10-7664~7668意訳「天界の秘義」出埃及記Ⅰ
7664.「なぜなら、私達のエホバの祭りだからです」が、主への礼拝の全体的なものと個別的なものを意味することは、「祭り」の意味が喜ばしい心からの礼拝であることから知られよう。そのことについては7093番に示された。それが主への礼拝である。というのは、聖言の中の「エホバ」は主であるからである。1343, 1736, 2921, 3023, 3035, 5663, 6303, 6905, 6945, 6956番を参照、それが礼拝の全体的なものと個別的なものであることは直ぐ前の箇所に「子供達と老人達、息子達と娘達、また羊の群れと牛の群れと一緒に行く」ことが言われていることから明らかである。
7665.「また、彼は彼らに言った」が嘲弄を意味することは、「そのようにエホバはあなた達と一緒に居られるであろう。私があなた達とあなた達の幼児達を行かせる時」とファラオが言った言葉から知られよう。その言葉はあざけりである。
7665a.「そのようにエホバはあなた達と一緒い居られるであろう。私があなた達とあなた達の幼児達を行かせる時」は、もし害する者達が離されるならイスラエルの子孫達の許に主が居られる如くあろうを意味することは、「そのようにエホバがあなた達と一緒に居られるであろう」の意味が主があたかも彼らの許に居られるようであるであることから知られよう。エホバが主であることは直ぐ上の7664番に認められよう。また「行かせること」の意味が離れることであることから、また「幼児達」の意味が家族、或いは父の家を構成する者達であることから知られよう。というのは、ここの「幼児」は直ぐ前の節に言われている「子供達、息子達、および娘達」であるからである。
7666.「あなた達の顔の許の悪を見よ」が願望の中に善がないことを意味することは、「顔」の意味が情愛とそこからの思考に関する内的なものであることから知られよう。そのことについては358, 1999, 2434, 3527, 3573, 4066, 4796, 4797, 5102, 5165, 5168, 5695, 6604番に示された。また「顔」は情愛であるので願望でもまたある。それ故、「あなた達の顔の許の悪」は情愛の中に、或いは願望の中に善がないことを意味する。
7667.「否、そのようにしてはいけない」が拒絶を意味することは説明なしに知られよう。
7668.「請う若者達が行け、またあなた達がエホバに仕えよ」が、主を礼拝するために確信された真理の中に居る者達が離されなければならないことを意味することは、「行け」の意味が上の7658番のように離されなければならないであることから知られよう。また「若者達」の意味が確信された真理であることから知られよう。そのことについては後に続く箇所で述べよう。また「エホバに仕えること」の意味が上の7654, 7664番のように主を礼拝することであることから知られよう。
「若者達」が確信された真理の中に居る者達であることは、「息子、少年、若者、男、老人」によって、その順序の知性と知恵が意味されるからである。天界においてそのようなものがそれらに代わって意味される。というのは、天界に居る者達は霊的な考えの中に居るからであり、純然たる自然の考えとこの世の考えはその中に入ることが出来ないからであり、即刻、取り去られないわけにはいかないからであり、また天界の知恵と天使的な思考に類似したようなものに変化するからである。それ故、霊的な意味において「息子、少年、若者、男、老人」によってその者達は意味されることは出来ないで、霊的な相応がある知性と知恵が意味される。それが意味されることはそれが言われている箇所の聖言の内意から明瞭に明らかである。
[2]聖言の中の「若者」によって知性がある者達、或いは天使的な抽象的な考えに従った知性が意味される。また知性は彼らによって意味されるので、更に確認された真理もまた意味される。なぜなら、それが知性であるからである。更に原語で述べられているここの「若者」の言葉もまた力強いことと力から引き出されており、それは善からの真理であり、従って確認された真理である。それ故、その名は主に帰せられる。ゼカリヤ書において、
「剣よ、私の羊飼いに対して、また私の近くの男(若者)に対して立ち上がれ、羊飼いを打て、そして羊が散らされなけばならない。」これが主について言われていることはマタイ伝、26.31、に認められよう。また同様にエレミヤ書において、
「背いた娘よ、いつまでさ迷うのか? エホバは地に新しいものを創造された。女は男(若者)を囲む。」31.22、
[3]「若者」は他の原語の言葉で知性として、従ってその真理として記述されている。アモス書において、
「私はエジプトへの道の途中であなた達に疫病を差し向け、あなた達の若者達が剣で殺されること為し、あなた達の馬を捕えることによって、」4.10、ここの「エジプトへの道」は歪められた科学的な(事実に基づく)ものとして「殺された若者達」はそこからの損なわれた真理として、「馬を捕えること」は」惑わされた知性として記述されている。
[4]同書において、
「彼らはエホバの聖言を探し求めて海から海へ放浪し、また北から東まで走り回るであろうが見つけられないであろう。その日には美しい乙女達と若者達は日照りで気を失うであろう。」8.12, 13、ここの「美しい乙女達」は真理への情愛として、「若者達」は知性として、「日照りで気を失うこと」は真理が奪われることとして記述されている。それ故、「彼らはエホバの聖言を探し求めて走り回るであろうが見つけられないであろう」と言われている。ここでは「美しい乙女」、「若者達」、「日照りによる欠乏」が意味されていないことは明らかである。エレミヤ書において、
「私達の窓に死が昇った、私達の宮殿に死が来た。街路において子供を滅ぼすために、街から若者達を滅ぼすために、」9.21、同書において、
「私の栄光の町、喜びの町はどうして見捨てられないであろうか、それ故、そこの若者達はそこの街路において死んだ。」49.25, 26、50.30、同書において、
「凡ての民よ、どうか聞き給え、私の悲嘆を、私の乙女を、また私の若者達を、彼らは捕囚へ行った。」哀歌、1.18、これらの箇所の「若者達」は知性の真理として記述されている。