものまでの中に種々のもの(善と悪、美と醜、真理と間違った原理)があり、なお加えて均衡が間にあって、その時、段階に従って両方(善と悪)が関連するものになる。そして、物事の知覚と感覚は増すか、減らされる。しかし、対立するものは知覚と感覚を取り除き、そしてまた高めることが知られるべきである。それ自身(善と悪)を混ぜる時、取り除き、またそれ自身(善と悪)を混ぜない時、高める。この事のために主は天界と地獄を分けられる如く人間の許に正確に善と悪を分けられる。

1-25 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

1-25 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

25.他の者達(注:善と真理の結婚を破壊していない者達、即ち悪と間違った原理の結合が為されていない者達、即ち地獄に居ない者達。)の許に神的な浄化による善と真理の結合が主により備えられている。それらは二つの方法で為される。一つは試練によって、もう一つは醗酵によって為される。
霊的な試練は地獄から吐き出され、同時に影響を及ぼす悪と間違った原理(信念)に逆らった戦いを除いて別のものではない。それらの試練によって人間は悪と間違った原理(信念)から清められ、そして彼らの許に善は真理に、なお加えて真理は善に結合される。
霊的な醗酵は地上におけると同様に天界においても多くの方法で為されるが、しかしこの世においてはそれが何か、またどのようにして為されるか知られていない。というのは社会に入れられた悪と一緒の間違った原理が、小麦粉と葡萄液に入れられた酵母の如く同様に為すからである。それによって異質なものが分離され、また同質のものが結合され、同時に純粋で傑出したものになる。それらは下記の主の言葉によって意味される。
「諸天界の王国は女が三サトンの小麦粉の中に隠し全体が醗酵させられるまでのパン種に似ている。」(マタイ13-33、ルカ13-21)。

1-26 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

1-26 神的な神の摂理は主の神的な神の愛と神的な神の知恵の支配(統治)である。

26. これらの用は主により地獄に居る者達の許にある悪と間違った原理の結合によって備えられている。なぜなら、主の王国は諸々の用の王国であって天界を支配しているだけでなく、更に地獄をも支配しており、なお加えて主の神の摂理は、そこに、その者から、また、その物によって用を為さない誰かが、或いは何かが存在しないためにある。

2-27 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。

2-27 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。
 
27.(1)天界は始めから天使として創造された或る天使達からあるのではなく、また地獄は天使として創造された光りの天使が天界から投げ落とされた或る悪魔からあるのではない。しかし、とはいえ天界と地獄は人類からある。天界は善の愛の中、およびそこからの真理の理解の中に居る者達からあり、また地獄は悪の愛の中、およびそこからの間違った原理の理解の中に居る者達からある。これらのことは天使達と霊達との長い交流によって私によく知られた明白な事実である。この主題については、更に天界と地獄についての著作の中(311-316番)に示されており、その上、最後の審判についての出版物の中(14-27番)にも示されている。また続最後の審判と霊的な世界についての著作の中の始めから終わりまでに示されている。
(2)このような事情の下に、天界は人類からあるので、また天界は永遠に主と一緒に住むことであるので、天界は主にとって創造の目的であったことが帰結される。また創造の目的であったので、それは主御自身の神的な神の摂理の目的であった。
主は全世界を主御自身のために創造されたのではなく、人類のために、人類と一緒に天界の中に居るために創造された。というのは、霊的な愛は自分自身のものを他の者に与えることを欲するようなものであるからである。そして、主があなたにそれを与えることが出来る範囲であなたはその神の存在の中に、その平安の中に、またその幸福の中に居る。
霊的な愛はこれを主の神的な神の愛から得る。神的な神の愛は無限に自分自身のものを他の者に与えるようなものである。
それ故に、神的な神の愛は、またそこからの神的な神の摂理は天界を目的として持ち、天界は天使達に成った人間達から成り立っている。また天使達に成る者達に愛と知恵の凡ての至福と幸福を与えることが出来る。また至福と幸福を彼らの中の主御自身の御自身のものから与えることが出来る。
主は上記のことと異なっては出来ない。なぜなら人類の中に創造から主御自身の像と似姿があるからである。彼らの中の像は知恵であり、彼らの中の似姿は愛である。なお加えて、主は彼らの中で知恵に結合された愛であり、また愛に結合された知恵である。即ち、同じことであるが、真理に結合された善であり、善に結合された真理である。それらの結合については先行する章で述べられたのである。
(3)しかし、天界が全般的に、即ち多くの者(共同体)においてどのようなものかが知られていないので、また天界が個人的に、即ちある一人の者においてどのようなものか(知られていないので)、更に、霊的な世界の中で天界がどのようなものか、また自然的な世界の中で天界がどのようなものか(知られていないので)、しかしまたこのことは神的な神の摂理の目的であるので、知ることが大切である。このことを私は下記の順序で若干の光りの中に示すことを欲する。
〈1〉天界は主との結合である。
〈2〉人間は創造から主により近く、またより親密に結合されることが出来るようなものである。
〈3〉人間は主に親密に結合されるほど、益々賢明になる。
〈4〉人間は主に親密に結合されるほど、益々幸福になる。
〈5〉人間は主に親密に結合されるほど、益々自分自身のものが自分自身のものとしてあることを自分自身に明確に見る。なお加えてそれが主のものであることを明らかに認める。

2-28 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。

2-28 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。
 
28.〈1〉天界は主との結合である。
[1]天界は天使達から天界があるのではなく、主からある。
なぜなら、天使達は愛と知恵の中に居り、それらが天界を作り、それらは彼らからあるのではなく、主からあるからである。無論、彼らの中の主からあるからである。
また、愛と知恵は主のものであるので、そして主はそこに居られるので、なお加えて、愛と知恵は彼らの生命を作るので、彼らの生命は主のものであることが明らかである。それどころかむしろ主である。
主から生きることは天使達自身が認めている。
それ故、天界は主との結合であることが知られることが出来よう。
しかし、主との様々な結合が存在するので、またそれ故、一つの天界以外にもう一つの同じ天界はない。更に、天界は主との結合に従ってあることが帰結される。
より近い、またより親密な結合があり、更により遠い、またより離れた結合があることは次の節において認められよう(注:同じような言葉が繰り返される時は、一つは意志に、もう一つは理解について述べている。)。
[2]ここに、その結合についてどのようにして為されるのか、またどのようなものなのか多少のことを述べよう。
主の天使達との結合があり、また天使達の主との結合があり、従って相互の結合がある。
主は天使達の生命の愛の中へ流入され、また天使達は知恵の中に主を受け入れる。そしてこれによって相互に自分自身を主に結合する。
しかし、天使達に自分自身がみずから知恵によって主に結合する如く見えるが、しかしそれでもなお主が知恵によって彼らを主御自身に結合されることが正しく知られるべきである。なぜなら彼らの知恵は全く主からあるからである。
たとえ主は御自身を善によって天使達に結合すること、また天使達は真理によって自分自身を相互に主に結合することが言われても、同様のことである。なぜなら、凡ての善は愛の善であり、また凡ての真理は知恵の真理であるからである。
[3]しかし、この相互の結合は秘義であるので、もし説明されなければ少数の者達が理解することが出来るだけなので。私は今までに理解されたものを比較することによって為されることが出来る限り説明することを欲する。
愛はどのようにしてそれ自身を知恵に結合するかが、神的な神の愛と神的な神の知恵についての論文の中(404,405番)で示されたのである。即ち、知ることの情愛によって、真理への情愛があり、また理解することの情愛によって、真理の理解があり、また知られ、理解されることを認めることの情愛によって思考があることが示されたのである。
主はそれらの凡ての情愛の中へ流入する。というのはそれらの派生物は各々の者の生命の愛からあるからである。また天使達は真理の理解の中に、また思考の中にその流入を受け入れるように見える。というのは、彼らに流入はこれらの中に現われるからであって、情愛の中ではないからである。
[4]このような事情の下に、理解と思考は天使達に彼らのものである如く見えるので、それにもかかわらず、その時、主からある情愛によりあるので、それ故に、それは外観である。天使達は自分自身を相互に主に結合すること、それにもかかわらず、その時、主は彼らを主御自身に結合される。なぜなら情愛自身がそれの理解と思考を作り出すからである。というのは、情愛は愛の情愛であってそれらの霊魂であるからである。というのは、誰も情愛なしに何か意義のあるものを理解することも考えることも出来ないからである。そして各々の者は情愛に従って理解し、また考える。
これらのことから天使達の主との相互の結合は天使達からあるのではないが、しかし天使達からある如く見えることが明らかである。
更に、このような結合が主と教会の間にあり、また教会と主の間にある。それらは天的な結婚、また霊的な結婚と呼ばれる。

2-29 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。

2-29 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。
 
29.[1]霊的な世界の中の凡ての結合は精神的な熟視によって行われる。
誰かが他の者について彼と話したいという情愛から考える時、そこに他の者は即座に現存する。そして一人はもう一人の者を顔と顔を合わせて見る。同様に、誰かが他の者について愛の情愛から考える時に為される。しかし、この愛の情愛によって結合が行われるが、もう一つの話したいという情愛によっては現存だけが生ずる。
これは霊的な世界における独特のことである。その理由は、そこでは凡てのものが霊的であるからである。自然的な世界においては異なっており、そこにおいては凡てのものは物質的である。
自然的な世界において人間達の許に彼らの霊の情愛と思考の中で同様に生じる。しかし、自然的な世界においては空間があるので、これに対して霊的な世界においては空間の外観のみがあるので、それ故に、霊的な世界においては各々の霊の思考の中で生じることが実際に起こる(注:霊的な世界では欲して考えることは実行することである)。
[2]これらのことは主の天使達との結合が、なお加えて、天使達の主との相互の結合の外観がどのようにして為されるかが知られるために述べられたのである。というのは、凡ての天使達は顔を主に向けるからである。そして主は彼らを額によって見、なお加えて、天使達は主を目によって見る。その理由は額は愛とその情愛に相応し、また目は知恵とその理解に相応するからである。しかしそれでもなお、天使達は自分自身により顔を主に向けないが、主が彼らを主御自身に向けられる。かくして彼らの生命の愛の中への流入によって向ける。またそれによって理解と思考の中へ入る。そしてそのように、彼らを御自身へ向ける。
[3]このような愛の循環が思考へ、また思考から愛により愛までも人間の心の凡てのものの中にある。この循環は生命の循環と呼ばれることが出来る。
更に、これらについて神的な神の愛と神的な神の知恵についての論文の中に多少のものが認められる。例えば、天使達は自分自身の顔を常に霊太陽としての主に向ける(129-134番)。天使達の内部の凡てのものは心も身体も霊太陽としての主に、等しく向けられている(135-139番)。各々の霊は、誰であろうと差別なく自分自身を支配する愛へ自分自身を等しく向ける(140-145番)。愛はそれ自身を知恵に結合し、なお加えて知恵が相互に結合されるように為す(410-412番)。天使達は主の中に居り、また主は天使達の中に居られる。そして天使達は受け入れるものであるので、主御一人だけが天界であられる(113-118番)。

2-30 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。

2-30 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。
 
30.自然界の中の主の天界は教会と呼ばれ、またこの天界の天使は教会の人間である。その者は主に結合しており、更にこの者はこの世から死去の後に霊的な天界の天使となる。このことから天使的な天界について述べられたことは、同様に教会と呼ばれる人間の天界についても理解されるべきであることが明らかである。
主との相互のその結合は、人間の許に天界を生じることは、ヨハネにおいて主の下記の言葉により示されたのである。
「私の中にあなた方は留まれ、私もまたあなた方の中に、....その者が私の中に留まり、また私も彼の中に、この者は多くの実を生ずる。なぜなら私なしには何も行うことの能力がないからである。」(15.4,5,7)

2-31 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。

2-31 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。
 
31.これらのことから主は天界であり、そこで凡ての者の許に全般的に居られるだけでなく、更にそこで個別的に各々の者の許に居られることが知られることが出来よう。
というのは、各々の天使は最小の形における天界であるからである。天使達が居る数ほど多くの天界から全般的な天界がある。このようにあることは天界と地獄の著作の中(51-58番)に認められる。
このようにあるので、主は天界の中で天使達の間に居られる。即ち自分自身の王国の中で王の如く天使達の許に居られるという多くの者の許に最初の思考の中へ落ち込む、その間違ったものを誰も心に抱かないように願う。主は外観に関する限り天界の霊太陽の中で彼らの上に居られるが、しかし、天使達の愛と知恵の生命に関する限り彼らの中に居られるからである。

2-32 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。

2-32 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。
 
32.〈2〉人間は創造から主により近く、またより親密に結合されることが出来るというようなものである。
[1]このことは神的な神の愛と神的な神の知恵についての論文の中の段階についての第三部において示されたのである。特にそこの以下のものから、創造から人間の中に分離した、即ち高さの三つの段階がある(230-235番)。それらの三つの段階は各々の人間の中に出生からある。そして開けられるほど人間は主の中に居り、また主は彼の中に居られる(236-241番)。そして段階と共に、またそれらの段階に従って各々の完全性は増し、また昇る(199-204番)。これらから、人間は創造から段階を通して主により近く、またより親密に結合されることが出来るというようなものであることが明らかである。
[2]しかし、段階が何か、また分離した、即ち高さの段階と連続した、即ち広さの段階の二様の種類があること、またそれらの相違があること、更に、各々の人間に創造から、またそれ故、出生から分離した、即ち高さの三つの段階があること、また人間は生れる時、自然的なと呼ばれる最初の段階の中へ行くこと、またこの段階を自分自身の許に継続して増やすことが出来、その時、理性のある者に為されること、また、もし神的な諸々の真理である霊的な秩序の法則に従って生きるなら霊的なと呼ばれるもう一つの段階の中へ行くこと、また更に、もし神的な諸々の善である天的な秩序の法則に従って生きるなら天的なと呼ばれる第三の段階の中へ行くことが出来ることが完全に知られるべきである。
[3]これらの段階は実際に、この世において人間の許に主により彼の生命に従って開かれる。しかし、この世からの彼の死去の後を除いて知覚出来るように、また感覚で捉えられるようにならない。そして開かれ、またその後、完全にされるほど人間は主により近く、またより親密に結合される。この結合は近付くことによって絶えず増やされることが出来、そしてまた、天使達の許に永遠に増やされる。しかし、それでもなお、天使は主の神の愛と神の知恵の最初の段階へ達すること、即ち触れることは出来ない。なぜなら主は無限であり、また天使は有限であるからである。なお加えて無限のものと有限のものの関係(割合)は何もないからである。
もし、それらの段階を知るのでなければ誰も人間の状態を、また彼の主へ上げられることと近付くことの状態を認識することが出来ないので、それ故に、それらについて神的な神の愛と神的な神の知恵についての論文の中(173-281番)に詳細に述べられたのである。それらを見られよ。

2-33 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。

2-33 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。
 
33. 人間はどのようにして主により近く結合されることが出来るのか、更にまたその結合はどのようにしてより近く、またより親密に現われるのかが簡潔に述べられなければならない。
[1]人間はどのようにして主により近く、またより親密に結合されるのか。
このことは知識のみによって為されないし、知性のみによっても為されない。無論、知恵のみによっても為されない。しかし、それらに結合された生命(生活、人生)によって為される。
人間の生命は彼の愛であり、また愛は多種多様である。
全般的に悪の愛と善の愛がある。悪の愛は、姦淫することの、復讐することの、騙すことの、そしることの、他の者達から彼ら自身の財産を奪うことの愛である。悪の愛はそれらが考えられ、また行われる中で愉快なものと楽しいものを感じる。
諸々の派生物はこの愛の情愛であり、諸々の悪をそれ自身の中へ向けたのと同数のものがある。なお加えて、この愛の理解と思考は間違った信念と同数のものがある。それらはそれらの悪に一致し、またそれらを確信する。
これらの間違った信念は理解が意志と一つのものを為す如く悪と一つのものを為す。一つのものはもう一つのものなので、それ自身から相互に分離されない。
[2]このような事情の下に、主は各々の者の生命の愛へ流入されるので、またその情愛を通して認識と思考へ流入されるので、また上に述べられたように逆ではないので、言わば、悪の愛が強い欲望であるその諸々の情愛と一緒に取り除かれる以外に主御自身とより親密に結合することが出来ないことが帰結される。
そして、この強い欲望は自然的な人間の中に定住するので、また人間は何でも自然的な人間から行動し、自分自身から行動する如く感じるので、それ故に、人間はそれらの悪の愛の強い欲望を自分自身からの如く取り除くことをしなければならない。その時、それらを取り除くほど、主はそれだけより親密に近付き、また主御自身を彼に結合される。
各々の者は理性によって強い欲望は、それらの愉快なものと一緒に主に対して扉をふさぎ、また閉ざすことを、また人間自身が扉を閉ざして支配する限り、また外部から開かれないように押して、強いる限り主により追い払うことが出来ないことを認めることが出来よう。
人間自身が開けることをしなくてはならないことは、黙示禄の中の主の言葉から明らかである。
「見よ、私は扉に向かって立っており、そして叩く。もし誰かが私の声を聞いて、同時に扉を開けたなら、私は彼に入り、そして彼と一緒に、また彼は私と一緒に食事をする。」(3.20)
[3]それ故、誰かが諸々の悪を悪魔の如く、また主が入ることの障害物の如く斥けるほど、より近く、またより親密に主に結合され、そしてそれらを多くの黒ずんだ、また燃えている悪魔の如く忌み嫌う者は最も近く結合されることが明らかである。なぜなら、悪と悪魔は一つのものであり、なお加えて間違った原理(信念)とサタンも一つのものであるからである。主の流入は善の愛の中へ、またその情愛の中へ、またそれらを通して諸々の真理が認識と思考の中へ入るので、それらの凡てのものをその中に人間が居る善から獲得する。このように、地獄のものである悪魔の流入も、悪の愛の中へ、また強い欲望であるその情愛の中へ、またそれらを通して諸々の間違った原理(信念)が認識と思考の中へ入るので、それらの凡てのものをその中に人間が居る悪から獲得する。
[4]どのようにしてその結合がより親密に出現するかは、
自然的な人間の中の諸々の悪がそれらの追放と反感によって取り除かれてあればあるほど、益々より親密に主に結合される。また愛と知恵は主の御自身であり、空間の中にはないので、というのは、愛の情愛と知恵の思考は空間と一緒に持つ共有のものは何もないからである。それ故に、主は愛と知恵を通した結合に従ってより親密に現われる。また反対に愛と知恵の拒絶に従ってより遠くに現われる。
空間は霊的な世界の中に存在しないが、しかしそこに諸々の情愛の似ていることと似ていないことに従って距離と現存の外観がある。なぜなら、以前に述べられたように、諸々の情愛は愛の情愛であり、また諸々の思考は知恵の思考であり、またそれらは本質的に霊的なものであって空間の中にはないからである。これらの事柄については神的な神の愛と神的な神の知恵についての論文の中(7-10番と69-72番と他の所)に示されたのである。
[5]諸々の悪が取り除かれた者の、主の人間との結合は、下記の主の言葉によって意味される。
「心のきれいな者は神を見る。」(マタイ5.8)また、下記の言葉によって、
「私の諸々の戒めを保ち、またそれらを行う者は、彼の許に私の住居を作ろう。」(ヨハネ14.21,23)。諸々の戒めを保つことは知ることであり、また諸々の戒めを行うことは愛することである。なぜなら、更にそこに述べられているからである。「私の諸々の戒めを行う者は、彼は私を愛する者である。」

2-34 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。

2-34 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。
 
34. 人間は主に親密に結合されるほど、益々賢明になる。
[1]人間の許に創造から、またそれ故、出生から生命の三つの段階があるので、(そのことについては直ぐ上の32番に)彼の許に特に知恵の三つの段階がある。
これらの段階は結合に従って人間の許に開かれ、愛に従って開かれる。なぜなら愛は結合それ自身であるからである。
しかし、段階に従って愛の上がることは人間により認められない。それ故、不明瞭にしか認められない。これに対して、知恵が何かを知り、認める者の許に知恵の上がることは明瞭に認められる。
知恵の段階が認められる理由は、愛は諸々の情愛によって諸々の認識と諸々の思考の中へ入るからである。そしてそれらの認識と思考はそれ自身を心の内部の視覚に見える形で示すからである。それは身体の外部の視覚に相応するので、それ故、知恵は見え、またそれを生み出す愛の情愛はそのように見えないのである。これはあたかも人間により実際に為される凡てのものと同様である。身体がどのようにしてそれらを遂行するかは認められるが、しかし霊魂がどのようにしてそれらを遂行するかは認められない。
従って、人間がどのようにして意図し、認め、および考えるかは認められるが、しかしそれらのものの霊魂である善と真理の情愛がどのようにしてそれらを生み出すかは認められない。
[2]しかし、自然的な、霊的な、天的な三つの知恵の段階がある。
人間はこの世の中に生きる限り自然的な知恵の段階の中に居る。
この段階は彼の許に、やがてその最高にまで完成されることが出来る。またそれでもなお霊的な段階に入ることは出来ない。なぜならこの段階は連続によって自然的な段階に続けられていないからである。しかし相応によってそれに結合されている。
人間は霊的な知恵の段階の中に死の後に居る。また、この段階も更に最高に完成することが出来るというようなものである。しかしそれでもなお、天的な知恵の段階へ入ることは出来ない。なぜならこの段階も霊的な段階に連続によって続けられていないからである。しかし相応によって結合されている。
これらから、知恵は三重にされた理性の中に上げられることが出来ること、また各々の段階の中の単一な理性の中でその最高度までも完成されることが出来ることが知られることが出来よう。
[3]これらの段階の上がることと、完全性を理解する者は、天使的な知恵について言語に絶するものであると言われることを多少認めることが出来る。
これもまた天使達のその知恵からの千の思考の考えは人間達のその知恵からの一つの思考の考えを除いて示すことが出来ないほど名状しがたいものである。天使達の思考の考えのそれらの九百九十九は入ることが出来ない。というのは超自然的なものであるからである。このようにあることは生きた観察によってたびたび知ることを与えられた。
しかし、以前に言われたように、主との結合による以外、またその結合に従う以外、誰も天使達の名状しがたいその知恵の中へ行くことが出来ない。なぜなら、主だけが主御自身から賢明である僅かな者の許に霊的な段階、および天的な段階を開かれるからである。そして主から賢明である者は悪魔、即ち悪を自分自身から投げ捨てる者である。

2-35 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。

2-35 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。
 
35. しかし、もし知恵が愛に結合されていなければ、誰も多くのことを知っていること、またある種の光の中にそれらを理解すること、またそれらを聡明に話すことが出来ることで誰かに知恵があると信じてはならない。というのは、愛がそれ自身の諸々の情愛によってその知恵を作り出すからである。もし知恵が愛に結合されていなければ、大気中の流星の如く消え、また崩壊している星の如く消える。これに対して愛に結合された知恵は太陽の光が存続している如く、また恒星の如くにある。
知恵の愛は悪と間違った原理(信念)の強い欲望である悪魔の集団を離れる範囲で人間にある。

2-36 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。

2-36 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。

36. 知恵は認識に現われ、その知恵の真理への情愛から真理の認識があり、特に霊的な真理の認識がある。なぜなら、社会的な真理、道徳的な真理、および霊的な真理があるからである。
その知恵の真理への情愛から霊的な真理の認識の中に居る者達は、更に道徳的な、および社会的な真理の認識の中にも居る。なぜなら、霊的な真理への情愛はそれらの霊魂であるからである。
私は天使達と知恵について時々話したのである。天使達は主は元来の神の知恵であるので知恵は主との結合であると言った。また自分自身から地獄をはねつけた者は、それらの結合の中へ行くこと、なお加えて地獄をはねつけるほど、それらの結合の中へ行くと言った。
彼らは相互に知恵を豪華で最も飾られた宮殿の中へ十二の段階によって昇らされる如きものに提示して、そして、もし主御自身との結合を通して主によらなければ誰も最初の段階へ行かないこと、また各々の者は主との結合に従って上がること、また上がるに応じて理解すること、誰も自分自身から賢明でないが、しかし主から賢明であることを言った。更にその賢明であることは、賢明でないことと比べて大きな湖に比べた若干のしずくの如くであると言った。
知恵の宮殿への十二の段階によって真理に結合された諸々の善と善に結合された諸々の真理が意味される。

2-37 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。

2-37 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。
 
37.〈4〉人間は主に親密に結合されるほど、益々幸福になる。
上(32と34番)に主との結合に従った真理と知恵の段階について述べられたことと同様に、更に幸福の段階についても言われることが出来る。というのは、諸々の幸福、即ち諸々の至福と諸々の楽しみは人間の許に霊的なもの、および天的なものと呼ばれる心の更に上の段階が開かれる如く上昇するからである。そしてそれらの幸福の段階はこの世の中の彼の生命の後に永遠に増す。

2-38 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。

2-38 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。
 
38. [1]悪への強い諸々の欲望の楽しみの中に居る人間は、誰も善への諸々の情愛の楽しみについて何も知ることが出来ない。それらの中に天使的な天界がある。なぜなら、それらの楽しみは内部のものの中で全く反対の状況にあるからである。またそれ故、外部のものの中の内部のもので反対であるが、しかし表面的には殆んど異ならない。
というのは、凡ての愛はそれ自身の諸々の楽しみを持つからである。そしてその通りに悪への愛が強い諸々の欲望の中に居る者達の許にある。例えば、姦淫を犯すことの、復讐することの、だますことの、盗むことの、残酷に振る舞うことの、それどころかむしろ、最も悪い者の許に教会の神聖なものをそしることの、なお加えて神に逆らって毒気を含んだ愚痴を言うことの愛がある。
それらの諸々の楽しみの源泉は自己愛からの支配愛である。
それらの諸々の楽しみは心のより内部に住む強い諸々の欲望からある。それらから身体の中に流れ下り、またそこで諸々の繊維をくすぐり汚れたものを刺激する。それ故、心の楽しみから強い諸々の欲望に従って身体の愉快が発する。
[2]彼らの身体の諸々の繊維を刺激する汚れたものが一体どんなものか、またどのような種類のものであるかは死の後に霊的な世界において誰でも知ることがもたらされる。それらは一般的に屍のようなもの、排泄物のようなもの、糞便のようなもの、強烈な匂いのするもの、および尿で一杯のものである。というのは、彼らの諸々の地獄はこのような汚れたものによって溢れているからである。それらは相応するものであることは、神的な神の愛と神的な神の知恵についての論文の中(422-424番)に若干のものが認められよう。
しかし、それらの諸々の楽しみは地獄へ入った後、恐るべき性質の不快なものに変えられる。
これらは天界の諸々の楽しみが何か、またどのようなものかが理解されるために言われたのである。このことについてはすぐに続いて述べよう。というのは、何でもそれ自身の反対のものから知られるからである。

2-39 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。

2-39 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。
 
39. [1]幸福、至福、楽しみ、および愉快、要するに天界の諸々の幸福は言葉で述べられることは出来ないが、しかし天界の中で感覚によって認められる。というのは、感覚のみで認められるものは、述べられることが出来ないからである。なぜなら、それは思考の原型の中に、またそれ故、言葉の中に落ち込まないからである。というのは、理解は見るだけであるからである。そして理解は知恵、即ち真理のものを見るだけであって愛、即ち善のものを認めない。それ故に、それらの諸々の幸福は言い表わせないものであるが、しかしそれでもなお知恵と一緒に等しい段階に上がる。
それらの多様性は無限であり、またその各々のものは言語に絶するものである。
私はこれを聞き、またこれを認めた。
[2]しかし、人間が悪の愛の強い諸々の欲望と間違った原理(信念)をあたかも自分自身から、しかしそれでもなお主から取り除くに応じて、それらの幸福は人間に入る。というのは、それらの幸福は善と真理への情愛の幸福であるからである。そしてこれらは悪への愛の強い欲望と間違った原理(信念)に反対のものであるからである。
善と真理への愛の情愛の幸福は主から始まる。従って最内部から、またそこからそれを最外部に至るまで更に低いものの中へ広める。そしてそのように天使を満たし、なお加えてその結果として全体があたかも歓喜であるように為す。
善と真理への各々の情愛の中に、このような幸福の無限の多様性が一緒にある。特に知恵への情愛の中にある。

2-40 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。

2-40 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。
 
40.悪への強い欲望の楽しみと善への情愛の楽しみは比較されることは出来ない。なぜなら悪への強い欲望の楽しみの中の内部に悪魔が居り、そして善への情愛の楽しみの中の内部に主が居られるからである。
もし比較されるべきであるなら、悪への強い欲望の楽しみは沼の中の諸々の蛙の戯れ、また悪臭の中の諸々の蛆の放縦のような楽しみによってでなく異なって比較されることは出来ない。これに対して善への情愛の楽しみは庭園と花園の中の諸々の生命のあるものの歓喜に比較されることが出来る。というのは、蛙と蛆へ働きかける類似のものが、更に悪への強い欲望の中に居る者らに働きかけるからである。また庭園と花園の中の諸々の生命あるものに働きかける類似のものが、更に善への情愛の中に居る者達へ働きかけるからである。なぜなら、上に述べられたように諸々の汚れたものが相応によって悪い者達へ働きかけ、また諸々の清潔なものが相応によって善い者達へ働きかけるからである。

2-41 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。

2-41 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。
 
41. これらから、誰かが主に結合されるのであればあるほど益々幸福に為されることが知られることが出来よう。
しかし、それらの諸々の幸福はこの世においては稀にしかそれを現さない。なぜなら、人間はその時、自然的な状態の中に居るからである。なお加えて自然的なものは連続的なものによって霊的なものと伝達しないが、しかし諸々の相応によって伝達するからである。またこの伝達はある種の心の静寂と平安によって以外気付かれない。それらは特に悪に対する諸々の戦いの後に生ずる。
これに対して、人間が自然的な状態を脱ぐ時に、なお加えてこの世からの死後に起こる霊的な状態に入る時に、やがて上に記述された幸福がそれ自身を継続的に現す。

2-42 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。

2-42 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。
 
42.〈5〉人間は主に親密に結合されるほど、益々自分自身のものが自分自身のものである如く自分自身に明確に見る。なお加えてそれが主のものであることを明らかに認める。
誰かが主に結合されればされるほど、益々自分自身のものが不完全に存在することが自分自身に見えるのは外観からである。
このような外観が凡ての悪い者達の許に、また同じく宗教により律法のくびきの下に居ないことと誰も自分自身から善を行うことが出来ないことを信じる者達の許にある。というのは、善を行うことが出来ないと信じる者達と律法のくびきの下に居ないと信じる者達は主と親密に結合されればされるほど、益々悪を考えることと欲することが許されず、自分自身が出来ない善だけを考えることと欲することが許されることを除いて異なって認めることが出来ないからである。なぜなら、彼らは彼ら自身の許の外観から主に結合された者達は悪を考えることと欲することが出来ないし、欲しないと結論するからである。これは自分自身が出来ないことをすることである。しかしその時、全く反対である。

2-43 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。

2-43 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。
 
43.地獄的な自由と天界的な自由がある。
悪を考えることと欲することは地獄的な自由からである。そして社会的な道徳的な法律が抑制しない限りそれを話すことと行うことである。これに対して善を考えることと欲することは天界的な自由からである。そして機会がもたらされる限りそれを話すことと行うことである。
人間は何であろうと自由に考え、欲し、話し、および行う。このようなものを自分自身のものの如く認める。なぜなら、凡ての自由は誰でも彼の愛からあるからである。それ故に、悪への愛の中に居る者は地獄的な自由が元来の自由であることを除いて異なって認めない。これに対して善への愛の中に居る者は天界的な自由が元来の自由であること認める。それ故に、反対のものが両方の者に奴隷である。
しかし、それでもなお、一つの自由、またはもう一つの自由は自由でないことを誰かによって否定されることは出来ない。というのは本質的に反対の二つの自由が両方とも本質的に自由であることは出来ないからである。
加えて、善により導かれることは自由であり、また悪により導かれることは奴隷であることを否定されることも出来ない。なぜなら、善により導かれることは主により導かれることであるからであり、また悪により導かれることは悪魔により導かれることであるからである。
このような事情の下に、自由により生ずる凡てのものは人間に自分自身のものとして見えるので、というのは、それは彼の愛のものであるからであり、自分自身の愛から行うことは自由によるからである。上に述べられたように主との結合が行うことは、人間が自分自身に自由であるように、またそれ故に、自分自身のもののようにある。そして主との結合が親密であればあるほど、益々自由であり、またそれ故、更に自分自身のものは自分自身のものである。
自分自身のものが自分自身のものである如く自分自身により区別されて見えることは、神的な神の愛は自分自身のものが他の者のものであることを欲するような性質であるからである。このように人間と天使の霊的な愛はこのような性質であり、神的な神の愛は最大にこのような性質である。また更に、主は決して誰かを強制されない。なぜなら、誰かに強制されたその凡てのものは自分自身のもののように見えないからである。また自分自身のもののように見えないものは彼の愛のものになることが出来ず、また同様に自分自身のものの如く自分自身のものにされることが出来ないからである。それ故に、人間は主により絶え間なく自由の中に導かれ、また同じく自由の中に改良され、また再生される。
しかし、これらの事柄について多くのものが次のところで述べられよう。更に若干のものが上(4番)に認められる。

2-44 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。

2-44 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。

44.しかし、人間は自分自身のものの如く自分自身に区別されて見えるのであればあるほど、益々主のものであることを明白に認める。なぜなら、主に結合されればされるほど、益々賢明に為されるからである(上の34-36番に示されたようにである)。なお加えて、知恵はそれを教え、そしてまたそれを認めさせる。
第三の天界の天使達は天使達の中で最も賢明な者達なので、その通りにそれを認め、そしてまたそれを元来の自由と呼ぶ。これに対して自分自身により導かれることを奴隷と呼ぶ。
またさらに彼らはその理由を主は知恵によって直接に彼らの認識と思考の中へ流入されないからであると言う。しかし善への愛の諸々の情愛の中へ直接に流入し、またそれらの善への愛の諸々の情愛を通して彼らの認識と思考の中へ流入すること、また彼らは情愛による流入を認めること、そのことから彼らに知恵があること、またその後、知恵から考える凡てのものは自分自身からの如く見えること、従ってその凡てのものが自分自身のものの如く見えること、またこれによって相互の結合が為されることを言う(注:人間が情愛によって為すことは自由であるように感じる。)。

2-45 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。

2-45 神的な神の摂理は人類による天界を目的として持つ。
 
45.主の神的な神の摂理は目的として人類による天界を持つので、主御自身と人類の結合を目的として持つ(このことについて28-31番)。更に、目的として人間が主御自身により親密に結合されるということを持つ(このことについては32,33番)。というのは、このように人間に天界が内的にあるためである。
また例えば、目的として人間がその結合によってより賢明になるということを持つ(このことについては34-36番)。また、より幸福になること(このことについては37-41番)。なぜなら、天界が人間にあるのは知恵によるからであり、またそれに従うことにあるからである。またそれによって更に幸福があるということ、また最後に目的として人間は自分自身のものが自分自身のものの如く自分自身に区別されて見えるということ、またそれでもなお、主のものであることを明白に認めるということを持つ(このことについては42-44番)。
これらの凡てのものは主の神的な神の摂理のものである。なぜなら、これらの凡てのものは天界であるからであり、このことが目的としてあるからである。

3-46 主の神的な神の摂理はそれを実行する凡てのものの中に神的な無限と神的な永遠を目指す。

3-46 主の神的な神の摂理はそれを実行する凡てのものの中に神的な無限と神的な永遠を目指す。
 
46. [1]基督教の世界において神は無限(Infinitus)、および永遠(Aeternus)であることは熟知されている。なぜなら、アタナシウスの名称を持つ三一性の教えの中に父なる神は無限(Infinitus)、永遠(Aeternus)、および全能(Omnipotens)と言われ、子なる神も、また聖霊なる神も同様に言われている。そしてそれにもかかわらず三人の神の無限、永遠、および全能があるのではなく、一人の神の無限、永遠、および全能があると言われている。
これらから、神は無限、および永遠であるので、神について無限と永遠を除いて他のものは属性付けられることが出来ないことが帰結される。
これに対して、神の無限と神の永遠が何かは、有限なものからは認められることが出来ない。そしてまた認められることも出来る。認められることが出来ないのは、有限なものは無限なものを収容できないからである。また認められることが出来るのは、抽象的な考えがもたらされるからである。それらを通して存在することが認められることが出来る。それにも関わらず、どのようなものであるかは認められない。
神の無限については、例えば神は無限であるので、即ち神的なものは無限であるので、元来の神の存在であること、元来の神の本質と神の実体であること、元来の神の愛と元来の神の知恵であること、或いは、元来の神の善と元来の神の真理であること、従って神御自身であること、というよりはむしろ元来の神的人間であることのような考えがもたらされる。
更にその上、もし神の無限が神の凡てのものであることが言われるなら、例えば神の無限の知恵は神の全知であること、なお加えて神の無限の力は神の全能であることがもたらされる。
[2]しかし、それでもなお、もし、自然から獲得する考えが、自分の考えから遠ざけられていなければ、特に、自然に固有の空間と時間の二つのものからの考えが遠ざけられていなければ、これらは思考の不明瞭なものの中へ落ち込む、また理解出来ないことによりおそらく否定の中へ落ち込む。というのは、これらは諸々の考えを終結しないからである(注:終結のない考えは考えることが出来ないことは、例えば宇宙の果てはどうなのか、或いは時間の始まりと終わりはどのようなものなかというようなことは終結がないため考えることが出来ないということである)。なお加えて、その結果として抽象的な諸々の考えが何も意義がないようにするからである。
これに対して、もし人間の許に空間と時間が遠ざけられることが出来るなら、天使の許に為される如く、やがて抽象的な諸々の考えによって今しがた上に述べられた神の無限を認められることが出来る(注:考えから空間と時間を遠ざけて相応の無限と、相応の永遠を考えるなら考えることが出来る。なぜなら相応は最初の相応である霊太陽から最後の相応である物質の間で終結があるからである)。そしてまたそれ故、人間は神の凡てのものである神の無限から創造されたので、何か意義のあるものであること、更に、人間は元来の神の実体である神の無限から創造されたので、有限な実体であること、また例えば、人間は元来の神の知恵である神の無限から創造されたので、知恵であること、その他を認められることが出来る。
即ち、もし神の無限が神の凡てのもの、元来の神の実体、および元来の神の知恵でなければ、人間は何か意義のあるものではない。それ故に何もないか、観念論者達と呼ばれる想像する者達に従ってその想像の観念(idea)だけがあるかである。
[3]神的な神の愛と神的な神の知恵についての論文において示されたことから神的な神の本質は神の愛と神の知恵であること(28-39番)、神的な神の愛と神的な神の知恵は元来の神の本質と元来の神の形であること、また神御自身と唯一の神であること(40-46番)、また神は神御自身の御自身から全世界とその凡てのものを創造されたこと、また無から創造されたのではないこと(282-284番)が明らかである。
それ故、創造された凡てのものは、なお加えて、特に人間は、また彼の中の愛と知恵は何か意義あるものであり、またその観念(idea)だけがあるのは何か意義あるものでないことが帰結される。
即ち、もし神が無限の神であるのでなければ有限なものは存在しない。更に、もし神の無限が神の凡てのものにあるのでなければ何か意義のあるものは存在しない。また、もし神が神御自身の御自身から凡てのものを創造したのでなければ何も存在しない。即ち無である。
要するに、神が存在するので我々が存在する。

3-47 主の神的な神の摂理はそれを実行する凡てのものの中に神的な無限と神的な永遠を目指す。

3-47 主の神的な神の摂理はそれを実行する凡てのものの中に神的な無限と神的な永遠を目指す。
 
47.今や、神的な神の摂理について述べられるので、またこの神的な神の摂理は凡てのものの中に無限と永遠を目指して行うので、またこれは、もしある種の順序の中でなければ明確に述べられることが出来ないので、それ故に、ここに下記の順序で述べよう。
(1)神の無限は本質的に、なお加えて神の永遠は本質的に神的なものと同じである。
(2)神の無限、なお加えて神の永遠は本質的に有限なものの中にそれ自身から無限なもの、そして永遠なものを除いて異なって目指すことは出来ない。
(3)神的な神の摂理は凡てのものにおいて、特に人類を救うことにおいてそれ自身から無限と永遠を目指して行う。
(4)神の無限、なお加えて神の永遠の像は人類の救われた者からなる天使的な天界の中に現われる。
(5)天使的な天界を形作ることにおいて無限と永遠を目指すことは、(天界が)神的な神の摂理の最内部のものである主御自身の像である一人の大きな人間として主の目の前にあるためである。

3-48 主の神的な神の摂理はそれを実行する凡てのものの中に神的な無限と神的な永遠を目指す。

3-48 主の神的な神の摂理はそれを実行する凡てのものの中に神的な無限と神的な永遠を目指す。
 
48.(1)神の無限は本質的に、なお加えて神の永遠も本質的に、神的なものと同じであることは、神的な神の愛と神的な神の知恵についての論文の中の多くの章において示されたものから知られることが出来よう。
〈1〉神の無限は本質的に、そして神の永遠も本質的に神的なものであることは天使的な考えから明らかである。
天使達は神の無限によって神的な神の存在を、なお加えて神の永遠によって神的な神の形を除いて他のものを理解しない。
これに対して、人間から神の無限は本質的に、そして神の永遠も本質的に神的なものであることが、確かに認められることが出来るが、しかも認められることが出来ない。空間からではなく神の無限について、そして時間からでなく神の永遠について考える者達には認められることが出来る。しかし、無限について、なお加えて永遠について空間と時間から考える者達には認められることが出来ない。
従って、上げられた者達、即ち理性において内的に考える者達からは認められることが出来る。なお加えて、より低い者達、即ち外的に考える者達からは認められることが出来ない。
〈2〉彼らは、空間の無限は存在されることが出来ないことを、同様に時間の無限からの永遠である時間の無限も存在されることが出来ないことを考えることから認められることが出来る。なぜなら、無限は最初と最後の領域(境界)がないからである。即ち終結がないからである(注:最初の起源と最後の終結がないものは存在しない。)。
更に、神の無限はそれ自身から生じられることが出来ないことを考える。なぜなら、それ自身から生じられることはそれ自身からの終結と起源を前提とするからである。即ちそれ自身からの最初のものを前提とするからである。それ故にそれ自身からの神の無限、なお加えて神の永遠を言うことは空虚である。なぜならそれはそれ自身からの神の存在を言われる如くであるからであり、それは矛盾であるからである。というのも、それ自身からの神の無限は神の無限からの無限であり、またそれ自身からの神の存在は神の存在からの神の存在であるからである。そして、その神の無限は、なお加えて、神の存在は、神の無限と同じものか、有限なものであるかである(注:最初のものから創造された次のものは最初のものそのものではない。)。
これらと類似のことから理性において内部のものである本質的な神の無限、そして本質的な神の永遠が認められること、神の永遠と神の無限は神的なものであること、それから凡てのものがあることが明らかである。

3-49 主の神的な神の摂理はそれを実行する凡てのものの中に神的な無限と神的な永遠を目指す。

3-49 主の神的な神の摂理はそれを実行する凡てのものの中に神的な無限と神的な永遠を目指す。
 
49.私は多くの人が「誰が空間を除いて、また時間を除いて何か意義あることを自分自身の理性の中の内部でどうして認めることが出来るのか。そして空間があるだけでなく、更に空間が凡てのものであり、また空間が元来のものであり、空間から凡てのものがあることを。」自分自身に言うであろうことを知っている。
しかし、内なるものを考えよ。空間と時間の中に愛、即ちその情愛が何かあるかどうか、或いは知恵、即ちその理解が何かあるかどうかを考えよ。それと同時にあなたはそれがないことを認めよう。
そして、元来の神の愛と元来の神の知恵が神的なものである時、神的なものは空間の中と時間の中に受け入れられることが出来ないことが帰結される。従って、神の無限も受け入れられることが出来ないことが帰結される。
例えば、思考が時間と空間の中にあるかどうか熟考せよ、十、或いは十二時間の経過を仮定せよ、確かに、この時間の間隔は一時間、或いは二(時間)のように思われることが、更になお加えて、一日、或いは二(日)のように思われることが出来ないか?
もし喜びの情愛があるなら、時間については、その(喜びの情愛の)中に十、或いは十二時間は考えられず、殆んど一時間、或いは二(時間でしか)ない。反対に、もし苦悩の情愛なら、その中で(心は)時間に注目される。諸々の情愛の状態からの思考に従って(時間が)現われる。
このことから時間は諸々の情愛の状態からの思考に従った外観だけのものであることが明らかである。
あなたが歩くか、或いは外国を旅行するか、思考における空間の距離とも同様である。

3-50 主の神的な神の摂理はそれを実行する凡てのものの中に神的な無限と神的な永遠を目指す。

3-50 主の神的な神の摂理はそれを実行する凡てのものの中に神的な無限と神的な永遠を目指す。
 
50.〈1〉天使達と霊達は愛の諸々の情愛とそれらからの諸々の思考である。それ故に、彼らは空間と時間の中に居ないが、それらの外観の中のみに居る。
空間と時間の外観は彼らに諸々の情愛とそれらからの諸々の思考に従ってある。それ故に、もし誰かが他の者について彼を見ることを欲する意図と一緒に、即ち彼と話すことを欲する意図と一緒に情愛から考えるなら、直ちに現存がもたらされる。
〈2〉それ故、各々の人間の許に彼と同様な情愛の中に居る霊達が現存している。悪の霊は同様な悪への情愛の中に居る者と一緒に、なお加えて善の霊は同様な善への情愛の中に居る者と一緒に現存している。彼らは誰かが仲間に接合された如くそのように現存している。
情愛とそれからの思考は空間と時間の中にはなく、なお加えて霊達と天使達は諸々の情愛とそれからの諸々の思考であるという理由から、空間と時間は現存に何も為さない。
〈3〉このようにあることは、長年の生き生きとした経験により知ることがもたらされたのである。そしてまた私がヨーロッパの中のその様々な王国の中の、同様にアジアとアフリカの中のそれらの様々な王国の中の多くの者達と一緒にその死後、話したことから、またその凡ての者達が私の近くに居たことから知ることがもたらされたのである。それ故に、もし彼らに空間と時間があったなら、旅行と旅行の時間が介在したであろう。
〈4〉無論、各々の人間はこのことを自分自身の中に、即ち自分自身の心の中に植え付けられたものから知っている。このことは、私がアジア、アフリカ、或いはヨーロッパにおいて死んだ誰かと話した時、例としてカルヴィン、ルター、メラヒトン、或いは、或る王、監督者、遠方の地方における聖職者と話した時、誰も空間の隔たりについて何も考えなかったことによって私に明白な事実であった。また少なくとも陸地と海が介在する時に、どのようにしてそこで生きた者達と一緒に話すことが出来たのか、どのようにして彼のそばに行くことと現存することが出来たのか、という疑問は決して彼らの思考の中へ流れ込まなかったのである。
このことからもまた、各々の者は霊的な世界の中に居る時は彼らについて空間と時間により考えないことが私に明らかであった。
それにもかかわらず、彼らに空間と時間の外観があることは天界と地獄についての著作の中に認められよう(162-169番、191-199番)。
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