インターネット新教会

インターネット新教会は誰でもいつでも訪れて主を礼拝することが出来ます。 この世の金銭の献金は一切不要ですが、主のものである善と真理は十分の一とは言わず凡てを主に返してください。 自分が語り行ったどんな真理も善い事も自分が語り行ったと思わず、自分を通して主が為されたことを承認して主を見上げ主に帰してください。 聖餐として、聖言とスヴェーデンボリによって明かされた聖言の内意から日々の心の糧を得てそれを日常生活で活用してください。 洗礼として、なぜ悔い改めるのか、何を悔い改めるのか、どのように悔い改めるのかということを知り、また日々悔い改める習慣を持ってください。 悪から離れて用を為すために、隣人に悪を為すことを恐れて、憎しみ、復讐心、姦淫、欲心、自尊心、不平、愚痴等を遠ざけ、また隣人に役立つことを喜んで自分の役割、仕事、使命等を誠実に果たしてください。 偽善を避け主を義とするために、そのことは自分がそのようにしているのではなく、自分を通して主が為されておられることを承認して、主を見上げ、主を義として、主によって善い実を結んでください。

スヴェーデンボリ名言集

身体と感覚的な快楽(喜び)を享受することは、決して誰にも禁じられていない

身体と感覚的な快楽(喜び)を享受することは、決して誰にも禁じられていない。即ち土地と富の所有の快楽(喜び)、国家の名誉と地位の快楽(喜び)、夫婦の愛の快楽(喜び)、また幼児達と子供達への愛の快楽(喜び)、友情の快楽(喜び)、また仲間達との親交の快楽(喜び)、聞くこと、即ち快い歌と演奏の快楽(喜び)、見ること、即ち美しいものの快楽(喜び)、それらは多種多様なものがある。例えば、美しい衣装、豪華な住まいと家具、美しい庭園、また同様な調和からの楽しいものがある。また匂いをかぐこと、即ち香りの芳香の快楽(喜び)、味覚の快楽(喜び)、即ち食物と飲み物からの甘味と有用性、また触れることの快楽(喜び)、というのは、言われたように最外部の情愛、即ち形体的な情愛は内的な情愛から由来してあるからである。
内的な情愛は生命のあるものであり、凡ての情愛は、善と真理からその楽しいものを得、また善と真理は仁愛と信仰からその楽しいものを得、その時、主から得る。従って主の生命そのものから得る。それ故に、情愛と快楽(喜び)は、主の生命から生きている。またそこから起源を得る正しい快楽(喜び)なので、決して誰にも否定されない。それどころか、そこから起源を得る時、やがてそれらの楽しいものは、そこから起源を得ない楽しいものに無限に勝る。(天界の秘義995)

身体と感覚的な快楽(喜び)は、これを目的とせず、仕事、使命、役割等の用を果たす手段として、或いはそれらを果たした結果として享受することは、禁じられるべきではありません。なぜなら、このように享受する時、最内部に居られる主から受けるからです。しかし身体と感覚的な快楽を目的として追求するなら、その中には自己愛しかないので、たちまち不健全なもの、或いは忌まわしいものになります。

間違った信念の上の支配権

間違った信念の上の支配権についても、悪の上の支配権と同様にそれを持つ。即ち人間は自分自身で間違った信念の上に支配することは最小の部分も出来ない。ここの節では再生された人間の欲望、即ち「地の獣」の上への支配権について、また間違った信念、即ち「天の鳥」の上への支配権が述べられているので、再生された者の信仰の第一のものは仁愛であることを承認し、また信じなければ、また隣人愛とその憐れみから働きかけられなければ、誰も決して再生されたと言われることが出来ないことを知らなければならない。
仁愛により再生された者の新しい意志が形作られ、仁愛を通して主は善とそこからの真理を遂行される。これに反し、仁愛なしの信仰によっては遂行されない。
服従だけから仁愛の努めを行う者達、即ち主によりそのように命じられたので仁愛の努めを行う者達が居る。そしてそれでもなお、再生されていない者達は、もしその努めの中に自分自身の義を置かなければ他生で再生される。(天界の秘義989)
 

人間の本質である憎む者に復讐すること、姦淫すること、不義の利得を得ること、自分が重んじられ尊ばれること、他人を軽んじ侮ること、他人を貪ること等の楽しさを善として支持する間違った信念は、これらの楽しさが悔い改められないなら、また隣人に悪を為すことを恐れて律法を守らないなら、また隣人に役立つ喜びの中へ人間が埋没されないなら除かれることが出来ません。なぜなら、人間は隣人愛の楽しさの中に居ないなら、自己愛の中に居て上記のような自己愛の楽しさの中に埋没するからです。
また仁愛なしの信仰、即ちイエス様の身代わりの罰を信じるだけの信仰は、その中に何も隣人愛がないので、上記の自己愛の楽しさと間違った信念を主は取り除かれることが出来ません。しかし、例え信仰のみの救いを信じたとしても、それでもなおかつ、自分自身を悔い改め、また隣人に悪を為すことを恐れて律法を守り、また隣人に役立つ喜びを持って自分の役割を果たすなら、隣人愛の中に居ることが出来るので、主は上記の自己愛の楽しさとそれを支持する間違った信念を取り除かれます。
信仰はそれがどれほど間違った信仰であっても、もし上記のような自己愛の悪を支持しなければ、隣人愛の善と結ばれることが出来ます。しかし、イエス様の身代わりの罰で凡ての罪は許されているので、ばれなければどんな悪いことをしてもかまわない、また悔い改めることも律法を守ることも良い行いをすることも必要ないと確信するなら、自己愛の悪の楽しさの中に完全に埋没します。
主は悔い改めること、律法を守ること、良い働きをして実を結ぶことを命じておられます。もし悔い改めないように、律法を守らないように、善い働きをしないように、また善い実を結ばないように教える牧者が居るとするなら、その者は主に敵対し、サタンに組みする偽牧者です。
また自分自身を悔い改めるが、しかし隣人に役立つ喜びで自分の役割を果たすのではなく、義務で果たす者は、その義務を主が自分を通して為されておられることを承認し主を見上げ主に義を帰するなら、来世では隣人に役立つ喜びを持つことが出来るでしょう。

人間は主により善を生み出す

「大地」は一般的には教会の人間と教会の何かを意味する。従って、ここでは主から内なる人間を通して外なる人間の中に生み出される何かが意味される。大地そのものは外なる人間の中にあり、その中に情愛と記憶があり、人間が諸善を生み出す如く見えるので、それ故に、「大地が生じる這って進むことを為す凡てのもの」が言われるが、しかしそれは外観であり、真実は主から内なる人間を通してある。なぜなら前に言われたように、主からでなければ善と真理のものは、何もないからである。(天界の秘義990)
 
 
自己愛の悪の楽しいものが悔い改められるに応じて主は人間の中に入って来られ、主によって律法を守り、また主によって善い働きを為すことが出来るようにして下さります。即ち隣人に悪を為すことを恐れて律法を守り、また隣人に役立つ喜びを持って自分の役割を果たすことが出来るようにして下さります。
この隣人に悪を為すことを恐れる恐れと隣人に役立つことを喜ぶ喜びは、主が人間に与えて下さるものであって、それらは人間の中の主のもの、即ち人間の中の主です。このように主を自分の中に受け入れた人は主によって律法を守ることが出来、また隣人に善い働きを為すことが出来ます。
このように律法を守り善い働きを為すことは、人間の義ではなく100%主の義によるものであり、100%主の恵みによるものです。

誠実は隣人愛である

誠実は隣人愛である
「氏族」が、内意において誠実を意味すること、更に仁愛と愛を意味することは、誠実は相互の愛の凡てのものなので、氏族から生じるからである。天界において相互の愛と仁愛を血縁関係と姻戚関係の如く持ち、従って「氏族」の如く持つ。それらのことについては685番に認められよう。それ故に、聖言において誠実は愛、即ち仁愛であり、それらは「家族(家)」によって述べられており、そのようにまた「氏族」によって述べられている。(天界の秘義1159)
 

自分のこの世での役割を誠実に果たす所に隣人愛があり、またそこに隣人に役立つことの喜びがあります。
そして相互に誠実であることが、健全な社会や教会をつくるのであって、他からの、また主からの一方的な誠実だけでは健全な社会や教会はつくられません。また救いも主からの一方的な愛の恵みで救われるのではなく、主の愛に人間が答えて主と隣人に誠実であることによって主と隣人を愛する相互の愛が救います。

人間の固有性

人間は法律の外なる拘束がなければ、また偉大な者、最も富裕な者になるために自分自身に作る拘束が妨げなければ、凡ての犯罪の中に突進したであろう。そして全世界の凡ての者達を征服する前に、また全世界の凡ての富をかき集める前に、活動を止めないであろう。またいかなる者達も、もし卑賤な奴隷達のように自分をへりくだるのでなければ容赦しないであろう。各々の人間は誰でもこのような者であり、例え、不可能の中に居る者達、また無力な者達、また先ほど言われた拘束の中に居る者達は、気付かなくてもそのような者である。しかし、可能性と能力が与えられ、また拘束が弛められた者達に可能であるほど、それだけ彼らは突進する。野獣は、決してこのようなものではなく、自然界の或る種の秩序の中に生まれている。それらは獰猛で捕食性のものであり、他の者に悪をもたらすが、それは単に自分を守るためである。また他の者達を貪り食うことは飢えを鎮めるためであり、鎮められたものは、決して誰も害しない。しかし人間は全く異なっている。このことから人間の固有性が何か、また人間の意志が何か知られよう。...人間の許の悪、即ち各々の瞬間、人間に襲いかかることを企て、また人間を永遠に滅ぼすことを企てる地獄が征服されること出来るために、人間は主により再生され、また新しい良心である新しい意志を与えられる。それによって主だけが凡ての善を遂行される。(天界の秘義987)
 

人間の憎しみ、淫乱、貪欲は法律の罰、社会的な非難の罰等の拘束が緩められるなら、際限なく膨張し野獣と言われる人間以外の他の動物以下の悪魔になります。なぜなら、法律の罰や社会的な非難を恐れて罪を犯すことを控えることは、真に控えているのではなく、仕方なく控えているに過ぎないからで、それが緩められるなら罪を犯すからです。真に罪を犯すことを控えることが出来る者は、主から良心を与えられている者だけです。このことを殆どの人は知らず、また認めていません。それ故、人間の本当の固有性が知られておらず、主の前に真の卑下が為されていません。
このことの承認がなければ悔い改めることが出来ず、そして主の善と真理を受け入れる状態になることが出来ず、従って良心も与えられません。人間が自分の真の固有性を知ることが再生(救い)の出発点です。

永遠の祝福と一時的な祝福

聖言における外なる意味で祝福することは、現世のものと形体的な凡ての善き物で豊かにされることを意味する。丁度、外なる意味に留まる凡ての者達、例えば昔のユダヤ人達、また今日のユダヤ人達、そしてまた、特にこの時代の基督教徒達もまた、聖言をそのように説明する。それ故に、神的な祝福を富の中の凡ゆるもので満ちることと自分自身の名誉の中に置き、また見なす。しかし、聖言の内意において祝福することは霊的な、また天的な凡ての善に富まされることであり、その祝福は主からでなければ与えられないので、即ち主からでなければあり得ないので、それ故に、聖言の内意における祝福は主の臨在と恵みを意味し、主の臨在と恵みをその祝福自身に持つ。主は仁愛の中にだけ臨在しておられるので、また今は再生された霊的な人間について述べられているので、またその者は仁愛により行うので、臨在が言われる。各々の人間の許に主は臨在されているが、しかし人間が仁愛から離れているほど、主の臨在はそれだけ離れている。言わば主はそれだけ不在、即ちそれだけ遠くに居られる。(天界の秘義981)
 
 
聖書は霊的な心のことについて、この世のもので例えて書いているので、祝福もこの世の富と名誉(地位)を例えに霊的な心の富と名誉(地位)のことを言っています。例えば、主の祈りの「日々の糧を与え給え」のように、この世の食物に例えて霊的な食物を求めよと言っています。もし字義通りに身体の食物を主に求めるなら異教徒達の偶像崇拝と同じになります。
従って霊的な善と真理、即ち仁愛(隣人愛)と信仰が豊かにされることが聖書が言っている真の永遠の祝福です。この祝福は主によらなければ、また人間がそれらを与えられる状態にならなければ与えられないので、善と真理に反するものを欲し考える人間に与えられることができません。なぜなら、その時、善と真理をはねつけるからです。従って善と真理に反するものを欲し考えることを悔い改めなければ与えられることができません。
現代ではこの永遠の祝福を殆どの人が知らないので、この世の富と名誉(地位)である一時的な祝福を目的として追い求めています。しかし一時的な祝福は人間がそれらを目的として求めれば求めるほど、主から離れます。
一時的な祝福は永遠の祝福のための手段としてのみ求め、目的として愛さないことで正しく活用出来ます。即ち善と真理を実行するため、即ち仕事、使命、家事、育児、ライフワーク、ボランティア等を行うための手段として活用することで正しく扱うことができます。

教会の間違った原理と悪はそこに居る者達に見えない

教会の間違った原理と悪、即ち教会の中に居る者達の間違った原理と悪は、そこに居る者達に見えない。というのは、間違った原理からは間違った原理は見られないからであり、悪から悪は見られないからである。なぜなら、間違った原理の要素が真理を完全に覆うからであり、悪い生命(生活)が真理を絶滅するからである。間違った原理の要素と悪い生命(生活)の両方が真理を間違った原理の如く、また間違った原理を真理の如く見ることをさせ、そして悪を善の如く、また善を悪の如く見ることをさせる。(天界の秘義4503

人間は自分の間違った原理は真理の如く見え、また自分の悪は善の如く見えるので自分で自分を改めることは出来ません。しかし他人の間違った原理は間違った原理として見え、また他人悪は悪として見えるので、もし他人の間違った原理と悪が自分にもあることを承認することが出来たなら、自分を悔い改めることが出来ます。しかし他人の間違った原理と悪を見て他人を非難するなら自分の間違った原理と悪を承認することが出来ず、自分を悔い改めることが出来ません。

人間は霊である

人間は霊であり、また身体はこの世において用として霊に仕えることは4652番の終わりに示された。また霊は人間の内なるものであり、またその身体はその外なるものであることは他の至る所で示された。人間の霊と一緒に、またその身体と一緒にそのことをどのように有するかを理解しない者達は、そこから霊は身体の内部に住むこと、また身体は霊を取り巻き、また覆うように理解することが出来るが、しかし身体の中にある人間の霊は身体全体の中に、またその凡ての部分にあること、またその実体は更に純粋なものであり、その運動の器官にも感覚の器官にも、また他のどこにもあること、また身体は物質的なものでありどこであろうと霊に結び付けられたものであり、この世にふさわしいものであり、その時、この世の中に霊があることが知られなければならない。そのことが人間は霊であることによって、また身体はこの世において用として霊に仕えること、また霊は人間の内なるものであり、また身体はその外なるものであることによって意味される。そこから更に人間は死後もまた同様に活発な生命と感覚の中に居ること、その上、この世の如く、しかし更に完全な人間的な形の中にもまた居ることが明らかである。(天界の秘義4659)

獣と人間の違い

外なる人間、或いは自然的な人間と言われる者は生命の最外(最低)部の段階であること、それによって人間は欲望と幻想に関して動物に等しいものであることを教えられた。また生命の第二の段階は内なる人間と理性的な人間と言われ、それによって人間は動物の上に居ることを教えられた。なぜなら、それによって善と真理を考えることと欲することが出来るからであり、またそれによって自然的な人間の欲望とそこからの幻想を妨げることで、またはねつけることで、また加えて、自分自身の内部で天界について、それどころか神的なものについて熟考することで自然的な人間を支配することが出来るからである。獣はそれらを為すことが全く出来ない。(天界の秘義3747)

人間は悔い改めなければ清められない

教会が教えることを信じることのみで人間を悪から清めることが多くの者により信じられている。またある人達により、善を行なうこと、ある人達により教会のことを知ること、話すこと、教えること、ある人達により聖書と信仰の書物を読むこと、ある人達により神殿をしばしば訪れること、説教を聞くこと、また特に聖餐に出席すること、ある人達によりこの世を退けること、なお加えて、信仰に専念すること、ある人達により凡ての罪の事柄を自分自身に告白することが清めることと信じられている。
ところがしかし、それでもなおこれらの凡てのものは、もし彼が自分自身を調べて自分自身の諸々の罪を認め、それらを承認しそれらの結果として自分自身を非難し、なお加えてそれらから離れることで悔い改めを行い、同時にこれらの凡てのことを自分自身による如く行うが、しかしそれでもなお、主から行なうことの心からの承認がなければ人間を何も清めない。(神の摂理121)

心から神の戒めを守ること

心から神の戒め(教え)を守ることは、隣人への仁愛の善の中に居る者でなければ誰も守ることが出来ない。(天界の秘義3875)

現代の基督教世界では律法を守ることでは救われないこと、また善い働きを行なうことでは救われないことが信じられています。確かに隣人に悪を為すことを恐れない者、また隣人に役立つことを喜ばない者が自分に罰や非難が及ぶことを恐れてどれほど厳格に律法を守り、自分名利を喜んで善い働きを行なっても救われないことは事実ですが、しかし隣人に悪を為すことを恐れて律法を守り、また隣人に役立つことを喜んで自分の役割、仕事、使命等を果たして善い働きを行うなら救われることは知られていません。またこの恐れと喜びが天国の平安と幸福であることも知られていません。

平安

平安
最初に凡ての者達は平安の中に居る。なぜなら、外なる平安、或いは平静と言われる外なるものの中に居るからである。それは平安の神的な状態からもまた生み出され、またそれは欲念と間違った原理が遠ざけられることによって外なるものの中に現われる。というのは、それらが凡ての不安を引き起こすからである。凡ての人間もまたその人生(生命)の初めにおいて、即ち幼児期において平静の状態の中に居る。しかし、人間は人生を進むほど、或いは成長するほどその状態から自分自身を遠ざける。なぜなら、世俗的な関心の中へ自分を置くからであり、またそれ故、自己愛と世俗愛の欲念とそこからの間違った信念を通して不安を引き起こすからである。

自然的な思考の原型を越えて心を高めること

自然的な思考の原型を越えて心を高めることを知っている者は空間と時間から獲得するものを暗闇から光の中へ移行する。そして霊的なものと神的なものを理解する。そして遂に、空間と時間の中に、また空間と時間によって霊的なものと神的なものを見る。その時また、その光から自然的な光の暗闇を追い散らし、そしてその欺きを中心から側面へ遠ざける。凡ての人間はその理解に自然に固有なものを越えて考えることが出来、そしてまた実際に考える。その時また、神的なものを主張し、また認める。なぜなら神の偏在は、空間の中にはないからである。そしてまた、上に提示された神的なものは空間に依らず宇宙の凡ての空間を満たすことに同意し、また認めることが出来る。
これに対して、もし人間が神的な神の遍在を否定するなら、同時に凡てのものを自然に帰す。その時、例え霊的なものへ上げられることが可能であっても、上げられることを欲しない。(神の愛と知恵69)

神について、天国と地獄について、身体の死後の生命について空間と時間を思考の原型として考える限り何も考えることが出来ずそれらを完全に否定します。しかし空間と時間のない霊的な思考で考えるなら空間と時間の中に現れているそれらの像を見ることが出来ます。

救われた(再生された)人間と救われていない(再生されていない)人間の違い

救われた(再生された)人間と救われていない(再生されていない)人間の違い
 

再生された人間の許に、善と真理の良心があり、良心から善を行い、また良心から真理を考える。彼が行う善は仁愛の善であり、また彼が考える真理は信仰の真理である。再生されていない人間の許に良心はなく、例え何かの良心があったとしても、それは仁愛から善を行うことの良心ではなく、また信仰から真理を考えることの良心でもなく、自分自身のための何かの愛から、或はこの世のための何かの愛からのものである、それ故に、偽の良心か、或は間違った良心である。
再生された人間の許に良心(自覚)に従って行う時、喜びがあり、また良心に反して行うこと、或は考えることを強制される時は苦悩がある。しかし再生されていない人間の許ではそのようになく、極めて多くの者が良心が何か知らない。まして良心に従って何かを行うこと、或は良心に反して行うことが何かを知らない。しかし、彼らの愛に一致するものに従って行い、そしてそこから彼らに喜びがあり、彼らの愛に反して行うことを強制される時、彼らに苦悩がある。
再生された人間の許に新しい意志と新しい理解があり、新しい意志と新しい理解は彼の良心である。新しい意志と新しい理解が彼の良心の中にある。良心によって主は仁愛の善と信仰の真理を遂行される。再生されていない人間の許に意志はなく、意志の代わりに欲望とそこからの凡ての悪への傾向があり、また理解もなく、誤った推論とそこからの凡ての間違った信念への傾倒がある。
再生された人間の許に天的な生命と霊的な生命があるが、しかし再生されていない人間の許に形体的な生命と世俗的な生命だけがある。彼が善と真理が何かを考えることが出来ることは、主の生命からの残りのものを通してある。残りのものについては前に述べられた。そしてそこから彼に反省することの能力がある。
再生された人間の許では内なる人間が支配し、また外なる人間が従う。これに対し、再生されていない人間は外なる人間が支配し、また内なる人間が何もない如く眠る。
再生された人間は、もし熟考するなら内なる人間が何か、また外なる人間が何かを知る、即ち知ることが出来るが、しかし再生されていな人間は、例え熟考しても内なる人間が何か、また外なる人間が何かを知らないし、知ることも出来ない。なぜなら、再生されていない人間は仁愛からの信仰の善と真理が何かを知らないからである。
これらから再生された者がどのような者か、また再生されていない者がどのような者か知られよう。またそれらの間に夏と冬の間の如き相違があり、また光と暗闇の如き相違がある。それ故に、再生された人間は生命のある者であるが、しかし再生されていない人間は生命のない者である。(天界の秘義977)
 
 
救われた(再生された)人間と救われていない(再生されていない)人間の違いは良心が与えられているかいないかの違いです。
主から与えられる良心は真理の良心であって、真理を受け入れることによって与えられるものです。この真理を具体的に言えば、十戒の教え(戒め)の真理です。人間がこの真理を理解に受け入れる時、人間の理解に良心が形作られ、その十戒の教え(戒め)に従って生きる時、主から隣人愛が与えられ、またそれに反して生きる時、隣人に悪を為すことの激しい良心の苦痛を受けます。
この十戒の教え(戒め)に反して隣人に悪を為すことの恐れと苦痛が良心の恐れと痛みであって、この恐れと苦痛の中に隣人への愛があり、その中に主が居られます。それ故、この恐れと苦痛を持つ者は主と繋がっています。しかし法律の罰と社会的な非難を受ける恐れと苦痛は自己愛の恐れと苦痛であって、これは良心の苦痛ではありません。
しかし、現代では殆んどの人が十戒の真理を軽んじ、また人間を罪に定めるものとして忌み嫌っているので、殆んど誰にも主からの真実の良心は与えられておらず、まして隣人愛は与えられていません。なぜなら、それをはねつけているからです。
また例え、十戒の真理を受け入れて守っても、収入の足しのためとか、先生と呼ばれ自分が重んじられ尊ばれるためとか、或いは善良な人間に見られるために受け入れ守っても良心は与えられません。これは昔のファリサイ人達の守り方であって、主は彼らを厳しく批判しておられます。

悪魔とは誰のことか

他生における悪魔はかつて、人間であったこと、また彼らがこの世で生きた時、憎しみ、復讐、および姦淫の中で人生を過したこと、またその時、或る者は他の者達よりも尊重されたこと、それどころか、彼らの間の或る者は、身体の生命の中で私が知っていた者であることを言うことが許されている。各々の悪魔は、このような地獄の集団を除いて他のものを何も意味しない。また更に、人間が身体の生命の中で生きる時、自分自身の許に少なくとも二人の地獄からの霊達が居り、他に二人の天界からの天使達もまた居る。地獄の霊達は悪い者の許で優勢であるが、しかし善い者の許では軛の下に繋がれており、また仕えることを強いられる。従って、この世で生きた時、憎しみ、復讐、および姦淫の中で人生を過したような人間であった者達より他の者が、創造の始まりから或る悪魔が居たことを信じることは誤りである。(天界の秘義968)
 
 
地獄の悪魔の凡ての者はかつてこの世に生きていた人間であり、この世に生きていた時、憎しみ、姦淫、貪欲の中で人生を過した者達であって、創造の初めから誰か悪魔がいたのではありません。
彼らは人間に与えられた自主性と理性を悪用、或は誤用した憐れむべき者達です。
その原因は聖書で蛇によって表象されている自分達自身の感覚に騙されたことです。(堕落について詳しくは天界の秘義創世記第三章の内意をお読みください。)
人間は感覚で判断する限り、神の存在も死後の生命も天国と地獄の存在も解らなくなり、また感覚に導かれる限り、怒りっぽく、いやらしく、欲張りでプライドが高く、愚痴っぽくなり自分自身を身体や気分、感情の快楽の中に深く沈めます。人間がこのような状態になると主をはねつけるので、主からの隣人愛が与えられなくなり悪魔となります。しかしそれでもこの世に生きている間は外なる善をかぶっていることが出来るので善良な人間を装うことが出来ますが、来世では外なる善は完全に取り去られるので完全な悪魔となります。

来世で悪が罰せられる理由

悪い者達が罰せられる時、常に天使達が居合わせ刑罰を緩和し、また悲惨な苦痛を軽減するが、しかし取り去ることは出来ない。なぜなら、他生において凡ての者達の悪そのものが、悪それ自身を罰するような均衡があるからである。もし刑罰によって悪が取り除かれなければ、このような悪い者達は永遠に何かの地獄の中に押し留められるであろう。なぜならそうでなければ、彼らは善良な者達の社会を害したであろうから、また凡ての者達の救済の手段がその中にある主による秩序に暴行を加えたであろうからである。(天界の秘義967)
 

悪を為すことがそのまま許されるなら、天国は悪を為す霊達によって破壊され、また間違った原理を吹聴することがそのまま許されるなら、真理によって理解の中に良心を形作り、その新しい意志に仁愛、即ち隣人愛を与えて救おうとされる主の秩序が破壊されます。
このことはこの世においても殺人、性犯罪、泥棒が放置されるなら社会が成り立たないことから理解できるでしょう。またどんな悪いことをしてもばれなければかまわないと言うようなことを吹聴するなら犯罪を助長することから理解出来るでしょう。

聖書を悪用してはいけない

或る者は習慣により、或る者は侮りにより、よくある雑談において、悪ふざけの決まり文句として、またあざけりの決まり文句として聖書の文章を利用する。彼らはそれが単にふざけることと上品に嘲笑うことであると信じている。しかし、このように考えられたものと言われたものは、それら自身を彼らの形体的な考えと不潔な考えに結びつけ、そして彼らの他生において多くの危害をもたらす。なぜなら神聖なものが彼らのけがれたものと一つのものになるからである。このような者達もまた、このような習慣をやめるまで引き裂くことの刑罰を受ける。(天界の秘義961)
 

この世においては、心の中で何を欲し何を考えても罰は受けないし、また例えどのような悪を行なったとしてもばれなければ罰せられることはありません。そのようにこの世では聖書をどのように冒涜しても罰せられることはありませんが、来世でその罰が待っています。なぜなら、この世では完全な自由意志で悔い改めて悪から離れることの機会が与えられているので罰が与えられないからです。しかし来世では完全な悔い改めを行うことが出来ないので刑罰によらなければ悪から離されることが出来ないからです。来世の刑罰は言うなれば夜る見る夢のようなもので、切り刻まれ、蛇や猛獣に咬まれても死ぬことはなく悪から離れるまで永遠に続き休まることがない恐るべきものです。この世でどんな苦しい目にあっても死んだら楽になるなどと決して考えてはいけません。

罪を無くすことは出来ないが清めることは出来る

貪欲な者達は凡ての者達の中で最も卑しい者達であり、また死後の生命について、霊魂について、内なる人間について決して考えない。彼らは天界が何か決して知らない。なぜなら、自分の思考を決して天界へ上げないで、形体的なものと現世的なものに完全に注ぎ込み沈めるからである。それ故に、彼らが他生へ行く時、彼らは自分達が霊達であることを長い間知らず、依然として自分自身が全く身体の中に居ることを信じる。彼らの思考の原型は貪欲により、殆んど形体的なものと現世的なものに為され、恐るべき幻想に変えられる。他生において卑しく貪欲な者達は、自分達自身が小屋の中に居ることが認められ、そこに彼らの富があり、そこで諸々の鼠により悩まされることが認められる。しかし、悩まされるにしても疲労させられるまではそこから去らない。こうして最後には、それらの墓から自分達自身を解放する。(天界の秘義938)
 

憎しみ、姦淫、に続いて貪欲も地獄を造ることが述べられています。このように律法に反した人間の思いや行ないが地獄を造ります。憎しみ、淫乱、貪欲のような欲望は人間の心の奥底から湧き出てくるものなので、また脳で言えば脳の最深部から湧き出てくる感情と本能なので、決して無くすことは出来ません。今まで多くの人が無くそうと努力したのですが誰一人無くすることは出来なかったはずです。そのため宗教は罪に対して無力なものとなり、罪を悔い改めなくても信仰のみで救われる教義が作り出されました。
確かに罪は無くすることは出来ないが、しかし清められることが出来ることがスヴェーデンボリによって明らかにされています。罪が清められて憎しみが隣人愛に、姦淫が夫婦愛に、貪欲が用への愛に清められれば何も問題は無くこのように清められることこそが主の御心です。
身体の血液が肺臓で清められるように、心の欲望は理解で清められることが備えられていることが「神の愛と知恵」の第五部で述べられています。

聖書の御言葉は無限の内意を含む

これらから内意において、主の聖言がどのようなものであるかもまた知られることが出来よう。文字通りの意味において、種蒔きと刈り入れについて、寒さと暑さについて、夏と冬について、そして昼と夜について言われるだけのことを除いて他のことは知られないほど粗雑なものに見えるが、それにもかかわらず、それらの言葉は、古代教会の秘義、即ち霊的なものを含む。文字通りの意味における言葉そのものはこのようなものであり、従って最も全般的な容器のようなものである。それらの中に多くの個々のものと多くの天的な秘義が含まれていても、文字通りの意味の中に居る者達はその一万分の一も決して取り出すことが出来ない。これに対して、天使達は主により、このような最も全般的なそれらの言葉の中に、現世のものから引き出されたものを無限の多様性と一緒に、凡ての再生の経過と再生されるべき者の状態、なお加えて、再生された者の状態を見ることが出来る。それによって人間は殆んど何も見ない。(天界の秘義937)
 
 
聖書には手を切り捨てよとか、目をえぐり出せ、或いは他民族を女子供に至るまで聖絶せよとか書かれており、これを字義通り解釈して実行することは危険です。また予定説も信仰のみの救いも、また金集めの宗教も聖書の字義を利用して正当化出来ます。しかしこのように字義を利用することは完全な原理主義です。聖書の御言葉は正しく解釈されなければならず、実に主への愛と隣人への愛のための解釈でなければ誤ります。その解釈の中に主への愛と隣人への愛がなければ凡て間違った解釈です。
予定説の中にも信仰のみの救いの中にも、また金集めの宗教の中にも主への愛と隣人への愛は全くありません。

相互の愛が夫婦、教会、天国をつくる

信仰の教義が教える如く知ることと考えることでは、教会は存在することが出来ない。しかし信仰の教義が教える如く行われることで教会は存在することが出来、このことだけで教会は存在する。それ故に、霊的な教会が信仰の教義そのものである仁愛から行なう時、初めて教会がある。即ち同じことであるが、その時、教会の人間が初めて教会になる。教え(戒め)が何であるかを知ることだけでなく、教会の人間が教え(戒め)に従って生きるに応じて、教会になる。というのはその時、自分自身の中に主の王国を持つからである。なぜなら、主の王国は相互の愛の中だけにあり、またそこからの幸福の中だけに成り立つからである。(天界の秘義916)
 
 
人間が主に愛されるだけでは教会も天国も成り立たず、人間も主の教え(戒め)に従うことによって主を愛することによる相互の愛によって教会と天国が成り立ちます。主に愛されるだけで主を愛さない者がどれほど多くいても教会も天国も成り立ちません。主は誰をも、主を信じる者も信じない者も、主を愛する者も愛さない者も皆平等に愛されておられますが、主を愛する者だけが教会をつくり天国をつくります。
このことは夫婦の関係においても同様です。夫婦も相互の愛がなければ成り立たず、夫だけ、或は妻だけが相手を愛しても相手が愛さなければ夫婦は成り立ちません。
従って一方的に愛されるだけでは、夫婦も教会も天国も成り立ちません。
主を愛することは主の人柄を慕い愛することではありません。これは子供がサンタさんを愛し慕うのと同じです。真に主を愛することは、主の戒めを守ることであると、決して何の疑いも生じないように、主御自身がヨハネ伝14-21で言われています。
配偶者への愛のない夫婦は偽りの夫婦であり、主への愛のない教会は偽りの教会であり、主への愛のない天国は人間が勝手につくりだす偽りの天国です。

主によらなければ隣人を愛することはできない

主によらなければ隣人を愛することはできない
人間の許の主の臨在は、人間が隣人を愛する時、その時初めて言われる。主は愛の中に居られるので、人間が愛の中に居れば居るほど、それだけ主は人間の許に臨在され、また主が臨在されればされるほど、人間と話される。人間は自分自身から考えることを除いて異なって知らないが、しかし人間には、ただ一つの思考の考えもなく、また人間自身からは最小の考えですら持たない。しかし地獄からの悪の霊達を通して悪と間違った信念を持ち、また主からの天使達を通して善と真理を持つ。人間にこのような流入があり、それ故、人間の生命があり、またそこから人間の霊魂と身体の交流がある。(天界の秘義904)
 
 
隣人を憎む者、隣人と姦淫する者、隣人から盗む者、隣人を騙す者、隣人を貪る者、隣人を軽んじ侮る者は悪魔と繋がっており主と繋がっていません。
しかし、人間は自分自身の欲望と間違った信念に導かれる限り、このような罪を犯してしまうので、悔い改めることが必要です。自分は悔い改めなくてもこのような罪は犯さないと多くの人が信じているでしょうが、しかし、これは自分は躓かないと信じたペテロと同じで、罪の誘惑を受けるなら誰でも例外なく罪を犯します。罪の誘惑はそれほど強力です。罪を犯さない者は主の律法が心に刻まれている人だけです。しかし律法を知っているだけでは心に刻まれません。日々の悔い改めの積み重ねによって少しずつ刻まれます。
このような悔い改めを行いつつ、隣人のために自分の仕事、使命、役割、ライフワークを誠実に自分自身の力で行い、しかもそれは主が自分を通して行なわれておられることを承認して、主を見上げることで主により隣人を愛することが出来ます。
しかし、悔い改めない者は主により隣人を愛することは出来ません。なぜなら、悔い改めない者がどれほど隣人を愛しても、それは自分自身の欲望のための手段として隣人を愛しているに過ぎないからです。即ち、何らかの利得か、自分が重んじられ尊重されるための手段であって、本質的には自己愛によって自分を愛しているに過ぎないからです。従って隣人に悪を為すことを悔い改めない限り隣人を愛することは出来ません。
ぜひ、皆さんの信仰に悔い改めを付け加えてください。

人間は救われたとしても完全ではない

人間が再生された時が決定されなかったこと、そのように「今や私は完成された」ことを言うことが出来ないことを除いては記述されることが出来ない。というのは、前に言われたように、各々の人間の許に、追い払われなければならない悪と間違った信念の無限の状態があるからであり、単純な状態だけでなく、更に現われないようなまとめられたものの様々なものがあるからである。或る種の状態において人間は更に完全な状態であることが言われることが出来るが、しかし他の無限の状態においてはそのように言われることは出来ない。(天界の秘義894)
 

人間の心の状態は無限の状態があり、その凡てが完全になることはありません。従って信仰も愛も、また律法を守ることも完全にはなれません。しかし完全でなくても、ある程度、即ち主が人間の中で働くことを妨害しない程度に人間の悪い欲望と間違った信念が清められれば、それが人間の救いです。もし信仰も愛も律法も完全なものにならなければ救われないとしたら誰も救われないでしょう。
天界の最良の天使であっても主の前には、汚れた者であるので、(ヨブ記、15.15、参照)まして人間が完全になることはありません。
しかし、だからと言って人間は汚れたままで良いと言うのではありせん。悪い欲望と間違った信念で汚れたままでは、主の導きをはねつけ拒否して地獄へ突っ込んで行くので、主の導きをはねつけない程度には最低清められる必要があります。即ち、人間各自が自分の使命、役割、或いはライフワークを果たすことを、悪い欲望と間違った信念が妨害しない程度に清められる必要があります。このように清められれば死後も主に導かれ永遠に清められることが出来ます。しかし悪い欲望と間違った信念に導かれ主の導きを拒否するなら、死後も主の導きを拒否し悪い欲望と間違った信念に永遠に導かれ、益々汚れを増し加えます。

自由と奴隷

人間が再生された時、やがて先ず自由な状態になる。その前は、奴隷状態であった。欲望と間違った信念が人間を支配する時は奴隷状態であり、善と真理への情愛が支配する時は自由である。どのようにその自由を持つかは、人間が奴隷状態の中に居る限り、決して理解することが出来ないが、しかし自由な状態になった時、初めて理解する。奴隷状態の中に居る時、即ち欲望と間違った信念が支配する時、欲望と間違った信念により屈服させられた人間は自由な状態の中に居ることを信じるが、しかしそれは粗雑な間違った信念である。というのは、その時、そこからの欲望と快楽の楽しいものにより連れ去られるからである。即ち自分自身の愛の楽しいものにより連れ去られるからであり、またそれらは楽しいものであるので、彼に自由なものの如く見えるからである。誰でも何らかの愛により導かれる時、どこへ連れ去られても、それに従う時、人間は自由であることを信じる。しかしそれらの楽しいもの中には、悪魔的な霊達が居り、その者達の仲間の中にその人間は居る。そして悪魔的な霊達は激しい流れのように人間を連れ去る。これを人間は最も自由なものであることを信じ、その上、もしこの状態が奪われたなら最も悲惨な生命になること、それどころか何も生命の中にないことを信じるほどである。そしてこのことは、人間が他の生命を与えられることを知らないことからだけでなく、更にもし、不幸、貧乏、および快楽を取り去ることによってでなければ、誰も天界へ行くことが出来ない印象を会得するからである。しかしこの間違った信念は多くの観察により私に知ることが与えられた。それらの観察については、主の神的な慈悲により後に続く箇所において述べよう。
人間は再生される前に、また善と真理への愛によって主により導かれる前に、決して自由な状態にならない。その状態の中に居る時、やがて自由が何かを初めて知ることと認めることが出来る。なぜならその時、生命が何か、また生命の真実の楽しさが何か、また幸福が何かを知るからである。人間は、再生される前に、善が何かを決して知らない。そのため時折、最大の悪を最大の善と呼ぶ。主により自由な状態の中に居る者達が、欲望と間違った信念の暮らしぶりを見る時、更に感じる時、目の前に地獄が開かれたのを見る者達の如くそれを忌み嫌う。しかし大部分の者達は自由な生活が何かを全く知らないので、ここにそれが何であるかを手短に言うことが許されている。本当に自由な生活、即ち自由は主だけにより導かれることである。
しかし、その生活が自由な生活であることを人間が信じること出来ない多くのものが起こるので、そのように、悪魔的な霊達の支配から自由にされることの理由のために為される試練をこうむるので、自由な生活を自己愛とこの世の世俗愛からの欲望を除いて他の楽しいものと良いものを知らないので、更に天界の生活の凡てのものについて間違った原理の信念を抱いたので、それ故に、単なる説明によっては生き生きとした観察によるほど、それを教えられることが出来ないので、それ故に、主の神的な慈悲により後に続く箇所においてそれらの観察を提示することが許されている。(天界の秘義892)
 

人間は自分の欲望を満たすことが出来ることが自由であり、満たすことが出来ないことが不自由であると考えますが、これは欲望の奴隷状態に居る者が考える自由です。
欲望には欲望の快楽や楽しさがあるため、自由を感じますが、やがてその快楽や楽しさの奴隷にされます。というのは、欲望の快楽や楽しさは人間の中ですぐ麻痺して、それが当然なものとなり、それがなければ不自由を感じるようになるからです。これは薬物中毒患者、アルコール中毒患者、またニコチン中毒患者を見れば解ると思います。彼らは薬物、酒、煙草が有って当たり前で無い時不自由を感じます。
欲望の快楽や楽しさだけを追求すれば、すぐその奴隷にされ、その奴隷状態に居る間は、主への愛と隣人への愛の楽しさ、即ち用を果たす楽しさ、隣人に役立つ楽しさは感じられず、働いたり奉仕することを奴隷のように感じます。
人類がこの欲望の自由を追求する限り、戦争、飢餓、汚染、異常気象等の不幸をこうむります。しかし真の自由を追求するなら神の国が来るでしょう。

信仰の根をおろすには

人間が聖言から聞いて、またそれを記憶が保つことは種を蒔くことである。しかし根付くことは、もし人間が仁愛の善を承認し、また受け入れるのでなければ決して根付き始めない。凡ての信仰の真理は信仰の善により、即ち仁愛の善により根付かされ、これを地に投げ入れられる種子の如く持つ。時期が冬の時である限り、即ち地が寒い時は、そこに確かに種が置かれていても根をおろさない。しかし、春の最初の時、太陽の熱が地を温めるや否や、その時、初めて種子はそれ自身で根をおろすことを始め、その後、地の中へ根を伸ばすことを始める。植え付けられる霊的な種子によっても、同様にそのことを有する。それは仁愛の善がある程度それを温めるより前に、決して根がつかない。それから初めてそれ自身で根をおろし、その後更にそれを伸ばす。(天界の秘義880)
 
 
主が言われることを聞いて信じるだけでそのように生きなければ信仰の根はおりず、やがて感覚からの間違った信念がそれを奪います。
これは丁度、パソコンの知識があってもパソコンを使わなければ忘れてしまうのと同じです。

モーセの杖とヨシュアの槍

 例えば、ここの「手を伸ばした」ことの、手と同様に他の凡てのものは、もし心が聖言の歴史的な文字通りの意味に引き止められるなら、決してこのような表象のものは、明らかにならないであろう。それ故、ユダヤ人達が凡ての礼拝を外なるものにだけ設置した時、それどころか、モーセの杖とヨシュアの槍に力を帰した時、彼らが聖言の真の理解から、また教会の儀式の真の理解からどれほど逸脱したか明らかである。しかし少なくともそれらの杖や槍の中に、薪の木よりも多くの力があるのではない。しかし、それらは主の全能を意味したので、また命令により手、或いは杖を伸ばした時、天界において主の全能が理解されたので、それ故、しるしと奇跡が行なわれたのである。(天界の秘義878)
 

決してモーセの杖とヨシュアの槍自体が神聖なものではなく、それらが意味したものが神聖なものであって、杖や槍自体を神聖なものとする時、それらのものを歪めます。これと同じように、信仰も律法も礼拝もそれ自体が神聖なものではなく、それらが意味する内なるものである主への愛と隣人への愛が神聖なものです。
従って、信仰と律法と礼拝の中に主への愛と隣人への愛がないなら、自己愛と世俗愛があって、それらのものを歪め汚します。即ち信心深い者に見られるため、善良な人間に見られるため、自分が尊重され尊敬されるため、或いは収入のため、或いは何らかの利得のための信仰と律法と礼拝になります。
しかし、凡ての人間に自己愛と世俗愛があるので、これらのものが悔い改められなければ主への愛と隣人への愛は与えられないので、悔い改めない者は皆自己愛と世俗愛で信仰、律法、礼拝を汚し冒涜します。
日々の悔い改めがいかに重要であるか、悔い改めのない信仰、悔い改めのない律法、悔い改めのない礼拝がどれほど歪められたものになるかがこのことからわかると思います。

人間が自分自身で行なう善と真理は汚れている

「箱舟」は、彼が悪と間違った信念により、即ち洪水の水により、凡ゆる方面で取り囲まれた束縛、或いは牢獄の中に居た時の再生前のその状態を意味する。それ故に、「箱舟に向かってノアに帰ったこと」は、「鳩」によって意味された善と真理が、再びノアに帰ったことを意味する。人間は善の凡てを自分自身が行なうことを信じる、これがノアに帰ったのである。なぜなら、人間は、善をこの世(世間)の目の前に見えるためか、天使達の目の前に見えるためか、天界に値されるためか、天界で最も偉大な者になるために行ない自分自身を考慮するからである。このようなものが、人間の固有性とその各々の考えに内在する。例え、外なる形において信仰の善と真理の如く見えても内在する。信仰の善と真理は、最内部から善と真理が内的にある。即ち主から人間の最内部を通して信仰の凡ての善と真理が流入する。これに対して、人間の固有性から、或いは功績から信仰の善と真理がある場合は、その時、内的には不潔なものであるが、しかるに外的には全く清いものに見える。(天界の秘義876)
 
 
人間が自分自身で行う善と真理は汚れたものが混じっており、それは決して善と真理と言われるものではなく偽善です。この自分の中の汚れたものが悔い改められなければ、主は人間の中に入ることが出来ず、いつまでたっても汚れた善と真理しか行うことが出来ません。なぜなら、この人間の中の汚れたものが主をはねつけるからです。

結婚の律法

真の結婚は一人の夫と一人の妻の結婚であり、またこのような結婚は天的な結婚の表象のものである。それ故に、このような結婚の中に天的な幸福があることが出来るが、しかし、夫と多くの妻達との結婚の中に決して天的な幸福はない。この主題では、霊的な人間はこのことを主の聖言から知り、信じ、またそこから多くの妻達との結婚は罪であることの良心を受け入れるが、これ以上は知らない。これに対して、天的な人間はこれを確認する数千のことを認識する。それ故、多くの妻達との結婚を忌み嫌う。(天界の秘義865)
 

結婚の律法を守らない者に結婚の幸福は与えられることが出来ません。
人間は律法の意味を知ることが出来ませんが、それぞれの律法には深い意味があり、人間を悪から守って幸福にするためにあります。
人間は律法を拘束するだけのもののように感じ忌み嫌いますが、それは人間が悪を愛しているからです。
人間が主を愛し隣人を愛し、また配偶者を愛するようになるためには、主と隣人と配偶者に悪を為すことを恐れて律法を守らなければ愛することは出来ません。

光(lumen)と光(lux)の違い

「アララテの山々」が、光を意味することは、「山々」の意味が愛と仁愛の善であることから(795番)、また「アララテ」の意味が光であり、その上再生された者の光であることから知られよう。新しい光、即ち再生された者の最初の光は、信仰の真理の知識からは決して生じないが、しかし仁愛から生じる。というのは、愛、即ち仁愛は炎の如くあって、信仰の真理はその炎の光の輻射の如く光を持つからである。再生されるべき者の中の光は信仰の真理からあるが、しかし仁愛からあり、信仰の真理そのものが仁愛からの光の輻射である。従って「アララテの山々」は、このような光を意味することが知られよう。この光が試練の後の最初の光であり、最初の光であるので、不明瞭な光である。従って光(lumen)と呼ばれるが、光(lux)とは呼ばれていない。(天界の秘義854)
 
 
luxは炎の光、lumenは炎の光からの輻射の光です。即ち光源の光と光源の光からの光の違いです。これはまた愛と信仰との関係でもあり、愛の炎がなければ、信仰の光、即ち信仰はないということです。即ち主への愛と隣人への愛がなければ信仰の凡てのものはなく、従って聖書の理解も聖言の内意の理解もなく、単に自己愛の炎による自己愛に都合のよい理解しかないということです。
このことから主への愛と隣人への愛のない信仰は凡て間違った信仰、偽りの信仰であると言えます。理論的な理屈では正しい信仰と思えても、その信仰に信仰の実である主への愛と隣人への愛がなければ正しい信仰とは言えません。

死後の世界を知ることは重要である

何であろうと人間が身体の生命の中で行なったことは、他生において引き続いて帰る、それどころか、何であろうと人間が身体の生命の中で考えたことが引き続いて帰ってくる。敵愾心、憎しみ、策略、更にその者達に対して憎しみを持った個人、また密かにたくまれたことが帰る時、現実に見える形で示され、その上、瞬間に見せられる。他生においてこのようにこの事柄を持つ。このことについて現実のものであることは、主の神的な慈悲により後に続く箇所において述べよう。また他の者達に対して持った思考も明瞭に明らかになる。なぜなら、他生においては、凡ての者達の思考を知覚する能力が与えられるからである。それ故、嘆かわしい状態があり、そこで隠された憎しみがあからさまに露呈する。悪い者達は、彼らの凡ての悪行と思考がこのように生き生きとしたものによって帰る。これに対して、善い者達は、このようにはなく、彼らの善の凡ての状態は最高の快いことと幸福と一緒に友情と愛のものが生き生きとしたものによって帰る。(天界の秘義823)
 

現代では殆んどの人が死後の世界について知りませんが、死後の世界について知ることは、人間にとって非常に重要なことです。死後の世界を知らなければ、死後の世界について考えることが出来ず、この世のことだけに生きることになります。
もし、死後自分が行く世界を知り、そしてどのようにして行くのかが解っていれば、目的を見失わずに人生を過すことができます。また聖言の内意は死後の生活も含めた永遠の祝福と真の救いのために学ぶのでなければ理解できません。
死後の世界は肉体の身体のない意識の世界ですので、丁度、夢の中の身体のように身体の外観しかない世界ですので、考えることが話すことであり、欲することが行なうことになります。従ってこの世のように外面だけの善良を装うことが出来ず本心がそのまま現われます。
それ故、日常生活での悔い改めを怠るなら、死後、主の導きよりも自分自身の意図と考えを優先するので、主により天界へ導かれることが出来ず、というよりは自分自身で天界を拒否し自分が日頃心の中で意図し考えたことをあからさまに実行して地獄へ突っ込んで行くことになります。
これに対し、日常生活で憎しみ、淫乱、貪欲を悔い改めた人は、それらよりも主の導きを優先するので主により天界へ導かれることが出来ます。

信仰上の既得権

間違った原理の信念(確信)は、凡ての霊的なものと天的なものを絶滅し、また言わば窒息させる。誰でももし、注意するなら多くの観察から知ることが出来るように、一度、何かの信念を会得した者達は、例えそれが最も間違った信念であっても、それに反対する何かの意見を聞くことを決して欲しないほど、それに頑強に固執する。このように例え、彼らの目の前に真理が置かれたとしても、決して教えられることを許さない。その後、もし間違った信念の見解を或る種の神聖さから尊ぶならもっと頑強に固執する。このような者達は、凡ての真理を退け、そして彼らが聞き入れるものは曲解し、またそのように幻想に注ぎ込む。(天界の秘義806)
 

どんな既得権でも一旦得た既得権を手放すことは難しいものです。子供がクリスマスにサンタさんからプレゼントを貰うことも、また公務員の既得権も決して手放しません。そのように、一旦、イエス様の身代わりの罰の救いを信じた者は、その救いを決して手放しません。主御自身が悔い改めよ、悪から離れよ、戒めを守れと言われても、決して聞かず、単に子供がサンタさんを慕うようにしか主を愛しません。主は私の戒めを守る者が私を愛する者であると、明瞭に言われているにもかかわらず、そのように真に主を愛しません。そして主に愛されるだけの救いを信じます。しかし愛は相互の愛でなければ成り立たないことは、夫婦の愛からも明らかです。夫のみ、或は妻のみが相手を愛し、相手が愛さないなら夫婦の愛は成り立たず、幸福な結婚生活を維持することは出来ません。そのように主に愛されるだけで主を愛さなければ天国に留まることは出来ないので、例え天国へ入ることが許されても人間は自分が真に愛しているものがある所へ行きます。即ち憎む者に復讐する楽しさ、姦淫の楽しさ、不義の利得を得る楽しさ、自分が重んじられ尊ばれる楽しさ、他人を軽んじ侮る楽しさ、他人を貪る楽しさのある所へ行きます。このような具体的な罪の悪が日常生活で悔い改められなければ、主を真に愛することは出来ません。また抽象的な自己中心から神様中心への悔い改めも、現実の日常生活の中での罪の悪の前では、全く役に立ちません。今、心の中に起こったこの意図、思いが悪魔からのものであることを認めた時、即座に主に報告し、その悪から離れられるよう祈る悔い改めでなければ役に立ちません。このような悔い改めを怠るなら、誰でもどんな信仰を持っている者でも悪魔からの意図と思いに導かれて地獄の最も深い所へ連れて行かれます。
自分の具体的な罪の悪を悔い改めない者は、主にどれほど愛されても主に背を向け自分の楽しいものがある地獄へ行きます。
今は多くの人が日曜日に教会へ行って礼拝してさえおればそれで主を愛していると信じていますが、これは昔のファリサイ人が律法を守ってさえおれば救われると信じたことと同じで、隣人への愛なき律法が彼らを救わなかったように、主への真の愛なき礼拝も決して誰も救いません。
現代の基督教会の最大の問題点は、主に愛されることだけが声高らかに宣べ伝えられ、主を真に愛することが全く宣べ伝えられていないことです。
どのようにすれば主を真に愛すること出来るのかと言うことが、聖書から学ばれ宣べ伝えられるなら、現代の(主への愛のない)教会も、充分に新しい(主への愛のある)教会になれるでしょう。
身代わりの罰を信じる信仰を信仰の到達点とすれば、どんな真理も見えなくなりますが、それを信仰の出発点とすれば主と隣人への愛のある真の信仰への道を歩むことが出来ます。

間違った信仰

真理を欲望に注ぎ込む時、即ち自己への愛とこの世への愛のために賛同して行なう時、信念が計り知れないほど増す。というのはその時、真理を歪め、同時に、それらを無数の方法で欲望との一致へ強制するからである。というのは、間違った信念の原理を取り入れる者、即ち自分自身で捏造する者は、それを彼の許の多くの科学的なものから、それどころか聖言からもまた強固にしない者が誰か居るだろうか? 如何なる異端もそのように適合して強固にしていないだろうか? またそれらを合致させないだろうか? それでもなお推断しないだろうか? なお加えて、様々に説明しないだろうか? また食い違わないように歪めないだろうか?
同様に、善の仁愛なしに信仰のみが救うことの原理を受け入れる者は、聖言からの教義の組み合わせを自由にしないか? しかもなお自由に繋ぐことをしないか? またそれにもかかわらず、主が言われたこと、
「木は実から知られる、...そして良い実を産出しない木は切り倒されて火に捨てられる。」マタイ、7.16-20、12.33、を少しも気に掛けず、決して注意せず、それどころか見ない。
肉欲に従って生きること、またそれでも真理が何かを知るだけで、全く善の行いなしでも救われることよりも、何が更に喝采されるだろうか? 人間が支持する凡ての欲望は、人間の意志の生命を作り、また人間が支持する凡ての原理、即ち間違った原理の信念は、人間の理解の生命を作る。これらの二つの生命は、真理、即ち信仰の教義の事柄を欲望に沈める時、一つのものを作る。各々の人間は、実際このように自分自身に霊魂を形作り、死後その生命がそのようなものに為される。それ故に、人間に真理が何かを知ることよりも重要なことは何もない。人間が真理が何かを知る時、その上、曲解しないように出来る時は、それほど、真理が欲望に注ぎ込まれることが出来ない。また致命的なものに為すことも出来ない。人間の心に永遠に至るまでの彼の生命よりも、更に義務を負うことが何かあるのか? もし、身体の生命の中でその霊魂を滅ぼすなら、永遠にそれを滅ぼすのではないか?(天界の秘義794)
 

自己愛の諸々の欲望が正しいと確信される時、内なる良心の声は聞こえなくなり隣人愛も無垢も滅ぼされます。これが欲望と結合した間違った信念であり、人間にとって非常に強固な信念になります。
この原型は小さい子供にもあって容易に信じます。例えばクリスマスにはサンタさんがプレゼントを持って来てくれると言うことを小さい子供に二三度言うと完全に信じます。このように欲望に結合できる間違った信念は容易に信じられます。
子供には無知の無垢があるのでこれは許される間違った信念ですが、大人の場合は子供のように無知の無垢に居ることが出来ないのでそうはいきません。例えば、憎む者に復讐すること、姦淫すること、不義の利得を得ること、自分が重んじられ尊ばれること、他人を軽んじ侮ること、他人を貪ることは、イエス様の身代わりの罰で凡て許されており、悔い改めなくても、またこれらの悪から離れなくても、従って律法を守らなくても救われることに何も差し支えないと言われると容易に信じます。
悔い改めなくても、また悪から離れなくてもそのままで救われるという教えほど人間を魅了するものがあるでしょうか? もちろん罪に打ちひしがれて自殺寸前の人にはこのように教えて罪の痛みを取る必要がある場合もあるでしょうが、しかしこれが教えの凡てであるとしたら大人がサンタさんのプレゼントを信じるのと同じです。子供にとってはサンタさんのプレゼントを信じることは無害ですが、大人にとっては有害です。なぜなら、大人は子供のような無知の無垢、即ち何も考えない無垢に居ることが出来ず、知恵の無垢、即ち正しく良く考える無垢にしか居られないからです。即ちこのように信じることは悔い改めて悪から離れる機会を奪うので、不正に悪く考えて心を汚し救われなくされるからです。
信仰から悔い改めることと悪から離れることと律法を守ることが分離される時、隣人愛も知恵の無垢も滅ぼされ間違った信仰、即ち間違った信念になります。なぜならこの時、信仰が人間の自己愛の悪を支持するものになるからです。
しかしどんな信仰であっても悔い改めることと悪から離れることと律法を守ることを否定せず肯定すれば正しい信仰になります。なぜなら、この場合は信仰の形がどのようなものであれ、その信仰の中に隣人愛、即ち善があるからです。これはつまり金でどのような形のものを作ろうが金に変わりはないのと同じです。しかし隣人愛のない信仰、即ち善のない信仰は鉛と同じで、鉛を金のインゴットのように作り金色を塗っても金にはなれません。
悪い欲望を信仰によって支持する時、人間は霊的な目を閉じ永遠の祝福を空想上の無価値なものと見なし、この世の一時的な祝福のみを追い求めます。その結果、欲望が果てしなく増大し破滅へ向かいます。
身代わりの罰の救いの信仰は、子供がサンタさんのプレゼントを信じるのと同様に、その信仰の中に主への愛と隣人への愛は全くありませんので、この信仰に留まることなく、悔い改めへ、また悪から離れることへ、そして律法を守ることへ進んでください。
福音書の中で主が何を言われているかをよく読んで、他の箇所は主の御言葉に合致するように解釈しなければ間違った信仰になります。
正しい信仰か間違った信仰かの違いは、その信仰の中に主への愛と隣人への愛があるかないか、即ちその信仰が主への愛と隣人への愛へ導くか否かで見分けられます。

不幸や悲しみは試練ではない

今日、霊的な試練は殆んど知られておらず、昔のようには許されていない。なぜなら、人間は信仰の真理の中に居ないからであり、そして実際全く人間は試練に屈するからである。これらの試練に代わって他のものがある。例えば、不幸、悲しみ、不安、これらのものは自然的なものと形体的なものの原因から生じ、身体の病気と欠点と同じく、それらは彼の快楽と欲望の生命を多少抑え、また砕き、そして思考を内なるものと敬虔なものへ向け、また高める。しかし、これらのものは霊的な試練ではない。霊的な試練は、主から真理と善の自覚(良心)を受け入れた者達の許、以外に与えられない。自覚(良心)そのものが試練の舞台であり、試練はその中へ働く。(天界の秘義762)
 

現代では主が人類の凡ての罪の身代わりとして罰を受けられたので、このことを信じる者は凡ての罪が許されて救われることが絶対の真理とされているので、また律法の真理は認められていないので、それどころか人間を罪に定めるものとして忌み嫌われているので、霊的な試練は与えられません。
なぜなら、身代わりの罰の救いの中には主への愛と隣人への愛が全くなく、単に自分の罪を他の者に負わせて救われようとする自己愛しかないからです。霊的な試練は隣人への愛とそれを支持する真理と自己愛とそれを支持する間違った信念の戦いなので、隣人への愛とそれを支持する真理のない者にこの戦い、即ちこの試練は与えられることが出来ないからです。
しかし律法を守ろうとする者達に、隣人へ愛とそれを支持する真理があり、この者達に隣人への愛とそれを支持する真理と自己愛とそれを支持する間違った信念の戦い、即ち試練があり、この戦いに勝利する時、自己愛とそれを支持する間違った信念が征服され霊的な人間に再生され救われます。但し、人に見せるために、或いは罰や非難を恐れて律法を守っても自己愛には勝てません。なぜなら、この時は、自己愛が自己愛と戦うからです。しかし隣人に悪を為すことを恐れて守る時、勝利出来ます。なぜなら、隣人に悪を為すことを恐れる恐れの中に隣人愛があり、それは人間の中の主なので、そしてその主が人間の中で戦われるからです。
律法は果たして人間を罪に定めるものでしょうか、もし律法が人間を罪に定めるなら、国家の法律が犯罪者を作ると言えるのではないでしょうか、法律がなければ確かに犯罪者は居なくなるでしょうが、これは犯罪を犯しても犯罪者にならなくなるだけであって犯罪がなくなるわけではありません。もし法律がなければ殺人も性犯罪も泥棒も裁くことが出来ず、自分で自分を守ることが出来ない弱者は犯罪の被害者になります。法律はこのような国民を犯罪者から守るためのものであって、法律が犯罪者を作っている訳ではありません。
律法も律法が罪人を作っている訳ではなく、律法は神の民の霊魂を悪、即ち悪の霊達から守るものです。主は律法を退ける者達を悪から、即ち悪の霊達から守ることが出来ないため、今も人類は憎しみと淫乱と貪欲に混乱させられているのです。

内面の野蛮性を解消するのが真の宗教である

内面の野蛮性を解消するのが真の宗教である
人間は継続する快楽とこの世への愛と自己への愛によって、従ってそれらの愛の継続する欲望によって自分自身に野蛮な生命を獲得した。それ故その結果として、人間の生命はこのような野蛮な生命を除いて他のものは何もなくなったのである。その生命は天的な生命と決して調和することが出来ない。なぜなら、世俗的なものを愛することと一緒に、天的なものを愛することは誰も出来ないからである。世俗的なものを愛することは下向きに目を向けることであり、天的なものを愛することは上へ向かって目を向けることである。誰も自分自身を愛することと一緒に隣人を愛することは出来ず、なお更、主を愛することは出来ない。自分自身を愛する者は、自分自身に仕えない凡ての者達を憎む。従って自分自身を愛する者は、自分自身よりも多く隣人を愛し、また主を凡てのものの上に愛する天的な愛と仁愛から最も遠く離れている。これらから人間の生命は天的な生命からどれほどかけ離れているか知られよう。それ故に、試練によって主により再生され、天的な生命に絶えず調和するように変えられる。これがこの試練が厳しいことの理由である。というのは、人間の生命そのものに作用し、襲い、損ない、および変えるからである。(天界の秘義760)
 
 
自己愛とこの世への世俗愛に居る者は自分さえ良ければ良く、自分を頂点に他の凡ての人達を自分の下で踏み台にする者でこれが野蛮人です。確かに、誰でも外面的にはそのようには見えず善良に見えますが、それは単に法律の罰と社会的な非難を恐れて法律と道徳を守っているからです。なぜなら、法律にも道徳にも神の律法は普遍的に含まれているので、法律や道徳を守ることも神の律法を守ることになるからです。しかし罰や非難を恐れて守ることは外面的に守ることであって、法律の罰の及ばない所、また社会的な非難を受ける恐れがない時、また心の中では守れず内面的には野蛮人のままです。
罰や非難を恐れることは自己愛であって、自己愛で法律や道徳を守る限り、昔のファリサイ人のようにどのように厳格に守っても、救われず、隣人愛も与えられず野蛮性も解消されません。
しかし、隣人に悪を為すことを恐れて法律や道徳を守る時、罰や非難の恐れがない時でも、また心の中でも守られ、その人を救い、また隣人愛も与えられ、また野蛮性も解消されます。なぜなら、この隣人に悪を為すことを恐れる恐れの中に隣人愛があって、この隣人愛で律法を守る時、隣人愛が形となって存在するものになるからです。
しかし、自己愛と世俗愛が人間の中で優勢である時、隣人愛は撥ねつけられ人間に与えられることが出来ません。その理由は、自己愛と世俗愛の愛にはそれらの楽しさがあり、それらの楽しさを得ることが目的となりそれを善と信じるからです。例えば、憎む者に復讐する楽しさ、姦淫の楽しさ、不義の利得を得る楽しさ、自分が重んじられ尊ばれる楽しさ、他人を軽んじ侮る楽しさ、他人を貪る楽しさ、このような楽しさが、隣人愛の楽しさを撥ね付けるからです。
天国とは隣人愛の世界ですので、どんな信仰を持っていてもその信仰に隣人愛がなければ、例え天国へ入ることが許されても自分自身の自由意志で天国から去り、自己愛の楽しさのある世界、即ち地獄へ突進して行きます。
従って、この自己愛の楽しいものが悔い改められ遠ざけられなければ、隣人に悪を為すことを恐れて法律や道徳を守ることは出来ません。
イエス様が自分の身代わりに罰を受けてくださったので、自分の犯した凡ての罪は許されていると信じれば、確かに罪の痛みは一瞬にして消えますが、人間の内面の野蛮性は何も変わりません。これは言うなれば、病気で苦しんでいる人に医師が痛み止めの注射を打つようなもので、どんな痛みも一瞬にして消えますが、病気が治ったわけではありません。勿論、痛み止めの注射が必要な人は居ます。しかし痛み止めの注射を打っただけで、病気が治ったと言って医師が病気の治療をせずに給料を受け取るなら詐欺です。これと同じように身代わりの罰を信じて罪の痛みがやわらげなければならない人も確かに居ます。しかし牧師がそれを信じさせただけで救われたと宣言して、罪を悔い改めることへ、また悪から離れることへ、そして律法を守ることへ導かずに給料を受け取るならこれも詐欺です。

宗教を利用して名誉や収入を得てはいけない

ノア、即ちこの新しい教会は最古代教会から保ち、エノクと言われた者達により、或る種の教義の形の中に集められ、また得られた教義の事柄を率直に信じたような者達であった。またこの教会の者達は、洪水前に信仰の教義の事柄を自分達自身の不潔な欲望に沈め、またそのように恐るべき信念を身に付け、滅びたネフィリムと言われた者達に対し全く異なった性質の者達であった。ネフィリムと言われた者達はどれほど教えられたにせよ、また諸々の間違った信念が間違っていると示されても、それらから離れることを欲しなかった。今日もまた、この二種類の性格、即ち性質の人間達が居る。しかし教義の事柄を率直に信じた者達は容易に再生されることが出来るが、これに反し教義の事柄を欲望に沈めた者達が再生されることは困難である。(天界の秘義736)
 

例え間違った教えを信じていても、それを利用して名誉や収入を得なければ真理に出会う時容易に理解出来ますが、宗教を利用して名誉や収入を得ている者達は、間違った教えの信念を強固にして、真理に出会ってもはねつけて理解せず魂を非常に危険な状態にします。

真理の理解は善の意志がなければない

真理の理解はそこにもし、善の意志がなければ決して与えられない。そこに善の意志がなければ、そこで真理の理解もなく、また意志のままに、そのように理解がある。(天界の秘義628)
 

悪い意志、即ち悪い欲望を持つ者達はどんな真理でも自分自身の悪い欲望を支持するように、また正当化するように解釈するので、決して真理を理解出来ません。
例えば宗教で収入を得たり、また金集めをしている者達は聖書の凡ての箇所を自分達の収入と金集めを支持し、正当化するように解釈するので聖書を正しく理解出来ません。
真理は愛、即ち主への愛と隣人への愛のために理解するのでなければ決して理解出来ません。
しかし人間には自己への愛の欲望しかないのんで、これが悔い改められなければ真理は理解出来ません。
悔い改めなくても、悪から離れなくても、律法を守らなくても、従って主への愛も隣人への愛もなしで、信仰のみで救われることを信じる者は、全く真理を理解出来ません。

愛のない信仰は信仰ではない

信仰のみが救うことを、かなり多くの者達が話すが、もし信仰に愛があるのでなければ、即ちもし、仁愛があるのでなければ、そしてそれから、信仰があるのでなければ、決して信仰はない。愛と仁愛は信仰を聖別するものであり、主は愛と仁愛の中に居られるが、これに反し、愛と仁愛から分離された信仰の中には居られない。分離された信仰の中には人間自身が居り、その人間の中には不潔なもの以外何もない。なぜなら、信仰が愛から分離された時、自分自身の称賛か、自分自身の利得のための目的があり、それが心の中にあって話すからである。(天界の秘義724)
 

愛のない信仰は、主への愛のない礼拝、隣人愛のない教会や社会、家族愛のない家庭、夫婦愛のない夫婦のようなものであって、このようなものは決して信仰でなく、礼拝でなく、教会でなく、社会でなく、家庭でなく、夫婦でもなく、従って偽りの信仰、偽りの礼拝、偽りの教会、偽りの社会、偽りの家庭、偽りの夫婦です。愛が信仰をつくり、教会をつくり、社会をつくり、家庭をつくり、夫婦をつくります。
しかし、人間には自己愛しかないので、そしてこの自己愛の楽しいもの、即ち憎むものに復讐する楽しさ、姦淫の楽しさ、不義の利得の楽しさ、自分が重んじられ尊ばれる楽しさ、他人を軽んじ侮り悪口を言う楽しさ、他人を貪る楽しさが人間の中で優勢である時、主への愛の楽しさも、隣人愛の楽しさも、夫婦愛の楽しさもはねつけるので、自己愛が悔い改められなければ、主は人間に主への愛も、隣人への愛も、配偶者への愛も与えることが出来ません。
悔い改めのある信仰が愛のある信仰です。
信仰さえあれば天国へ行けることを信じることは、結婚さえすれば幸福になれると信じることと同じであって幻想です。なぜなら、どんな信仰があっても隣人愛のないところはどこでも地獄であり、またどんなに立派な家に住んでいても夫婦愛のない結婚生活は地獄だからです。

人間と獣の違い

「凡ての清い獣」によって善への情愛が意味されることは、前に獣について言われ、また示されたことから知られよう。45,46,142,143,246番、情愛がそのように意味されたことは、人間は本質的に、また人間自身の固有性から見られたなら獣以外のものではないからである。彼に獣と同様な感覚、同様な欲望、同様な欲念、更にどのような情愛も同様にある。彼の善いものへの愛と最良のものへの愛もまた同様である。例えば、自分と同種の仲間への愛、子供達への愛と妻への愛。このように、確かに何も全く異なっていない。しかし、彼が人間であり、また獣より上の人間であることは、人間が内なる生命を持つからである。その内なる生命は獣には決して存在しない、即ち獣の許に決して存在可能なものではない。その生命は主からの信仰と愛の生命である。もしその生命が獣と共通に持つ個々の生命に内在していなければ、獣の生命と決して異なったものではなかったであろう。もし、例とするならば仲間達への愛がある。例え、自分自身のためだけに仲間達を愛したとしても、その愛よりも天的な、或いは神的な愛が内在しないならその愛は何か、このことからは彼が人間と言われることは出来ない。なぜなら、獣達の許に同様な愛があるからである。他の凡ての愛において同様である。それ故にもし、彼の意志に主からの愛の生命が内在しなければ、また彼の理解に主からの信仰の生命が内在しなければ、彼は決して人間でなかっただろう。彼が主からの生命を持つことによって彼は死後生きる。なぜなら、主は彼を御自身につなぐからであり、またそのように主御自身の天界において天使達と一緒に居ることが出来るからであり、そして永遠に生きることが出来るからである。また例え、人間が野獣の如く生きて、自分自身と自分自身に関係する者を除いて他の者を誰も愛さなくても、それでも主の慈悲は神的で無限なものであるので、彼を見捨てないで絶えず御自身の生命を天使達を通して彼に吹き込む。主の慈悲はこれほど大きい。例え、彼がそれを他の条件では受け入れなくても、それでもなお、主は彼が善か、或いは悪か、道徳的なものか、社会的なものか、世俗的なものか、形体的なものか、それ故、真理か、或いは間違った信念かどうか考えること、考慮すること、理解することが出来ることをもたらしておられる。(天界の秘義714)
 

人間は獣と同じような感覚と欲望と情愛を持っており、意志においては獣と異なりません。しかし人間は獣より大脳が発達したので、考え話すという理解においては異なっていると言えます。
この発達した理解において、霊的な真理を知り理解しそれに従うことで、意志において獣には与えられることが出来ない、主への愛と隣人への愛が与えられることが出来ます。
人間には理解に霊的な信仰の真理が与えられ、それによってまた意志に主への愛と隣人への愛が与えられることが出来るが、獣は与えられることが出来ないということが人間と獣の根本的な違いです。
しかし、現在ではこの霊的な信仰の真理が疎んじられ、自然的な真理と自己の欲望を支持する間違った信念が重んじられているので、殆んど誰にも霊的な信仰の真理、そして主への愛と隣人への愛が与えられません。というのは霊的な信仰の真理そのものである十戒の律法が人間を罪に定めるものとして忌み嫌われているからです。十戒の律法は主への愛と隣人への愛を強力に支持する霊的な信仰の真理そのものなのですが、これが忌み嫌われ否定されているので、自己への愛である人間の感覚的な欲望や形体的な欲望を支持する間違った信念が支持され、それが真理のように錯覚されています。
このように間違った信念が真理として確信されると自己への愛である憎む者に復讐すること、姦淫すること、不義の利得を得ること、たばかること、貪ることが正しいこととして支持されるのでばれなければそれらを実行します。
現在では殆んど誰も主と隣人に悪を為すことを恐れて律法を守っている人は居らず、単に法律の罰と社会的な非難を恐れて法律として、或いは道徳として律法を守っているに過ぎません。
しかしこのように守ることは真に内的に守ることではなく、単に外的に守るに過ぎず、法律の罰や社会的な非難を受ける恐れがなくなれば誰も守りません。
このことは現在の中東を見れば解ります。国家や社会が崩壊し法律の罰や社会的な非難を恐れなくなると殺人、性犯罪、強奪が平気で行なわれる、というよりは、それらの犯罪が正しいことのように信じて行なっています。
教会の混乱、地球全体の混乱、国家の混乱、社会の混乱、家庭の混乱等、凡ての混乱の原因は神の律法が顧みられいないことです。
よく律法を守ることでは義とされず救われないことが言われていますが、それでは律法を破る者、律法を犯す者が義とされるのかと言えば、決してそんなことはありません。殺人者、性犯罪者、泥棒が義とされるはずはありません。
律法は自己愛、即ち人に見せるため、或いは法律や道徳の罰を恐れて守るのでは義とされないのであって、主と隣人に悪を為すことを恐れて守る時、主への愛と隣人への愛が与えられ義とされます。というのは、法律や道徳の罰を恐れる恐れの中には自己愛しかないけれど、しかし主と隣人に悪を為すことを恐れる恐れの中に主への愛と隣人への愛があるからです。しかしその義は主の義です。なぜなら、人間の中には霊的な真理も主への愛も隣人への愛もなく、ただ主から人間に人間のものの如く与えられるからです。従って自分の義であることを信じる者は、間違った信念の中に居り間違った信念で主の義を汚し冒涜します。

試練の洪水で浮かぶ人と沈む人

試練の洪水で浮かぶ人と沈む人
洪水によって「ノア」と呼ばれた教会の人間が再生されることが出来る前に受けることを強いられた、それらの試練だけではなく、更に、洪水によって再生されることが出来なかった者達の荒廃が意味される。(天界の秘義705)
 

諸々の悪の洪水の試練によって浄化され救われる者と、その同じ試練によって荒廃され沈む者の違いは、それに備えて準備をするかどうかです。即ち、心の底の隙間から悪の洪水の水が染み込まないように、心の底には霊的なベトン(瀝青)を塗り、心の上部には霊的な光を入れるために霊的な窓を作り、そして心に霊的な食物である善と真理を蓄えるかどうかです。試練は誰にも来ます、そして何の準備もされていない心は悪の洪水に呑まれるとひとたまりもなく沈みます。
ノアは主の言葉に従った故に救われたのであって、従うという行為がなければ箱舟は作られず、従って救われなかったはずです。これは主の言葉に従うという行為の中に主への愛と隣人への愛が与えられるのであて、行為のない概念だけの信仰には与えられないからです。そして悪の洪水から救うのは主から与えられる主への愛と隣人への愛だけです。

浄化

他に、地獄には浄化もまたある。それらについて聖言において多くのことが記述されている。というのは、人間は実行された罪により、無数の悪と間違った信念を、他生に自分自身と一緒に持って来るからである。人間はそれらを積み重ね、また結び付ける。正しく生きた者達も同様である。この者達が天界へ上げられることが出来る前に、それらの悪と間違った信念は駆逐されなければならないのである。この駆逐が浄化と言われ、多くの種類があり、また浄化の期間も長く、また短くある。或る者はかなり短い期間で天界へ運び去られ、或る者は死後、直ちに天界へ運ばれる。(天界の秘義698)
 

主は人間が浄化される手段を備えておられ、主に導かれる者は悔い改めと試練によって浄化されます。主の愛はこのようなものであって、何も悔い改めない者を一方的に救うものではありません。
主に導かれない者は、悔い改めることが出来ず、また試練において荒廃されます。
主は悔い改めない者、また試練において荒廃する者を浄化することが出来ず、従って救うことが出来ません。もし悔い改めない者も試練において荒廃する者も浄化して救うことが出来るのであれば、ノア以外の者達も救うことが出来たはずです。
しかし、地獄での浄化は刑罰による浄化ですので、今生きている間に悔い改めて試練を乗り越えて浄化される方が遥かに良いと思います。

地獄について

人間は天界と同じく地獄についても、最も全般的な考え以外持たない。丁度、森の自分の小屋の外に出たことがない者達が、国について持つことが出来る考えのように、殆んど何も、考えがないほど不明瞭である。また彼らは国家、王国を知らず、まして支配者の性質を知らない。また更になお更、その社会と社会の諸々の生活を知らない。これらのことを知る前には、国があることについて最も全般的な考えを除いて出来ない。それは殆んど何も考えがないようなものである。このように天界と地獄についても、殆んど何も考えがない。それにもかかわらずその時、どちらにも無数のものがあり、また地上世界の何かのものに比べて無限に多くのものがある。
それらがどれほど数え切れないものであるかは、誰も決して同じ天界を持たないように、誰も決して同じ地獄を持たないことだけから知られることが出来よう。そして誰であろうと最初の創造からこの世に居た、凡ての霊魂はそこへ行き、また集められている。
主への愛と隣人への愛、なお加えて、そこからの楽しさと幸福が天界を構成していように、主への憎しみと隣人への憎しみ、なお加えて、そこからの刑罰と苦悩が地獄を構成している。
憎しみの類型は無数のものがあり、またその種類も無数のものがあり、同じ数の地獄がある。
天界が主により相互の愛によって一人の人間と同様な、一人の霊魂を構成するほど、またそのように、一つの目的を目指す。それは永遠に凡ての者達を保護することと救うことである。これに反し、地獄が自己により自己への愛とこの世への愛によって、即ち憎しみによって、一人の悪魔と同様な、一人の霊魂を構成するほど、またそのように、一つの目的を目指す。それは永遠に凡ての者達を滅ぼすことへ、また地獄へ落とすことである。彼らのこのような衝動は無数に認められた。それ故にもし、主が最小の瞬間に、更に凡ての最小のもののために、凡ての者達を保護しなければ彼ら凡ての者達は滅びるあろう。(天界の秘義692~694)
 

現代人にとっては、死後のことを考えることは宇宙の果てを考えるようなもので何も考えることが出来ません。
死後の世界について何も知らないので、悪の報いも知ることが出来ず、様々な悪の楽しさから離れることが出来ません。
死後の世界を知ることは正しい信仰と正しい生活をもたらせてくれます。

霊的な食物

善と真理は人間の真正の食物であることは各々の者に知られることが出来よう。というのは、それらを奪われる者は霊的な生命を持たず、霊的に死んだ者だからである。霊的な生命のない時、死の食物である悪と間違った信念からの魅力的な楽しいものがあり、更に、形体的な事柄、世俗的な事柄、および自然的な事柄からの魅力的な楽しいものがある。それらの食物に彼の霊魂は楽しまされる。それらは、本来霊的な生命を何も持たない。
また更に、前述のような人間は霊的な食物と天的な食物が何か知らないので、聖言において「食物」、即ち「パン」が、例えあれほど何度も言われても、地的な食物が意味されることを信じる。例えば、主の祈りにおいて「私達に日々の食物を与え給え」を身体の食物であることだけを信じる。また更に、その考えを拡大する者は、それ以外の身体に必要なものであることもまた肯定する。例えば、衣服、財産、および同様なものを肯定する。それどころか、主の祈りにおける食物の言葉の先行している箇所と後に続く箇所が天的なものと霊的なものだけを含み、また主の王国について述べられていることを明瞭に認め、更に主の聖言が天的なものと霊的なものであることを知ることが出来ても、それにもかかわらず、他の食物が意味されないことを鋭く主張する。
ここの主の祈りの箇所から、また他の同様な箇所から、今日の人間が如何に多大に形体的な者であるか、また聖言の中で言われているユダヤ人達の如く、物質的な意味で、また最も粗雑な意味で理解することを欲するか、十分に知られることが出来よう。主御自身が御自身の聖言において、「食物とパン」によって何が意味されるか、明瞭に教えておられる。ヨハネ伝において食物について次のように述べておられる。
「イエスは言われた。消える食物のために働かないで、永遠の生命の中へ保つ食物のために働くように、それを人間の神の子があなた達に与える。」6.27、(天界の秘義680)
 

悔い改めない人間は、霊的には人間を殺してしまう死の食物に魅了されます。丁度、エデンの庭園で感覚の象徴である蛇にそそのかされて食べたようにそれを食べます。人間が感覚にそそのかされる時、人間を霊的に生かす食物よりも、霊的に殺す食物に魅力を感じます。例えば、隣人愛の楽しさよりも憎む者に復讐する楽しさ、夫婦愛の楽しさよりも姦淫の楽しさ、正しい利得よりも不義の利得に魅了されます。
人間を霊的に生かす食物は、人間を霊的に殺す食物を食べることをやめなければ、即ち悔い改めなければ見出すことは出来ません。悔い改めない者は、いつまでも死の食物を食べ続け、自分の霊魂を殺す、即ち地獄的な霊魂にします。そしてこのことが神から離れる原因です。人間は死の食物を食べたからエデンの庭園から追い出されたのであり、エデンの庭園から追い出されたから死の食物を食べたのではありません。エデンの庭園で神と共に居る時、死の食物を食べたのです。ここのところを間違えると、決して真に悔い改めることは出来ません。これを間違えると神から離れていることだけを悔い改め、単に礼拝や祈祷会に行けないことだけを悔い改めます。しかし神から離れていることは結果であって、真の原因は死の食物を食べることですので、結果だけで神にいくら近付いても原因である死の食物を食べることが悔い改められなければ真に神に近付くことは出来ません。

主との契約

礼拝を外なるものに置く者達、また彼ら自身と彼らが欲し、また考えるものに礼拝を置く者達は、それらを神々として尊重し、また崇拝するに応じて主から自分自身を分離するので、それらについて「契約を虚しく返す」ことが言われている。例えば、エレミヤ書において、
「彼らは、彼ら自身の神エホバの契約を見捨て、また他の神々に彼ら自身を曲げ、またそれらに仕えた。」22.9、(天界の秘義666)
 

形だけの礼拝をする者、即ち人に見せるために礼拝をする者は、昔のファリサイ人が形だけ律法を守ったのと同じです。また現世的なもののために礼拝をする者は、主を礼拝しているつもりでも実際は現世的なものを神としているのでこの世の君を礼拝しています。このような礼拝は主との契約を放棄することです。
主を愛する故に礼拝し、また隣人を愛する故に律法を守ることが主との契約をまっとうすることです。
しかし、主を愛することは主の戒めを守ることです。なぜなら主は「私の戒めを保ち、それを守る人は、私を愛する人です」ヨハネ伝14-21と言われているからです。主の戒めを守らないで礼拝だけ守ることは形だけの礼拝です。
人間の自己愛の悪魔は法律の罰や道徳的な非難によって、まして兵器によっては閉じ込められることが出来ず、ただ主の戒め、即ち律法によってのみ閉じ込めておくことが出来ます。しかし現在は殆どの人が主の律法を放棄しているので、それどころか忌み嫌っているので、自己愛の悪魔は解き放たれて自由に活動しています。地球温暖化や戦争の混乱の原因は凡て自己愛の悪魔が解き放たれているからです。従って科学技術だけでは温暖化を止めることは出来ず、また兵器によって戦争を止めることは出来ません。回り道のようではあっても人類の一人一人が主の律法を受け入れて隣人に悪を為すことを恐れて守ることがなければ温暖化も戦争も止まりません。

信仰の知識と信仰の違い

信仰は聞くことによってあることは、今日の教会において熟知されていることであり、今日の信仰はこのような事情の下にある。しかしそれは信仰の知識(概念)であって、決して信仰ではない。聞くことは知識だけのものであるが、しかし信仰は(真理の)承認である。しかし(真理の)承認はもし、人間の許に信仰の最も重要なものである仁愛、即ち隣人への愛、また隣人への慈悲があるのでなければ、誰かの許に決して与えられることは出来ない。仁愛がある時、やがて承認があり、即ちその時、信仰がある。
これと異なって理解する者は、信仰の知識から多大に、或いは天から地が離れているように遥かに離れている。信仰の徳である仁愛がある時、やがて信仰の真理の承認がある。それ故に、人間が科学的なもの、理性的なもの、および知的なものに従って再生される間に大地、即ち人間の心が仁愛を受け入れることへ準備されることが終結のためにある。その後、仁愛から、即ちその生命から考え、また行なう。その時、人間は改心された者、即ち再生された者になり、その前は再生された者ではない。(天界の秘義654)
 

信仰の知識を聞くこと、或いは読むことがそれだけで終わるなら心の表面、或いは脳で言えば大脳皮質の表面に少し影響を与えるだけでやがて忘れられます。しかし信仰の知識を以って悔い改めるなら心の深部、或いは脳の深部に影響を与えその知識は忘れられません。このように悔い改めが為される時、主を受け入れる準備が為され主により仁愛、即ち隣人愛が与えられます。このように為されて初めて真理を承認して信仰の知識が信仰となります。自己愛が優勢である時は、決して真理を承認出来ません。なぜなら、自己愛の欲望が真理をねじ曲げて自分に都合良く解釈するからです
主を受け入れる前に悔い改めは不可欠であって、もし悔い改められていない心に主が来られ仁愛、即ち隣人愛を与えるなら、人間は隣人愛をあざけり、はねつけ、滅ぼします。丁度、主の時代のユダヤ人達のように主を嘲弄し十字架に架けたように、心の中で主を嘲弄し十字架に架けます。

ベトンを心に塗れ

「ベトン(瀝青)をその内側と外側に塗れ」によって、欲望の洪水からの保護が意味されることは、前に言われたことから知られよう。というのは、この教会の人間はその理解に関して、前以て改心されなければならなかったからである。それ故に、凡ての改心の働きを損なう欲望の氾濫から保護された。(天界の秘義645)
 
 
人間は主の保護がなければ欲望の洪水、即ち欲望の誘惑を受ける時たやすく屈します。
主は法律によって、また道徳によって、そして律法によって人間を悪の欲望の洪水から保護していますが、もし人間がこれらのものを放棄するなら、全く悪の欲望の洪水に飲まれてしまうでしょう。
しかし、法律と道徳によっては外的に守られるだけで、内的には守られません。主の律法を主と隣人に悪を為すことを恐れて守る者のみが内的にも守られます。このように主により悪の欲望の洪水から守られなければ、真理の理解は不可能です。なぜなら、どんな真理でも自分の欲望に都合よく解釈するからです。
聖書を遠い昔の物語として読むだけであるなら、聖書の恩恵をそれほど受けることは出来ませんが、今の自分自身の心に当てはめて読むなら多大な恩恵を受けることが出来ます。聖書のここの箇所も悪の欲望の洪水を防ぐ方法が語られており、人間が主の御言葉に従って心にベトンを塗るなら悪の洪水から守られます。即ち日常生活において心の隙間から、日々様々な悪い欲望や悪い考えが流入しており、もしそれを放置するなら、隙間が破れとなり悪の洪水に飲まれます。しかし、悪い欲望と悪い考えが流入したことを認めた時、即座に主に祈り悔い改めれば心の隙間はふさがれ、それ以上の悪の流入を防ぐことが出来ます。これがベトンを塗ることだと思います。

主に導かれなければ人間は自滅する

もし、主御自身の神的な慈悲によりこの世に主が来られなかったなら、全人類はこの地上で滅んだであろう。なぜならその時、教会は最悪の中にあって、殆んど善と真理が残っていなかったからである。その理由は、本質的に見られた人間は獣より遥かに卑賤な者であるからである。もし、人間が自分自身にそのままにされたなら、自分自身と凡ての者達の破滅の中へ突進する。なぜなら、自分自身と凡ての者の破壊を除いて他のものを何も求めないからである。人間の秩序は一人の者は他の者を自分自身の如く愛することであったが、しかし今や、各々の者は他の者達よりも自分自身を愛し、従って他の凡ての者達を憎む。これに対して、獣は全く異なっている。獣の秩序はその生きることに従っている。このように完全に秩序に従ってその秩序の中に居る。これに反し人間は、完全に秩序に反している。それ故にもし、主が人間を憐れまれなければ、また人間を天使達を通して主御自身に連結されなければ、人間は一分も生きることが出来ない。このことを人間は知らない。(天界の秘義637)
 

人間が自分自身にそのままにされたなら、即ち法律の罰も社会的な非難も一切考慮しなくてもよい状態にされたなら、主の律法が心に刻まれている人を除いて、誘惑を受けると例外なく殺人と性犯罪と強奪に突進して魂を滅ぼします。
主はこのような人類を憐れみ、律法によって隣人愛へと導いておられますが、律法をはねつける者には道徳によって社会的な非難を受ける恐れによって外的な隣人愛へ導かれ、社会的な非難を恐れない者には法律の刑罰によって強制的に隣人に害を為さないように導いておられます。主がこのように導かれない限り人類は自滅します。
法律、道徳、律法は人間の財産、身体、生命、魂を犯罪者や不道徳な者、そして悪の霊達から守ってくれるものです。

主は100%律法を守れと言われたのではなく力を尽くして守れと言われた。

主は100%律法を守れと言われたのではなく力を尽くして守れと言われた。
 
 
その状況は、人間の許に真理の理解と善の意志は決してなく、最古代教会に居た者達の許にですらなかった。しかし彼らが天的な者達に為される時、彼らの許に善の意志と真理の理解があるように見える。しかしそれは主だけのものであり、彼らはそのことを知り、承認し、および認識する。更に天使達の許でも同様である。ここまでもこのようにあることを知り、承認し、および認識しない者は全く何も真理の理解と善の意志を持たないのである。
人間の許に誰であれ、また天使の許に誰であれ、例え最も天的な者であっても、その固有性は間違った信念と悪以外ではない。なぜなら、諸天界も主の前で清くないこと、また凡ての善と凡ての真理は主だけのものであることが熟知されているからである。しかし、人間と天使は完全にされることが出来るほど、主の神的な慈悲により完全にされ、真理の理解と善の意志を彼のものの如く所有するが、しかしそれを持つことは単なる外観である。各々の人間は完全にされることが出来、またそれ故に、各々の者の人生の行動での実現に従って、しかし先祖達の遺伝の悪からのその植え付けられたものに適合して、主の慈悲のこの贈り物を受け取ることが出来る。(天界の秘義633)
 
 

人間が真理を理解し語り、また善の意志を持って行うこと、それどころか人間が生きていること自体、単なる外観に過ぎず、真実は主御一人が真理を語り善を行い生きて居られのであって、このことを理解し承認しなければ決して真理を理解し善を意志することが出来ません。しかし人間は自分自身で真理を理解し善を行い生きているとしか感じないので、そして人間はこれほど強力な外観の中に居るので、外観上自分自身の力で真理を理解し語り、また自分自身の力で善を意志し行わなければ、即ち自分自身の力で悔い改めて律法を守るのでなければ、しかし真実は主が自分の中でそのようにされていることを承認して主を見上げるのでなければ、決して自分自身の悪から離れることは出来ません。しかしどんな天使も人間も100%悪から離れることは出来ないので、100%離れなければ救われないと信じることは間違いです。どんな毒物であっても薄めれば無害になるのであって、必ずしも100%取り除く必要はなく、また取り除くことも出来ません。人間の悪も主と隣人に無害であれば一応可です。もし悪の100%の除去が救いの条件なら誰一人救われる者はいないでしょう。主があなた方の義が律法学者やファリサイ人の義に勝らなければ決して天国へ入れないと言われたのは、律法を人に見せるために守るのでは救われないことを言われたのであって、決して100%守れと言われたのではありません。しかし主と隣人に悪を為すことを恐れて、即ち主と隣人を愛するために力を尽くして律法を守れと言われたのであって100%守ることを命じたのではありません。

その道を腐敗させた

ここの節の内意は、凡ての人間は誰であれ教会のあった地において「その道を腐敗させた」ことであり、そのように真理を理解することがないようになったことである。なぜなら、凡ての人間が形体的な者に為されたからである。前の節における者達だけが形体的な者達に為されたのではなく、更に「ノア」と呼ばれた者達もまた形体的な者に為されたのであった。この者達については後に続く節で特に述べられる。なぜなら、彼らは再生されることの前にはこのような者達であったからである。これらの状態が先行する。なぜなら彼らの再生が後に続く節で述べられているからである。また教会のものが殆んど残っていなかったので、この場合「神」が言われ「エホバ」は言われていない。
この節においては真理が何もなかったことが意味され、次の節においては善が何もなかったことが意味されている。それらは「ノア」と呼ばれる者達の許の残りのものの中、更に、彼らが知っていた教義のことがらの中だけにあった。なぜなら、残りのものなしに再生は与えられないからである。しかし、真理の理解があったのではない。真理の理解はそこにもし、善の意志がなければ決して与えられない。そこに善の意志がなければ、そこで真理の理解もなく、また意志のままに、そのように理解がある。最古代人達の許には、主への愛があったので善の意志があり、またそこから真理の理解もあったが、しかし、この理解は意志と一緒に滅んだ。しかし、ノアと呼ばれる者達の許に或る種の理性、また自然的な善が残った。それ故に、再生されることもまた出来たのであった。(天界の秘義628)
 

凡ての人間には罪があるので、即ち憎しみ、淫乱、貪欲、自尊心、貪りがあるので、これらの罪が悔い改められなければ、例え聖書を読んでも聖書の御言葉を自分の罪の悪い欲望に都合よく解釈するので、また聖書の字義はどんな悪も正当化出来るので、聖書が歪められて理解されます。そしてこの歪められた理解によって道を歩むとき、道が腐敗されます。
今の時代も丁度この時代と同じで、主への愛と隣人への愛に満ちた「十戒の律法」が罪に定めるものとして忌み嫌われ、また悔い改めも軽んじられています。

実による判断

上記の聖言と聖書の非常に多くの他の箇所から、聖言は人間の許の外観に従って語ったことが知られることが出来よう。聖言の中のそれらの外観に従って、諸々の間違った信念の原理を確信することを欲する者は、聖言の中の無数の外観から確信することが出来る。(天界の秘義589)
 
 
聖書の一部の言葉を使って自分自身のどのような悪い欲望も正当化することが出来、殺人、姦淫、泥棒、詐欺、それどころか他民族を略奪し虐殺することも正当化出来ます。更に予定説、信仰のみの救い、金集めの宗教等どんなものでも正当化出来ます。しかしそれらは凡て間違った解釈です。なぜなら、それらの解釈の中には、主への愛と隣人への愛が全くないからです。言っていることを聞くだけなら、正しいものの如く聞こえますが、主が教えておられるように実によって、即ち主への愛と隣人への愛があるかないかで判断しなければ間違えます。

主の慈悲は人間の凡ての知性を無限に越えている

主の慈悲は人間の凡ての知性を無限に越えているので、それが何かは誰も知ることが出来ない。しかし人間は人間の慈悲が何かは知っている。それは後悔することと残念に思うことである。また慈悲と他の者の情愛について、もし人間により理解される考えでなければ、どのようなものであるか知る以外に、決して何かを考えることは出来ないし、そのように教えられることも出来ない。このことが人間的な特質が、たびたびエホバについて、即ち主の特質について言われる理由である。例えば、エホバ、即ち主は罰する、誘惑に引き入れる、滅ぼす、怒ることが言われる。それにもかかわらずその時、主は、決して誰かを罰しない、決して誰かを誘惑に引き入れない、決して誰かを滅ぼさない、また決して怒らない。それ故に、このようなことが主について絶えず言われる時、後悔と悲嘆もまた主に属性付けられることが帰結される。なぜなら、一つの属性の割り当ては他の属性の割り当てから続いて来るからである。(天界の秘義588)
 
 
聖書の御言葉は、例えによって記述されているので、字義だけで解釈すると間違った解釈がなされます。主の慈悲についても人間的に書かれているので、生贄(献金)を捧げなければ許してもらえないのではないか、礼拝を欠席すると罰せられるのではないかと考えがちですが、主の慈悲は人間の考えを越えた永遠で無限のものですので、ただただ人間が救われるために、そのための手段を至れり尽くせりで与えておられます。従って主の慈悲は生贄(献金)を捧げなければ許さない、礼拝を欠席したから罰するような有限な人間的慈悲ではありません。そもそも主は人間の生贄(献金)や礼拝を必要とはされておらず、ただ人間が悔い改めて悪から離れ自分自身の仕事、役割、使命、用を誠実に果たすことを必要とされておられます。なぜなら、人間がこのようになった時、主にも人間にも安息があるからです。
それと罰は悪を為す人間が自分で招いているのであって、決して主が罰しているのではありません。むしろ主は人間が罰せられないよう罰を軽減されておられます。それどころか人間が心の中で意図するだけで実行しない悪は決して罰せられないようにされています。これは人間が罰によって悪から離れるのではなく、自分の自由意志で、それ故主への愛と隣人への愛によって悪から離れる機会を与えるためです。なぜなら、このように悪から離れるのでなければ人間は決して悪から離れることが出来ないからです。

主の慈悲

エホバの慈悲、即ち主の慈悲は、主により人類に対して為される全体的なものと個別的なものとを含む。その慈悲は人類全体を哀れむようなものであり、また人類の各々の者のその個別的な状態に従って哀れむようなものである。それ故に、主はその者が罰せられることを許すその状態を哀れみ、またその者に善が享受されることをもたらすその状態を哀れむ。罰せられることは刑罰が凡ての悪を善へ転じるので慈悲であり、また人類の誰も善の何かのものを受けるに足らないので、善が享受されることをもたらすことも慈悲である。というのは、全人類は悪であるからであり、また人類の各々の者は自分自身では地獄に向かって突進するからである。それ故に、人類が地獄から取り出されることは慈悲である。主は誰も人間を必要としないので、主の慈悲以外で他の人間が居るのではない。主は人間を悲惨と地獄から取り出すので、それ故、それが慈悲と言われる。従って、主の慈悲は人類のためにそれぞれの者に応じて前述のようなことを為す。そして人類は前述のような者達なので、凡ての者達に対して愛の働きがある。(天界の秘義587)
 

主は人間が自由意志で悪から善へ転じるように、そして救われるように、最適な条件を整えておられ、人間が生存できる環境を整え、必要なものを備え、聖言を与え悔い改めを教え、且仕事、役割、使命、用を与え救いに必要なものを凡て備えておられます。
これらのものは主の無条件の慈悲によるもので、人間がこれらのものを自由意志で活用するなら、誰でも悪から善へ転じられ救われます。
隣人に悪を為すことを恐れて神の教え(戒め)を守るなら、また人間が自分自身に与えられた仕事、役割、使命、用を誠実に果たすなら、人間は悪から離れ善へ転じられ神の像と似姿が回復され救われます。
しかし人間は自由意志で悪を愛するので、即ち悪の楽しさである、憎む者に復讐する楽しさ、姦淫の楽しさ、不義の利得を得る楽しさ、自分が重んじられ尊ばれる楽しさ、他人を軽んじ侮り悪口を言う楽しさ、他人を貪る楽しさを愛するので、自分自身の自由意志で地獄へ進んで行きます。それ故、悔い改めが必要です。
人間が自分の自由意志で地獄へ向かって進んでいる者を、神は強制的に天国へ向けることは出来ません。なぜなら、もしそのようなことをすれば、人間の魂を殺すことになるからです。人間は自由意志があるから人間であって、自由意志を奪うことは人間の心を殺すことです。
従って人間は自分自身の地獄への歩みを止め、天国へ方向転換するのは自分自身の自由意志でしなければなりません。しかし人間は自分自身では地獄へ向かう以外出来ないので、悔い改めも方向転換も主が自分の中で為されておられることを承認して主を見上げなければなりません。
もし宗教がこのような悔い改めを教えないなら、どのような宗教的な真理であっても凡てのものが人間自身の悪い欲望のための手段となり、汚され冒涜されネフィリムを作り出します。従って悔い改めなしに聖書は決して理解出来ず、単に自分の欲望に都合よく理解することだけしか出来なくなります。
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