身体と感覚的な快楽(喜び)を享受することは、決して誰にも禁じられていない。即ち土地と富の所有の快楽(喜び)、国家の名誉と地位の快楽(喜び)、夫婦の愛の快楽(喜び)、また幼児達と子供達への愛の快楽(喜び)、友情の快楽(喜び)、また仲間達との親交の快楽(喜び)、聞くこと、即ち快い歌と演奏の快楽(喜び)、見ること、即ち美しいものの快楽(喜び)、それらは多種多様なものがある。例えば、美しい衣装、豪華な住まいと家具、美しい庭園、また同様な調和からの楽しいものがある。また匂いをかぐこと、即ち香りの芳香の快楽(喜び)、味覚の快楽(喜び)、即ち食物と飲み物からの甘味と有用性、また触れることの快楽(喜び)、というのは、言われたように最外部の情愛、即ち形体的な情愛は内的な情愛から由来してあるからである。
内的な情愛は生命のあるものであり、凡ての情愛は、善と真理からその楽しいものを得、また善と真理は仁愛と信仰からその楽しいものを得、その時、主から得る。従って主の生命そのものから得る。それ故に、情愛と快楽(喜び)は、主の生命から生きている。またそこから起源を得る正しい快楽(喜び)なので、決して誰にも否定されない。それどころか、そこから起源を得る時、やがてそれらの楽しいものは、そこから起源を得ない楽しいものに無限に勝る。(天界の秘義995)
内的な情愛は生命のあるものであり、凡ての情愛は、善と真理からその楽しいものを得、また善と真理は仁愛と信仰からその楽しいものを得、その時、主から得る。従って主の生命そのものから得る。それ故に、情愛と快楽(喜び)は、主の生命から生きている。またそこから起源を得る正しい快楽(喜び)なので、決して誰にも否定されない。それどころか、そこから起源を得る時、やがてそれらの楽しいものは、そこから起源を得ない楽しいものに無限に勝る。(天界の秘義995)
身体と感覚的な快楽(喜び)は、これを目的とせず、仕事、使命、役割等の用を果たす手段として、或いはそれらを果たした結果として享受することは、禁じられるべきではありません。なぜなら、このように享受する時、最内部に居られる主から受けるからです。しかし身体と感覚的な快楽を目的として追求するなら、その中には自己愛しかないので、たちまち不健全なもの、或いは忌まわしいものになります。